ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




旭冷蔵庫。中央区築地5-2。2000(平成12)年1月14日

築地市場敷地の南東角に近いところにあった冷蔵庫。住宅地図では「旭冷蔵工業㈱」と会社名になっている。『築地市場』(福地享子+築地魚市場銀鱗会著、朝日新聞社、2018年、2700+税)には「1954年〈昭和29年〉にできた冷蔵倉庫。船に氷を積むにも便利な場所にあった」とあり、戦後も早い時期に建てられた建物の一つらしい。その1954年は、3月16日に焼津から被曝マグロが入荷して、市場はパニックになった。魚の需要が一気に冷え込んだという。当時ぼくは小学4年生だったが、友達との間で水爆実験の話題が出たことを覚えている。
旭冷蔵庫は築地市場が閉鎖される以前、2014年に取り壊された。



旭冷蔵庫西側。2000(平成12)1月14日

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事務所棟、東御冷蔵庫、東京都冷蔵庫
中央区築地5-2。1990(平成2)年4月7日

上の写真は築地市場水産物部本館と築地川の間に並んでいた冷蔵庫などの建物。手前から、日本通運東京市場支店や築地氷販売などが入る3階建ての事務所棟、写真中央が「東御冷蔵庫」、右後方が「東京都冷蔵庫」。左写真は事務所棟と東御冷蔵庫を裏側から撮ったもの。
事務所棟と東御冷蔵庫は、1963(昭和38)年の航空写真に写っているので、昭和30年代に建てたものと思う。東京都冷蔵庫はそれらより新しそうだが、なにも分らない。
事務所棟はたぶん「仮設卸売場A1棟」を建てる際(1995年頃か?)に取り壊されたのかと思うが、東御冷蔵庫、東京都冷蔵庫は築地市場が閉鎖されるまで建っていた。




東御冷蔵庫、東京都冷蔵庫。2017(平成29)年7月15日

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青果部第二別館、定温倉庫
中央区築地5-2
2017(平成29)年7月15日
左:グーグルマップ航空写真より

築地市場の敷地の西北角になるところ。上の写真ではどういう建物なのかよく判らないので、グーグルマップから、上から見下ろした画像を載せた。その航空写真でいうと、左上が浜離宮庭園と築地川、川に沿ったビルが「定温倉庫」、写真中央(1階建てと4階建て)が「青果部第二別館」、その上のアパートのようなビルが「青果部別館」、右下が「青果部本館」。
定温倉庫とは野菜の貯蔵庫で、鮮度を保つために5度前後の温度にしている。1963(昭和38)年の航空写真ではまだないので、昭和40年代の建築のように思われる。
青果部別館は卸売業者や関連業者の事務所を入れた建物。1963(昭和38)年の航空写真にすでに写っている。
青果部第二別館の1階は青果部第3卸売業者売場で、2階以上が事務室になっているらしい。1階屋上は駐車場になっている。2005年に耐震改修工事をしていて、その実施業者『東建築設計事務所』の記事によると、昭和40年に建てられている。

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小林商店。埼玉県川越市松江町2-1。1989(平成1)年9月18日

川越キリスト教会のある川越街道だが、教会を中心にその北から南にかけて古い商家がまだ結構見られる。写真は教会から75mほど南へ行った辺り。写真中央の小林商店の右に横丁が入っていて、その右が「小川藤(おがとう)」という鰻屋。写真左の蔵が「重兵衛蔵」、その左には「中島家」と「川越商工会議所別館」「芋十」と並んでいるから、歩いてみる価値はある。通りには「松江2商店会」の街灯が並んでいる。この街灯は2011・12年頃に撤去された。
小林商店は「小林建築設計事務所/設計・監理/住宅設備機器・販売・施工」の看板もある。洋風の看板建築だが戦後の建物かもしれない。2017年に住宅に建て替えられた。
小林商店の左の洋風看板建築も、横を見ると割と簡単な造りで、そう古い家でもなさそうに思える。写真左端の蔵は、その前面の下屋に「横重本店倉庫」の文字が読める。



左:小川藤、松江町2-3。右:中島家、横重本店・重兵衛蔵、松江町2-1
ストリートビュー(2017年3月)より

川越市>景観重要建造物/都市景観重要建築物』によると、「小川藤(おがとう)」は昭和6年に鰻屋として建てられた。2階も最初から食事処として造られたということだろ。そのため「外観は一般の町家と大きく異なっています。道路に面した正面は、1、2階の壁がそろっており、2階はガラス戸で手すりがついています。小割に入ったガラス戸の桟も特徴です」とある。
「横重本店「重兵衛蔵」」は明治33年の建築で、隣の中島家主屋の袖蔵。「棟木に残る墨書きには、当時の名工である関根松五郎の名が記されています」とある。
「中島家」は明治末~大正初期の建築。「当家は少なくとも元禄時代から続く名家で、米問屋をしていました。全体的に太い材木を使った堂々とした伝統的な町家建築です」とある。

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川越キリスト教会。埼玉県川越市松江町2-4
上:1984(昭和59)年5月4日
左:1989(平成1)年9月18日

東西の仲町通りが、東端で南北の川越街道(県道51号)に突き当たる三叉路にあるのが「川越キリスト教会」。「日本聖公会北関東教区」に属するプロテスタントの教会である。
『ウィキペディア』では、1921年(大正10年)に建てられた。設計はウィリアム・ウィルソン。「東西に細長く切妻造の平屋建で外壁煉瓦造。内部は挟梁の洋小屋組で、尖塔アーチのついた縦長の窓や控壁などにフランドル式のゴシック様式が見られる。」とある。『国指定文化財等DB>日本聖公会川越キリスト教会礼拝堂』から補足すると、「スレート葺、塔屋付、チューダー様式」、W.ウィルソンは「立教大学新築のため来日したアメリカ人建築家」。
写真右手に下見板の小屋が写っている。今は撤去されて、礼拝堂の控壁のある横側がよく見えるのだが、撮影時には小屋のために隠されていたと思われる。1枚目写真左奥の商家は「松岡屋葬具店」の看板を出している。電柱には「川越電報電話局」の看板が。

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原田家住宅。埼玉県川越市松江町2-8。1984(昭和59)年5月4日

仲町通りを東へ行って松江町2丁目に入ると、蔵造りや出桁造りの古い商家はほとんどが建て替わっていて、駐車場になっている場所も多く、どうということもない町並みになってしまう。そんな中に原田家住宅の店蔵が目立っていて、観光客もここまでは見に行くだろう。
写真ではまだ出桁造りの商家が立ち並んでいるが、そんな中でも原田家住宅の店蔵がやはり異彩を放っている。写真右は「伊勢元(いせもと)酒店」、写真左の電柱に看板があるのが「青果問屋 加藤商店」だから八百屋だろう。原田家は「川越指定文化財 原田家」の表札を出している。



原田家住宅。1984(昭和59)年5月4日

カワゴエール>原田家住宅』によると、原田家がある通りには、江戸期から戦前まで米問屋が軒を連ね、その中でも取引高トップだったのが原田家の「足立要」(屋号)だった。いつ頃まで商売をやっていたのだろう? 店蔵は明治27年の建築で間口4.5間、奥行き3間。外観は「巨大な鬼瓦とカゲ盛。背の高い箱棟。重厚な6段の観音扉、土蔵壁で覆われた戸袋」が特徴。
店蔵の裏に母屋と文庫蔵、中庭を隔てて穀蔵が2棟あり、現在なら店蔵の両側が駐車場で、わりと見通しがいいからそれらの蔵を見ることができる。



原田家住宅。1989(平成1)年9月18日

この写真では伊勢元酒店の建物が取壊し中だ。街灯には「松江2商店会/原田定吉」の看板がついている。

追記(2022.10.15)
最近、『川越の建物 蔵造り編』(仙波書房、2022年9月、税込2,200円)が出版された。蔵造りの建物18点を取り上げて、きれいなイラストと共に解説されている。以下に「原田家 住宅」の米穀問屋ついて述べられた箇所を紹介する。
1924(大正13)年に川越商業会議所が発行した「川越案内」に「米国問屋 原田要吉」の広告が載っている。武州川越市志義町の本店の他に、南佐久間町の「原田肥料部」と、東京市小石川区水通町の「東京出張所」があったことが分る。肥料部は三久保町のゲストハウス「ちゃぶだい」になって建物が残っている。
1939(昭和14)年に「米穀配給統制法」が公布され、「足立要」は1943(昭和18)年に廃業した。建物は2021(令和3)年に川越市文化財保護課が管理するようになる。

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川越商工会議所。埼玉県川越市仲町1。1989(平成1)年9月18日

仲町通りと大正浪漫通りが交わる角に建つ重厚な銀行建築。1998年10月に国の登録有形文化財になった。『文化庁>国指定文化財等データベース』によると、1928(昭和3)年に建ったRC造2階地下1階建のビル。武州銀行川越支店として建てられた。設計は前田健二郎(1892~1975)、施工は清水組。1970(昭和45)年に川越商工会議所が建物を譲り受けた。
外観の特徴として「ドーリス式の列柱を配した重厚な構えになるが、全体の意匠はルネッサンス・リバイバル様式とする。交差点側にバロック風の装飾を付けた特徴的な出入口を設けるなど、時代の特徴を伝える銀行建築の一つである」としている。
古典主義様式かと思っていたら「ルネッサンス・リバイバル(ネオルネッサンス)建築」だという。『ウィキペディア』には「19世紀前半からヨーロッパで始まり、日本を含む世界へ波及した建築様式で、ずっと以前のルネサンス建築に基づきながら当時の荘厳さや各地の新しい建築方式を織り交ぜたもの」とある。

玄関の左の街灯に「銀座商店街」の看板が付いている。「大正浪漫通り」に改称したのは1995(平成7)年である。

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亀屋山崎茶店。埼玉県川越市仲町2。1984(昭和59)年5月4日

亀屋山崎茶店は、一番街商店街の南端、仲町交差点を東へ入った仲町通り(仲町商店街)にある老舗の葉茶屋。通りには間口の広い店蔵と袖蔵、煉瓦造のアーチ門が並んでいる。亀屋山崎茶店の西に並んで「仲町観光案内所」(旧笠間家住宅、蔵造り商家)とうなぎ屋の「林家」(出桁造り商家)の古い建物が並び、その向かい側に「川越商工会議所」もあって、観光には欠かせないスポットである。
亀屋山崎茶店は『旅に行き隊!>亀屋山崎茶店について』によると、1877(明治10)年に和菓子の「亀屋」より分家して現在地でお茶屋を創業の商いを始めた。通称「お茶亀屋」で、和菓子の方を「もち亀屋」というそうだ。
店蔵(住居も一体)と袖蔵は1905(明治38)年の建築。店蔵は間口6間奥行8間で川越最大級の蔵造り。二階の格子窓が大きく開いていて防火上はどんなものなのだろう。明治26年の川越大火から12年も経って、明るい部屋にするほうを優先するようになったということだろうか。『川越大蔵 茶陶苑』には「周囲に黒漆喰の重厚な蔵が多い中で、当時から軽やかで洗練された瀟洒な雰囲気を漂わせていました。銀灰色の瓦は京都の一文字瓦を配し、正面の窓は横長開放型で、千本格子をはめ込んだ京風の繊細なデザイン」とある。
アーチ門の奥には「大蔵」という1850(嘉永3)年に建てられた大きな蔵が残っていて「茶陶苑」という陶磁器のギャラリーになっている。



金久眼鏡店。川越市仲町2。1989(平成1)年9月18日

亀屋山崎茶店の隣は「金久眼鏡店」と「朝倉電気商会」があった。金久眼鏡店は撮影時にはすでに廃業してしまっているように見える。正面の造りは戦前のものかと思えるが、家そのものはそう古いものではなさそう。朝倉電気商会は、現在のうなぎ屋「深井屋」が元の家に戻すように改修しているらしい。

追記(2022.10.10)
最近、『川越の建物 蔵造り編』(仙波書房、2022年9月、税込2,200円)が出版された。蔵造りの建物18点を取り上げて、きれいなイラストと共に解説されている。以下に「亀屋 山崎茶店」の瓦とその葺き方について述べられた箇所を紹介する。

建物に使われている瓦は「京瓦」で、瓦を焼く前に「磨く」と「燻す」の工程が入る。そのため普通の瓦にはない、銀色の光沢が出る。軒先は「一文字軒瓦」で一直線に揃えてすっきりと見せている。施行に手間がかかり高価になってしまうせいか、他ではほとんど見られない造りだ。

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上:富士の湯。台東区橋場2-21
ストリートビュー(2016年2月)より
左:二軒長屋。橋場2-21
2019(平成31)年4月13日

明治通りの清川二丁目交差点から都道314号を南にいったすぐのところに「富士の湯」という銭湯がある。昭和の始め頃に創業したということで、建物も創業時のものと思われるが、正面からみたところではなんとも地味である。現在の正面の入口左右の壁は増築した部分であるらしく、そのため平面的になってしまったようだ。
富士の湯の右、路地を挟んで戦前築の二軒長屋がある。その路地を入った富士の湯の裏手にはやはり戦前築と思われる平屋の長屋が数棟残っている。


宮本紙器。橋場2-11
2019(平成31)年4月13日

富士の湯の南の横町を東へ入ったところ。宮本紙器の屋根は寄棟屋根の半分なので、元は隣の家との二軒長屋だったのだろう。硝子戸に貼られたポスターは、共産党、幸福実現党、公明党といろいろ。政策が対立していると思われる政党が並んでいるので、空き家に勝手に貼られたのかとも考えたが、路地に作業で出たと思われるごみが出ている。

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S家。台東区橋場2-22。2019(平成31)年4月13日

写真右が明治通りの清川二丁目交差点で、角はうなぎの「筑波屋」。S家は入母屋屋根の日本家屋。商家だったようで、正面は戦後の改修のようだが簡単な看板建築風の造りにしている。戦前からある建物だろう。
写真の家並みの裏通り、同じ橋場2丁目22番地に「平賀源内墓」がある。橋場の名所であるが、あまり知られていないかもしれない。平賀源内といえば「エレキテル」で、ぼくは彼が静電気の正体をどう考えていたのかに興味がある。『ウィキペディア』には「陰陽論や仏教の火一元論などで説明しており」とあり、とても学問としての体系には至っていないようだ。「土用の丑の日はうなぎ」を平賀源内が言い出した、という話も有名で、筑波屋につながる。



石浜荘。ストリートビュー(2018年4月)より

S家の裏に古い木造家屋が見えている。三軒長屋だ。あまり改修の手が入っていない様子で、かなり原形を留めているように思える。「石浜荘」は1966年の住宅地図から。旧町名が浅草石浜町だった。

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