ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





夢時庵(ムージャン)
千葉県香取市佐原イ3403
2003(平成15)年7月20日

夢時庵は忠敬橋(ちゅうけいばし)から小野川沿いにすぐ北にあるフランス料理のレストラン。夢時庵の開店は2008年なので撮影時は、正上(しょうじょう)醤油店だった店舗と蔵、ということになるかと思う。
ネット上では建物の情報は「明治34(1901)年の建築」ということしか得られなかった。店舗と土蔵が一体になった建物で、おそらく元は別だったのを改修してひとつにしてしまったのではないかと思える。店舗の横の、正上醤油店のマークが描かれている壁は土蔵造りに見えるが、これも改修によるのだろうか。今は壁に折釘が取り付けられて、いよいよ土蔵に見える。

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正上醤油店。千葉県香取市佐原イ3406
2003(平成15)年7月20日

小野川の忠敬橋(ちゅうけいばし)から小野川沿いに北へ100mほど行ったところ。小野川沿いの国指定重要伝統的建造物群保存地区の代表的景観である。旧町名だと小野川右岸の「本宿」の「本町」。
正上(しょうじょう)醤油店は、その説明板によると、寛政12年(1800)年に食用油などを商う「油庄」として創業し、天保3年(1832)に醤油業を始めた。店舗は天保13年(1842)年の建築。佐原では最古の建物になるらしい。「通りより3尺内側に揚げ戸(鎧戸)を建て込み、奥の住居との境には千本格子障子を嵌める。2階正面に繊細な格子窓を組み、屋根は軒先を大きく張り出した品格ある建物。奥座敷には、さび壁、曲がり戸(カラクリ戸)など匠の技が光る」ということである。土蔵は明治初期の建築。寄棟屋根が土蔵としては珍しいかもしれない。現在は正面の壁は黒く塗られている。
店の前の小野川の「だし」(船着き場)は昔からのものが残されている。小野川のだしは多くが失われたらしい。護岸整備のためというが、たぶん子供の事故を心配してのことではないかと思う。正上醤油店の人が少しは保存しなくては、と運動したらしい。今になって復元したりしている。



正上醤油店。2003(平成15)年7月20日

正上醤油店今でも醤油は別の場所でほそぼそと造ってはいるらしいが、昭和30年頃から「いかだ焼」などの佃煮の製造を始め、今はそれが主要な商品で、観光客に人気だ。
土蔵の左が今の「正上いかだ焼本舗」の販売所。写真では入口を除いて大谷石の壁で塞がれたようになっているが、東日本大震災後の改修で壁は取り除かれた。ゆるいアーチ型の門は店舗と土蔵の間に移された。



上の図は『香取市の維持向上すべき歴史的風致』から流用した『大日本博覧図 第11編』(精行社・明治29年、常総市所蔵)の「加瀬庄次郎宅」。ここに描かれている建造物のうち、赤字の「店舗・土蔵・だし」が今でも残っているわけだ。敷地もその大部分は維持しているように思える。

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木の下旅館。千葉県香取市佐原イ498
2003(平成15)年7月20日

町並み観光中央案内処(金利)から数軒北へ行ったところの商人宿。「NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会」の説明板によると、建物は明治34年(1901)に建てられている。それ以前から船宿を営んでいたという。江戸期から河港商業の町として栄えていた佐原だから、宿屋も多くあったと思われるが、伝統的な日本家屋の旅館として残っているのはほとんどないらしい。説明板には「建物はガラス窓が普及した明治末の特徴が見られる。1階の格子窓下には大正期と思われるタイル張りが、右の壁には鉄板の道案内と天水桶が懐かしさを感じる」とある。電話室なども大正期以降の改装ではないかと思う。外から見ると天水桶に目が行くが、その後ろの「水郷佐原市略図」にも注目ということだ。
2018年10月とごく最近のことだが、ついに旅館業はやめてしまい、とんかつ屋を始めた。今は「お食事処 木の下」の暖簾が出ている。



木の下旅館。2003(平成15)年7月20日

木の下旅館の向かって左隣の家は、1階が全て硝子戸になっているが、今は建築時の造りに改装したのだろうか、格子戸の玄関、格子戸の窓に戸袋に変わっている。写真左端にはガレージがわずかに写っている。今はこれも取り払って古い様式の門になっている。
ガレージの左にあったのが下の写真の建物。バーかスナックだろう。壁はきれいなので撮影時では営業していたのかもしれない。今は取り壊されて、裏の通りに抜けられる路地になっているようだ。
上の写真で右の家は鉄板貼りの看板建築のような家で、玄関上の壁に「パーマ」の字がかすかに残っている。


町並み観光中央案内処と木の下旅館の間にあったバー。2003(平成15)年7月20日

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町並み観光中央案内処。千葉県香取市佐原イ498。2003(平成15)年7月20日

忠敬橋から小野川の左岸の河岸を下流(北)へ100mほどのところに「町並み観光中央案内処」があり、それと接して2軒の古い町屋が並んでいる。
「NPO法人小野川と佐原の町並みを考える会」の説明板によると、「金利」という商家だった建物。天保2年(1831)に金田利兵衛が創業して、奈良漬を製造した。佐原は酒の醸造業が盛んで、その関係で奈良漬が名物だった。店舗は切妻平入2階建て、明治後期の建築で裏に昭和初期の平屋部分を増築している。敷地奥には土蔵がある。
東日本大震災では、店舗の被害は少なかったようだが、土蔵は屋根瓦が落ち、漆喰壁も剥落した。
写真では公衆電話があり、「観光客無料御休み処」の看板が置かれている。隣の家には「クリーニング」の看板。



町並み観光中央案内処。2003(平成15)年7月20日

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旧油惣商店。千葉県香取市佐原イ503。2003(平成15)年7月20日

撮影時は佐原(さわら)市で、2006年3月に小見川町(おみがわまち)、山田町(やまだまち)、栗源町(くりもとまち)と合併して香取市が発足した。住所は新住所で表記するが、佐原市が香取市佐原と変わっただけだと思う。
旧油惣(きゅうあぶそう)商店は、香取街道の、小野川に架かる忠敬橋のすぐ下流の河岸にある。佐原市街の中心といっていい場所だ。旧町名だと「新橋本」。
「旧油惣商店」の名称だが、元は油惣商店だったが商売をやめたので「旧」をつけたのだか、元々、旧油惣商店という店名だったのか判然としない。あるいは新旧の旧の意味ではないのかもしれない。
千葉県>旧油惣商店』によると、「江戸時代中期の寛政年間(1789~1801)に佐原の町の中心部である現在地に移り住んだと伝えられ、江戸時代には酒業や奈良漬けの製造を行い、明治になってからは、東京へ運ばれる米・砂糖・下り酒を扱う問屋を営んできた」という商家。『るるぶ&more.>旧油惣商店』では、「寛政6年(1794)創業の旧油惣商店は江戸中期安永9年(1780)、本地において酒造業を始め、その後寛政年間より佐原で初めて奈良漬を始めている」とある。

店舗は「間口3間半、奥行き5間半の大きさで、明治33年(1900)の大火の後に再建されたものである。木造2階建て、瓦葺寄棟造の建物で、間取りなどは建築当時の特徴を良く伝えている」(『千葉県>旧油惣商店』)。「寄棟妻入の佐原では珍しい総2階の建築」(『るるぶ&more.>旧油惣商店』)。
土蔵は「切妻平入の2階建て、桟瓦葺で屋根裏を含めると3階建ての建物で、梁には、「寛政十戌牛歳九月立之大工佐吉立之」と墨で書かれており、寛政10年(1798)に建築されたことが判明している」(『千葉県>旧油惣商店』)。佐原では最古の土蔵になるしい。



旧油惣商店。2003(平成15)年7月20日

ストリートビューを見ると2012-2015年では、東日本大震災での損傷を修復するためのものと思える工事の足場(店舗)とシート(土蔵)が架かっている。現在の外観はその修復によるものと思える。土蔵の前の下屋に格子戸が取り付けられ、シャッターが黒漆喰の壁に替わったりしている。

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左:清寿軒。中央区日本橋小舟町9。2004(平成16)年2月15日
右:看板建築の民家。日本橋小舟町9。1996(平成8)年5月6日

昭和通りの江戸橋北交差点から東へ、小舟町(こぶなちょう)交差点、人形町交差点を通っていく通りは、特に名称はないようだが、地元の人は「芳町通り」と言っている。『東京路上細見2』(林順信著、1987年、平凡社、1900円)で、著者は当然のようにこの名称を使っている。芳町通りの小舟町交差点から東へ2本先の横町を北に入った所にあるのが和菓子の清寿軒。今は堀留1丁目のビルに移っているが、旧店舗の写真の家はそのままで残っている。
建物は出桁造りといっていい外観なのだが、2階の壁や出桁は漆喰で塗り固めている。「塗家造り」なのかもしれない。清寿軒は1861(万延2年/文久元年)、日本橋堀江町(現小舟町)に創業したという老舗。桜田門外の変の翌年である。現在は7代目。どら焼きが人気だ。

清寿軒の前を右(北)へいくと「たぬき鮨」という古い一軒家のすし屋がある。その裏側にあったのが右写真の看板建築。両端の柱型上部に棒を束ねたようなレリーフが付いている。現在は取り壊されて駐車場になっている。

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上:ふじはら、1989(平成元)年10月1日。
左:玉龍亭、2016(平成28)年4月23日
中央区日本橋小舟町11

1枚目の写真は昭和通りの江戸橋北と本町二交差点の間の横町を東へ入ったところで、右(東)へ行くとすぐ堀留児童公園の西の入口。
1986(昭和61)年の地図では、写真左手の3階建ての銅板葺きの建物が「おもだかや」で、看板などから居酒屋のようだ。その右の白い看板建築は「ふじはら」。看板の文字を無理やり読んでみると「沖縄伝統工芸」と書いてあるらしい。その右の家は「丸美染織㈱」。さらに右の家から次の角までは五軒長屋で、地図では「石美商事㈱、㈲美選、アミ」とあって、長屋の端が中華料理の「玉龍亭」。
玉龍亭は数年前に閉店したらしいが、1966(昭和41)年の地図に載っているから、まあまあ永く続いてきた店だ。今は袖看板もなくなったが、角の入口の右には相変わらず鉢植えが置かれている。隣の「家庭料理、かめ」はいつ頃の開店だろう?
現在、五軒長屋は玉龍亭とかめの二軒を残して「永昌堂ビル」(永昌堂印刷)になった。また、おもだかやとふじはらの建物は取り壊されて駐車場になっている。

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左:中央香料。中央区日本橋小舟町6。1985(昭和60)年4月28日
右:株式会社中川。日本橋小舟町6。1989(平成元)年10月1日

昭和通りの本町二丁目交差点を東に入るとすぐ小倉ビル(旧ビルは『小倉ビル/小舟町』に)がある。そのビルの後ろにあったのが「中央香料」の出桁造りの商家。中央香料はそのHPによると、明治15年に日本橋本石町に「松澤常吉商店」として創業した。香料の輸入から始まり、明治30年頃には香水や石鹸を製造販売している。昭和28年に日本橋小舟町に移転してきた。
現在は「エクセレント三越前」(2000年7月築、11階建51戸)というマンションに替わった。
中央香料の前を右(南)に行ったところに「株式会社中川」がある。現在も二階建ての店舗なので、写真の出桁造りの家を建て直したのか、あるいは改装したのかもしれない。文具を扱う店で、近所の会社に文具を収めているのだろうか。昭和30年頃の火保図には分かりやすく「中川文具店」となっている。


ちきり屋。日本橋本町小舟町7
1987(昭和62)年5月24日

中川からさらに南へ行った同じ通り、次の街区にあった商家。昭和54年の住宅地図に「ちきり屋」となっているが事業の内容は不明。建物の両側に防火壁と思われるそで壁が出ている。形は違うが中央香料にもそれがある。
現在は7階建てのビルに替わった。

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長助、満留賀。中央区日本橋本町1-8
1989(平成元)年10月1日

昭和通りの江戸橋北交差点から1本北の横町を東へ入ったところ。「長助」はとんかつなどの揚げ物の洋食屋。看板を見ると元は日本料理屋だったのかもしれない。「生蕎麦満留賀」は入り口を自販機が塞いでいて営業はしていないようだ。長助と満留賀は戦前からある看板建築と思われる。
現在は写真右のアズマビルはそのままだが、長助と満留賀はそれぞれ3階建ての住宅風のビルに建て替わっている。長助が建て替わった時期は知らないが、新店舗で2015年頃まで営業していたようだ。満留賀が建て替わったのは2015年で、その後商売を再開したが、今はネットに出ていないのでは閉店してしまったらしい。勝手な推測だが、店主の高齢化によるのだろうか。

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わかい食堂、津多屋。中央区日本橋本町4-2。1987(昭和62)年9月13日

昭和通りの、江戸通りとの本町三丁目交差点の1本北の横町を東へ入ったところ。今は「時の鐘通り」という名称がついている。写っている建物は1986年の住宅地図で、右から「ヤマヨ、わかい食堂、津多屋、境野香料店」。
現在、洋食屋の津多屋だけが残っていてその両側は駐車場にしてある。まとめてビルにする計画で津多屋がどくのを待っている状況かと思える。その津多屋が2014年に外回りを改装しているが、内部は昔の儘、つまり住宅の居間で食べさせていたようだ。ところが最近、閉店したようである。
『食べログ』にも書かれているが、津多屋は元肉屋。昭和7年の火保図に「肉ヤ」、昭和30年頃の火保図に「津田(ママ)肉店」の記載がある。とんかつも揚げていたのだろう。いつのまにか、それを店の奥で食べさせるようになったのだという。
「わかい食堂」はどんな店だったのか不明。昭和50年頃から昭和末の営業だったと思われる。

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