ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



門柱。静岡県静岡市清水区三保2110
2014(平成26)年11月28日

清水灯台のある海岸に「清水三保海浜公園」があり、そこに「甲飛豫科練之像」が建っている。その記念碑案内板によると、「甲飛豫科練」とは海軍航空隊の「甲種飛行予科練習生」のこと。昭和19年9月1日、清水航空隊が三保に開設され、予科練生14、15、16期生2700名がそこで訓練に励んだ。『ウィキペディア>清水海軍航隊』によると、第19連合航空隊に編入されたが、半年後の昭和20年3月1日に横須賀鎮守府隷下第20連合航空隊に転籍している。翌4月には上・水中特攻訓練に教程変更。6月30日に解隊。10ヵ月の存在だったわけだ。飛行機の訓練はなかったという。解隊後、生徒は他の突撃隊に行かされた。
甲飛豫科練之像が建立されたのは1985(昭和60)年8月で、建立者は「清水海軍航空隊所属/第14、15、16期海軍甲種飛行予科練習生一同/清水海軍航空隊清空会関係者一同」となっている。清水航空隊の施設は像のある海岸の背後の一帯にあったと思われる。「1947年頃の空中写真」に東西に長い家屋が30棟ほど写っていて、航空隊の宿舎かと思う。現在、そのうちの最も南にあった棟が残っているようだ。また、半島の内浜側に残っている特攻兵器震洋の掩体壕は清水航空隊の遺跡である。

清水海軍航空隊』の甲飛豫科練之像の写真は、道路の脇に建っている。その場所は三保半島を横断する三保灯台通りの「飛翔寮」の門の前に違いない。いつ三保海浜公園に移転したのだろう。

写真の門は豫科練之像の道路の向かい側、「焼肉センター」の横にあるもの。豫科練之像の間近にあるので、清水航空隊と関連付けたくなるわけで、また、「三保飛行場」の存在がなんとなく清水航空隊へ考えが及んでしまう、ということもある。普通に考えれば民家の裏門である。

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清水灯台
静岡県静岡市清水区三保2109
2014(平成26)年11月28日

清水灯台(三保灯台)は三保の松原の「羽衣の松」から2.5km程北にある。付け根から北へ延びる三保半島が西へ曲がる所で、清水港へ向かう船はみなこの灯台に向かって進むことになる。灯台のある半島の曲がり角は「吹合ノ岬」という地名がある。
清水町(現静岡市清水区)は、町の発展は清水港に寄る、ということで明治後期から国にも働きかけて清水港の整備を進め、その関連で灯台の建設にも熱心だったようだ。清水灯台は1912(明治45)年3月1日点灯式が行われた。逓信省航路標識管理所の設計施工で、日本初のRC造の灯台。高さ約18mで八角形平面をした割と小さな灯台だ。
2009(平成21)年2月に経済産業省の「近代化産業遺産」に指定され、2010(平成22)年11月には、「土木学会推奨遺産」の認定を受けている。そして2022(令和4)年9月に国の重要文化財に指定された。
清水区情報誌イノセント>平成24年3月しみず灯台』によると、建設当初の光源は「石油白熱灯」(石油を燃やすものだろうか?)、大正6年に電灯化された。光源を回転させる装置は、ワイヤの先に重りを付けたものが落ちる力を使っていたが、昭和29年に電動化した。灯台守はいろいろと忙しかったようだ。1995(平成7)年3月に無人化された。灯台の横に官舎があり、灯台守は家族でそこで暮らしたようだ。絵はがきに見られる官舎は、洋風の平屋の民家である。取り壊すこともなかったように思うが、勝手に住む人が出てくるのを恐れるのだろう。

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杉原畳店。静岡県静岡市清水区巴町8。2014年11月27日

当ブログ前回の「斉藤ふとん店」1枚目写真の左奥の家並みで、商店が並んでいる。右から、「杉原畳店、元(スナック?)、平屋の民家、仕舞た屋?、清水堂文具店、岡田屋(わさび漬)」。
杉原畳店は建物には看板がなくなっていて営業しているのか心配だが、2016年11月のストリートビューでは店先が覗けて、機械があり職人さんの姿が写っている。2018年に建物は取り壊されてしまって、現在も空き地のまま。街灯の「杉浦畳店」の看板は今もついたままだ。
「岡田屋」は看板に「静岡名産わさび漬/製造直売 老舗 岡田屋」とある。JR清水駅前に「岡田屋本店」、浜田町に「浜田町店」があるらしい。2023年3月のSVでは看板が外されていて閉店してしまったらしい。観光客はもちろん、人通りもあまりないような通りで、致し方なかったのかも知れない。


岡田屋わさび漬店。巴町8。2014年11月27日

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斉藤ふとん店。静岡県静岡市清水区巴町8。2014年11月27日

写真手前の通りは、清水区役所の南から西へ走っている県道407号静岡草薙清水線。右へ行くとすぐ巴川に架かる千歳橋で、写真右に静鉄バスの「巴町千歳橋」バス停がある。県道沿いに廃業した商店があり、信号のある交差点を南に入った2軒目の家が「斉藤ふとん店」。
ふとん店の建物は切妻造の平側を看板建築にしていて、戦後まもなくの建築と思うが、修理改造をしないまま来たような感じだ。壁や2階手すりの看板の文字(精綿 蒲團)が旧字。店舗の裏に別棟であるのが作業場と思われる。ネットには同じ住所で「斉藤精綿工場」という事業所が出てきた。
ストリートビュー(2023年3月)を見たら、店の中はなにもなくなって「貸駐車場」の看板が出ていた。



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三貴ビル。中央区銀座3-10。2010(平成13)年2月1日

昭和通りの西の裏通り(中京430号)で、写真右にあった建物(芙蓉ビル/三共㈱別館、林、めぐみ、みどうすじ)が取り壊されて、三貴ビルの全体が見えている。
三貴ビルは小さなビルだが、角を丸くして、各階のガラス窓も丸くして、水平にビル全体に回しているのが瀟洒で、人目を引いていたと思う。壁の文字は、通り側1階に「三貴ビルディング」と「青写真 / 東北工株式会社」、路地側の4階上に「靑寫眞 blue-print / 東北工株式會社」。青写真(あおじゃしん)というのは、主に建物・機械の設計図のコピーに使われた複写技法。1975年頃からは現行のコピー機に替わっていった。
昭和30年(1955)頃の火保図に、「銀座東三丁目2」の住所にある「三貴ビル(コンクリート造5階建)」と思われる。2011年頃に取り壊され、跡地は平屋の建物で営業する「紫龍」というラーメン店になった。

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川梅商店。中央区銀座1-24。1988(昭和63)年2月14日

写真手前が、新富町から新富橋を渡って銀座1丁目に入ったすぐの四つ角で、右奥への通りの向かい側は京橋公園。右手に銅板張り看板建築があるが、そこから手前の角の家まで、戦前築の看板建築と思われる。現在も銅板張りの家が「鮨 石島」になって残っている。その手前は「銀座マスキービル」(1992年11月築、8階建)と「パークサイド銀座」(1993年4月築、9階建)というオフィスビルに建て替わっている。
「川梅商店」は、そのHPによると、「創業以来「生かんてん」を中心としたあんみつ材料、和甘味食材の製造卸販売会社」。本社と店舗が築地3丁目にある。創業は1899(明治32)年。写真の店舗(兼工場?)は関東大震災で被災した後、1924(大正13)年に再建したもの。1966(昭和41)年に本社を築地へ移転する。「1983(昭和58)年「Sweet Shop KAWAUME」現住所(築地)に移転」ともあるから、それまで写真の店舗が使われていたのかもしれない。
昭和30年頃の火保図では、住所は「銀座東1-15」で、写真左から「桜井印房、川梅ミツ豆材料、砂場そば、木挽町食料配給所」。砂場は昭和10年頃の火保図に「そばや」とあるから戦前からの店だったのかもしれない。銅板張りの家は米屋だったわけだが、1986(昭和61)年の地図でも「中央精米」。

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