あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

47 二・二六事件行動隊裁判研究 (二) 『 第六章 将校班の審判 1 』

2016年03月12日 19時50分37秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第45号 ( 1997年12月 )
論説
二・二六事件行動隊裁判研究 (一)
松本一郎

第一章  序説
第二章  反乱の陰謀
第三章  出動命令
第四章  反乱行為の概要  ( 以上第四五号 )
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獨協法学第47号 ( 1998年12月 )
論説
二 ・二六事件行動隊裁判研究 (二)
松本一郎
第五章  訴追
一  幹部に対する訴追
二  准士官 ・下士官の訴追
三  兵に対する訴追
第六章  将校班の審判
一  軍法会議の構成
二  将校班の審理経過
三  論告 ・求刑
四  被告人らの主張
五  判決
第七章  下士官班の審判
一  審理の経過
二  被告人らの弁明と心情
三  論告 ・求刑
四  判決
第八章  兵班の審判
一  審理の経過
二  判決
第九章  終章  ( 以上本号 )

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第六章  将校班の審判

一  軍法会議の構成
反乱実行者に対する東京陸軍軍法会議の審判は、四班に分けて行われた。
第一班が元将校 ( 村中 ・磯部 ・澁川 ・山本を含む )、
第二 ・三班が元准士官 ・下士官 ( 襲撃場所によって、甲乙の二班に分ける )、
第四班が兵及び湯河原襲撃組の審判を担当した。
もっとも、第四班の兵と湯河原組の審判は、別々に行われている。
以下では公判記録に従い、
第一班を将校班、第二班を下士官甲班、第三班を下士官乙班、第四班を兵班と称する。
東京陸軍軍法会議には、このほかに第五班が常人 ( 民間人 ) 担当として設けられている。
この班では、反乱首魁の北輝次郎 ・西田税、
反乱者を利する罪 ( 判決では反乱謀議参与と認定された ) の亀川哲也たちが裁かれた。
公判は一切公開されなかったが、師団長その他の要職と憲兵など一部の職務関係者は、
特別傍聴人として傍聴が許されていた。
審判機関すなわち各軍法会議は、
現役陸軍将校のうちから任命された判士四名と陸軍法務官一名とで構成され ( 陸会四七条 、四九条 )、
最上級の判士が裁判長を務めた。
判士は、広く陸軍省 ・参謀本部 ・教育総監部 ・隊付将校などから選ばれているが、
興味深いのは、陸軍大学卒業のいわゆる天保銭組 ( キャリア ) と無天組 ( ノンキャリア ) の人数が拮抗しており、
各軍法会議の判士は、すべて二対ニの同数で構成されていることである。
これは、隊付将校たちの陸大卒業者に対する反感 ・不信感に配慮してのことであろう。
反乱軍の元将校たちは、陸大在学中に免官となった村中を含めて、全員が無天組であった。
公判は、被告人らが収容されていた東京衛戍刑務所に隣接して久造された、仮説建物内の公判廷で行われた。
法廷正面の一段高いところに、裁判官が裁判長を中央にして着席し、
その一端に検察官が、他端に録事 ( 書記官 ) が列席していた。
被告席は、白砂を敷き詰めた土間に並べられた木製のベンチで、文字どおりの 「 御白洲 」 裁判であった。
建物は有刺鉄線で囲まれ、入口には衛兵所が設けられていた。
開廷日には、周囲の要所にバリケードを作り、土嚢を積み、機関銃を据え付けた部隊が警戒に当たるという、
物々しい雰囲気であった。
被告人たちはこの厳重な警戒の中を、鉄鎖につながれて法廷に出入りした。

二  将校班の審理経過
  将校班で審判された被告人二三名は、すべて反乱実行部隊の幹部である。
  反乱首魁として起訴された者は 村中 ・磯部 ・香田 ・安藤 ・栗原の五名、
反乱謀議参与は 澁川 ・對馬 ・竹嶌 ・中橋 ・坂井の五名、
反乱群衆指揮は 丹生 ・田中 ・中島 ・安田 ・高橋 ・麥屋 ・常盤 ・林 ・鈴木 ・清原 ・池田の一一名、
諸般の職務従事者は 今泉 ・山本の二名であった。
裁判長は、陸軍騎兵大佐石本寅三 ( 陸軍省調査班長、大正一一年陸大卒 )、
法務官は陸軍法務官藤井喜一 ( 近衛師団軍法会議 )、
判士は陸軍歩兵少佐村上宗治 ( 熊本陸軍教導学校 )、陸軍歩兵少佐川村参郎 ( 陸軍省軍務局、大正一三年陸大卒 )、
陸軍歩兵大尉真野俊夫 ( 陸軍兵器本廠 ) であり、
補充裁判官として陸軍航空兵大尉河辺忠三郎 ( 下志津陸軍飛行学校、昭和八年陸大卒 ) が審理に参加した。
立会検察官は陸軍法務官竹沢卯一 ( 近衛師団軍法会議 ) で、
ときに陸軍法務官宮本吉三郎 ( 第一師団軍法会議 ) が加わっている。
軍法会議の常として、被告人尋問 ・証拠調べ及び訴訟指揮は、
法律専門家である法務官が裁判長に代ってこれを行った ( 陸会三九五条 )。
公判手続きと訊問の内容は、公判に列席した陸軍禄事によって記録され、公判調書が作成されている。
しかし、調書は要約調書であるから、関係人の陳述 ・供述のすべてが記載されているわけではない。
ことに、訴訟の進行に関する被告人と裁判官のやりとりは、そのすべてがカットされている。
これを窺うことができるのは、法廷を傍聴した憲兵の東京憲兵隊に対する 「 東京陸軍軍法会議公判状況 」
と題する報告書である。
・・・(1)  前掲秘録第三巻85頁以下 
( ・・・ リンク → 
東京陸軍軍法会會議公判狀況 『 憲兵報告 』 )
以下では、必要に応じてこの報告書も参照する。

二  公判審理は、「 成ルベク速ニ公判ヲ終了スルコトニ努ムル 」 という軍の方針に従い、
  昭和一一年四月二八日の第一回公判から同年六月五日の第二四回公判に至るまで、
連日のように集中的に行われている。
第一回から第二〇回までは被告人尋問に当てられ、第二一、第二二回に書証の取調べを行い、
第二三回に論告 ・求刑と被告人一五名の最終陳述、第二四回に残りの被告人八名の最終陳述を行って結審した。
被告人尋問の最初に指名されたのは 村中、次いで磯部であった。
このことは、軍法会議がこの二人を事件の中心人物とみていたことを意味している。
法務官が、村中の事件の原因 ・動機などについての陳述を制限し、事実関係についての尋問に絞ろうとするのをみて、
磯部は第二回公判の休憩時間中に、村中に対して引き延ばし作戦を耳打ちする。
裁判官は、公判即決主義によってわれわれ少数者を極刑に処するつもりだ、
これを防ぐには、手がつけられないくらい関係者の範囲を拡げるしかない、
そのためには、まず時間稼ぎが必要だ、
貴兄は敵の情況をも偵察しつつ、かつ、同志教育の必要もあるから、
なるべく詳しく、ゆっくりと陳述してほしい、というのである。
・・・(2) 前掲 『 二 ・二六事件  獄中手記遺書 』 365頁
(
・・・リンク → 獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」  )
磯部の方針を諒解した村中は、第三回公判 ( 五月二日 ) の冒頭で裁判長に対して、
われわれは弁護人を許されていないので自分で弁護人の役目も果たさねばならず、
しかも弁護人と異なり身体の自由を有しないから、
弁護の資料を得ることができないという不利な立場にある、
これらをご了察の上陳述の機会を十分に与えられたいと要望している。
また、この日村中は腹痛を訴えて休憩を求め、
午後はわずか三〇分で開廷されているが、あるいはこれも引き延ばしの作戦の一つであったかもしれない。
「 東京陸軍軍法会議公判状況 」 によると、第四回公判 ( 五月四日 ) の際に、
村中 ・對馬 ・澁川がこもごも公判進行に関して意見を述べ、「 緊張したる場面を現出せり 」とある。
・・・(3) 前掲秘録第三巻93頁以下 
( ・・・ リンク → ・ 憲兵報告・公判狀況 3 『 村中孝次、對馬勝雄、澁川善助、磯部淺一 』 )

また、当日から訊問が始まった 「 磯部は、溌剌たる元気を以て・・・・検察官の公訴事実を反駁すると共に、
裁判官に喰ってかかり、廷内に緊張の空気を漂わせたり 」 とも記載されている。
磯部の 「 獄中手記 」 によると、澁川が涙して怒って異議を述べるや、
藤井法務官は怒声一番、「 今はお前に訊いているのではない、引っ込んでいろ 」 と発言を封じ、
對馬は 「 こんな裁判は早く片づけて下さい 」 と言い、
安田は 「 どうせ決まっている公判なんか、やめて下さい 」 と発言するなど、
法廷は 「 ワイワイのさわぎ 」 になったとある。
・・・(4) 前掲 『 二 ・二六事件  獄中手記遺書 』 367頁以下   
( ・・・リンク → 獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」  )

審理を急ごうとする裁判官と、そうはさせじとする被告人らのつばぜり合いが行われたのである。
しかし、被告人にの抵抗もここまでだった。
磯部としては、村中の陳述を五月一杯まで引き延ばしたかったが、
藤井法務官の巧妙な訴訟指揮によって、尋問はわずか正味二日半で終わってしまった。
これに続く磯部自身の尋問も、「 法務官のシツヨウな事実シンリ追及にまけて 」 「 竜頭蛇尾におわる 」
結果となり、正味二日で終わった。
彼は、 「 無念のあまり獄舎にかえりて数時間もだえ 」 たという。
・・・(5) 前掲373頁
( ・・・リンク → 獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」  )

その余の被告人尋問は、一人当たり二、三時間のペースで一気呵成に進行した。
第三回公判が終わった夜、澁川は裁判長 ・各判士 ・検察官宛に 「 公判進行ニ關スル上申 」
と題する書面をしたため、これを提出している。
法務官が村中の陳述を制限したことに対する抗議文だが、
徒手空拳で国家権力と対峙させられている彼らの悲痛な叫びがほとばしっている。
次にその一部を掲げる。
「 本軍法会議ガ特設セラレ、
公開ノ規定及ビ弁護人ノ規定ガ適用セラレヌコトニ相成リマシタル御精神ガ、
 本事件ノ最終日二月二十九日陸相官邸ニ於テ、
『 将校等ヲ自刃セシメヨ。若シ自刃ヲ肯ゼヌナラバ殺シテシマヘ 』
トノ御意見ガアツタ由デアリマスガ、
其ノ延長ニ他ナラヌノデアリマスナラバ、私共ハ何モ申上ゲルコトハアリマセン。」
「 本公判ニハ弁護人ガアリマセヌ。
 陳述ノ根拠ヲ立証スベキ各種ノ資料ヲ整ヘルコトモ出来マセヌ。
ソレナノニ、被告ノ陳述ニ對シ、法務官殿ノ爲サレマシタ如ク
『 根拠ノ確タルモノハナイノダナ 』、
『 誰カラ聴イタカワカラヌノダナ 』
位ニ、殆ド萬人周知ノ事実ヲ、
恰モ架空ノ巷談孚説ノ如クニ片附ケラレマスコトハ、誠ニ遺憾に堪ヘマセヌ 」
磯部は、最後まで裁判長と藤井法務官に激しい憎しみを抱いていたが、
すべての被告人が裁判官に敵意を持っていたわけではない。
筆者が被告人中の生き残り池田俊彦氏から伺ったところによると、
裁判長の態度は、厳正ではあったが暖かみが感じられたというし、
手厳しい尋問を行った藤井法務官も、池田氏の最終陳述の際は目をうるまして聴き入ってくれたという。
また、安田は、七月一一日 ( 刑死前日 ) 付の遺書で、新たに天誅を加えるべき人物の中に
「 軍法務官全員 」 を挙げながら、わざわざ 「 藤井法務官を除く 」 と記している。
・・・(6) ・・・(5) 前掲373頁 
( ・・・リンク →
あを雲の涯 (十六) 安田優 )

このことからみると、訴訟促進のための訴訟指揮が一部の被告人らの反感を買ったことは否定できないが、
それが異常に強圧的であったとまではいえないであろう。藤井氏の名誉のために、付言しておきたい。

  被告人にらの中で、近歩三の今泉少尉だけは異質の存在であった。
  出動直前に起こされ、中橋から、守衛部隊を率いて皇居へ行くように指示された彼は、
心ならずも事件に巻き込まれた形だったからである。
今泉の尋問 ( 第二〇回公判 ) は、このような彼の特殊な立場に配慮して、
他の被告人ら全員を退廷させて行われた。
これは、共同被告人 ・証人らが被告人の面前では十分な供述ができないと思われるときは、
その供述中被告人を退廷させることができるとする陸軍軍法会議法三八六条の規定に基づく。
今泉は、高橋蔵相邸を襲撃している中橋部隊を援護する意思はなかったし、
また、重臣らの参内を阻止するために坂下門の配備についたわけではない。
自分は他の蹶起将校と立場を異にしており、反乱罪に問われることには承服できない、
と主張した。
当の中橋は最終陳述で、今泉に対しては守衛部隊を率いて皇居に行けと命じたのであって、
蹶起部隊への参加を勧誘してはいないこと、
シャム公使館脇で自分を待っていた今泉が、暗に自分らの行動を援助したとは認められないこと、
今泉には、重臣らの参内阻止のために皇居に赴いた自分の意図を知らせていないことを述べ、
全面的に彼の主張を支えた。
巻き添えにした今泉に詫びる気持ちが、言外ににじみ出ている。

  今泉以外の被告人は、すべて事態を承知して事件に参加した人々である。
  村中 ・磯部 ・栗原ら 事件の中心人物が、滔々と自己の思想と行動の正当性を主張したことはいうまでもないが、
若手の被告人らもその多くが悪びれることなく自己の所信を述べ、権力に媚びるところがなかった。
彼らは、心ならずも天皇に心痛を与えたことを陳謝する一方、
犠牲となった人々に対して哀悼の意を表している。
しかし、清原は、
自分は他の将校らと違い 「 同志 」 ではない、
安藤週番司令の命令によって、「 無理矢理連れて行かれた 」 のである
と主張し、寛大な処分を懇願した。
「 東京陸軍軍法会議公判状況 」 によると、清原は 「 此時興奮、泣声を発す 」 とある。
・・・(7) 前掲秘録第三巻121頁以下 
( ・・・ リンク →・ 憲兵報告・公判狀況 22 『 論告求刑、香田淸貞以下二十三名』 ・・・ 第二十三回公判狀況    昭和11年6月4日    論告求刑  最後の陳述 )

また、鈴木も清原に同調して 「 同志 」 であることを否定し、
安藤大尉の命令と彼に対する情誼からやむなく参加したと主張した。
二人の供述が他の被告人らを刺激したことはいうまでもなく、
磯部はその遺書に、「 余も他の同志も悲憤したが如何とも致し方がなかった 」 と記している。
・・・(8) 前掲374頁
( ・・・ リンク → 憲兵報告・公判状況 8 『 林八郎、池田俊彦 』 、
池田俊彦 ・ 反駁 『 池田君 有難う。よく言ってくれた 』  )
この二人は、当時弱冠二二歳、その前年に任官したばかりの、いわゆる新品少尉であった。
もともと確たる信念もないまま、一時の興奮に駆られて参加した二人である。
生死の岐路に立たされて命乞いをする彼らを、軽蔑することはできない。
しかし、同じく新品少尉の池田が、自己の浅慮を反省 ・公開しながら、
なお責任の重大さを痛感し、「 絶対ニ情状酌量ナキコト 」 を望んだ姿勢と対比すると、
極限状況におかれたときの人間の品性の違いを感ぜずにはおられない。
( ・・・ リンク → 最期の陳述 ・ 池田俊彦 「 我々は断じて逆賊などではありません 」 )

  磯部は、公判が始まる頃から、事件が拡大して手のつけようがない状態にならない限り、
  自分たちが助かる道はないと考えていた。
彼は安藤 ・栗原らに、法廷では心を鬼にして、一、四〇〇下士官 ・兵も同罪と主張すべきだと説いている。
・・・(9) 前掲 『 二 ・二六事件  獄中手記遺書 』 344頁 
( ・・・ リンク →獄中手記 (3) 磯部菱誌 七月廿五日 「 天皇陛下は青年将校を殺せと仰せられたりや 」 )

しかし、この目論見は、兵のほとんどが不起訴とされたため、あえなく崩れてしまった。
そこで彼は、六月下旬頃獄中から、
独断で事件当時の川島陸軍大臣、香椎戒厳司令官、眞崎 ・荒木 ・阿部軍事参議官ら軍の収納部一五名を、
反乱幇助罪で告発した。
・・・(10) 前掲314頁 
( ・・・ リンク →獄中手記 (二) ・ 北、西田両氏を助けてあげて下さい  )

軍首脳部を人質に取ろうとしたのである。
その真意について、彼は、若い同志らだけは何とかして救いたいと考え、
事件前後の軍首脳部、幕僚の態度を暴露 ・攻撃し、その責任を糾弾することによって裁判官を動かし、
同情を得ようと考えた、と述べる。
この作戦は、なかなか同志の理解を得られず、安藤のごときは、
「 余リ極端ニ軍部ノ攻撃ヲスルノハ止セ 」 と真剣に喰ってかかったという。 ( 磯部 ・昭和一二年三月二日付検察官聴取書 )
しかし、起訴 ・不起訴の決定権は陸軍大臣にある。
しかも獄中にある磯部には、告発の事実を国民に訴える術がない。
いかに彼が獄中でわめいても、軍はこれを無視すれば済む。
彼の告発は空しかった。
後に彼は述懐する。
「 私ノ努力ハ水泡ニ帰し、多クノ同志ヲ救フコトガ出来ナカツタノミナラズ、
 同志等ハ皆極刑ニ處セラレタ責任ノ一部ハ私ニアリト爲シ、恨ヲ呑ンデ死ンデ行ツタノデハナイカト想像シ、
日夜煩悶シテ居ル次第デアリマス 」 ( 前掲警察官聴取書 )

第二二回公判 ( 六月一日 ) で被告人側の立証が促されると、
安藤 ・對馬 ・栗原 ・坂井 ・山本 ・村中 ・磯部 ・澁川の各被告人が多数の証人の喚問と証拠物の取寄せを申請した。
弁護人のいない悲しさで、事件と関連性のない証拠申請が大半を占めているが、
さすがに磯部は、二月二六日の陸軍大臣告示の効力を問題として、
寺内陸軍大将 ( 現陸相 )、眞崎 ・荒木 ・阿部 元軍事参議官などの高官多数を証人として申請している。
彼は、最後まで法廷闘争を諦めなかったのである。
被告人らの証拠申請に対する検察官の意見は、
維新の大詔の原案を安藤に示したという村上啓作大佐 ( 事件当時陸軍省軍務局軍事課長 ) のみ採用するも可とし、
その余の証人は不必要とした。
しかし、軍法会議は、被告人らの証拠申請のすべてを却下した。
「 万事休す 」 と天を仰いだであろう磯部の姿が、目に浮かぶようである。


47 二・二六事件行動隊裁判研究 (二) 『 第六章 将校班の審判 2 』

2016年03月12日 05時57分44秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第45号 ( 1997年12月 )
論説
二・二六事件行動隊裁判研究 (一)
松本一郎
第一章  序説
第二章  反乱の陰謀
第三章  出動命令
第四章  反乱行為の概要  ( 以上第四五号)
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論説
二 ・二六事件行動隊裁判研究 (二)
松本一郎
第五章  訴追
一  幹部に対する訴追
二  准士官 ・下士官の訴追
三  兵に対する訴追
第六章  将校班の審判
一  軍法会議の構成
二  将校班の審理経過
三  論告 ・求刑
四  被告人らの主張
五  判決
第七章  下士官班の審判
一  審理の経過
二  被告人らの弁明と心情
三  論告 ・求刑
四  判決
第八章  兵班の審判
一  審理の経過
二  判決
第九章  終章  ( 以上本号 )
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三  論告 ・求刑
  第二三回公判で、検察官の意見陳述が行われた。
  いわゆる論告である。
検察官は、本件反乱の源は、
「 矯激不逞ノ思想ヲ懐抱セル民間ノ北輝次郎 ・西田税 」
にあると断じた。
北 ・西田は、日本改造法案大綱の趣旨に則り、軍を利用して国家革新を実現せしめるため、
澁川 ・村中 ・磯部らを傘下に誘致し、
さらに彼らを介して青年将校らに改造法案大綱の趣旨を普及させた。
こうして、「 日本改造法案大綱ヲ信奉シ、之ニ基キ国家改造ヲ爲スヲ以テ其ノ理想トスル 」
反乱首謀者 ( 村中 ・磯部 ・栗原らを指す ) は、「 同志ノ獲得、下士官兵ノ煽動ニ努メ、其ノ機運ノ促進ヲ圖リ 」、
十一月事件 ・国体明徴問題 ・教育総監更迭問題 ・相澤事件等を捉えて
「 国家革新ノ理由ト爲シ、集団的武力ニ依リ現支配階級ヲ打倒シ、帝都ヲ擾乱化シ、
且 帝都枢要地域ヲ占拠シ、戒厳令下ニ導キ、軍事内閣ヲ樹立シ、
以テ日本改造法案大綱ノ方針ニ則リ、政治経済等各般ノ機構ニ一大変革ヲ加ヘ、民主的革命ノ遂行ヲ期シタ 」
のが本事件である、 とする。
その上で検察官は、本叛乱事件が国の政治 ・経済 ・外交に重大な影響を与えたばかりか、
軍の信用を傷つけ、下士官兵を逆賊たらしめた点で、被告人らの責任はきわめて重大であるとし、
さらに行為が残虐なこと、奉勅命令に従わなかったことなども指摘して、
首魁 ( 香田 ・安藤 ・栗原 ・村中 ・磯部 ) ・謀議参与 ( 竹嶌 ・對馬 ・中橋 ・坂井 ・澁川 )
・群衆指揮 ( 丹生 ・田中 ・中島 ・安田 ・高橋 ・麥屋 ・常盤 ・林 ・鈴木 ・清原 ・池田 )
の全員に死刑を、諸般の職務従事者の今泉に懲役七年、山本に懲役一五年を各求刑した。

  磯部は、求刑直後の衝撃を次のように記している。
・・・(11) 前掲375頁 
( ・・・リンク → 獄中手記 (2) 「 軍は自ら墓穴を掘れり 」 )
「 一同無言。同志に話しかけられると、なに、死はもとより平気だと云って強いて笑わんとするが、
 その顔は歪んでいる。こんな表情を、余は生来初めて見た。
余もまた、歪める笑いをもらした。なきたいような、怒りたいような笑いだ。
自分で自分の歪んだ表情、顔面の筋肉が不自然に動くのがわかった 」

死刑求刑は、磯部ら幹部としては覚悟の上のことだったに違いない。
しかし、若手の多くにとっては、青天の霹靂だったのではないであろうか。
彼らは、陸軍という大家族の中で、上司 ・先輩の手厚い庇護のもとに育てられてきた。
これまで家族の一員が羽目を外しても、軍は常にそれを庇ってくれた。
三月事件 ・一〇月事件は何のお咎めもなく、張作霖爆殺事件 ( 一九二八年 ) は不問に付され、
また軍中央部の意向を無視して始められた満洲事変 ( 一九三一年 )は、結果的に論功行賞の対象とされた。
慈父のような存在であったはずの軍がなぜ、というのが、彼らの偽らない心境であったように思われる。
第二表は、
公判記録に編綴された刑務所長の裁判長に対する、
被告人らの休憩後の状況に関する報告 ( 昭和一一年六月五日 ) である。
被告人らの赤裸々な人間性を示す貴重な資料として、ここに紹介する。

第二表  叛乱被告元将校等近況ノ件 ( 上記 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
香田清貞   精神状態 ・・・変リナシ
安藤輝三   精神状態 ・・・変リナシ
竹嶌継夫   精神状態 ・・・悲観ノ状アリ    帰所入房後微笑シナガラ 「 賊名ヲ着セナガラ死刑トハヒドイ、残念ダナー 」
對馬勝雄   精神状態 ・・・悲観ノ状アリ    帰所後暫ク被服ヲ着替ズ、床ノ上ニ安座シ落涙シ居タリ、「 強圧ニ依ル公判ニハ何トシテモ死ネナイ 」 と独言ス
栗原安秀   精神状態 ・・・変リナシ         「 言フ丈言ツタ、死ンデモ惜クナイ、人生ノ一頁ハコレデ終リデス 」
中橋基明   精神状態 ・・・格別変リナシ
丹生誠忠   精神状態 ・・・落胆ノ状深シ
坂井   直   精神状態 ・・・落付カザル風アリ   「 全部死刑トハ検察官モアッサリヤッタナー 」 「 ヤルナラ早クヤレバヨイナー 」 ト独語ス、死刑ヲ意味ス
田中   勝   精神状態 ・・・稍悲観ノ状アリ
中島莞爾   精神状態 ・・・稍悲観ノ状アリ、昨夜零時半尚眠ニ就カズ
安田   優   精神状態 ・・・格別変リナシ
高橋太郎   精神状態 ・・・落付ヲ欠ク    和服ノ侭被服を着替ズ、腕ヲ組ミ室内ヲ歩キ廻リ落着ナシ
麥屋清濟   精神状態 ・・・悲観ノ状アリ    妻ガ可愛想ダカラ離婚シヨウト思フガ、手続ハ面倒デスカト問フ
常盤   稔   精神状態 ・・・変リナシ
林   八郎   精神状態 ・・・嘆声ヲ漏ラシ居レリ    昨夜十時三十分マデ就寝セズ、「 アア面白クナイナー 」 ト独言ス
今泉義道   精神状態 ・・・不絶沈思シ居レリ
鈴木金次郎  精神状態 ・・・煩悶ノ状アリ    出廷帰還後悲観ノ状アリ、徒ニ手指ヲ弄シ沈思シ居レリ
清原康平   精神状態 ・・・煩悶ノ状アリ    正座合掌シ落涙シ居レリ
池田俊彦   精神状態 ・・・変リナシ
山本   又   精神状態 ・・・変リナシ    合掌読経落涙シ居レリ
村中孝次   精神状態 ・・・変リナシ
磯部淺一   精神状態 ・・・変リナシ
澁川善助   精神状態 ・・・変リナシ    吾々ノ如キ厳然タル決意アル者ハ死刑ニナルモ不服ハナイガ、命令ニ依ツテ動イタ者ハ不憫ダ、
                                                   天皇ノ裁判ナレバ喜ンデ死ネルガ、幕僚ノヤル裁判デハ死ネナイ    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
四  被告人らの主張
論告終了後二日間にわたって、被告人らの最終陳述が行われた ( 六月四日の第二三回公判及び同月五日の第二四回公判 )
ちなみに、陳述内容などについて、首脳部から指示がなされたようなことはなかったという ( 池田市の直話 )。
しかし、鈴木の最終陳述には、
「 刑務所で栗原から、同志として蹶起したと主張せよと言われたため、被告人尋問のときには意を尽くせなかった 」
とある。
精神的に動揺している者に対して、栗原らがプレッシャーをかけたことは想像に難くない。
なお、被告人尋問が村中 ・磯部の順で行われ、両名がその所信について詳細に供述しているから、
それが後続の被告人らに教育的効果を与えたことは十分考えられる。
ここでは、今泉 ・清原 ・鈴木以外の者の最終陳述を整理してみる。
ただし、反乱前後の具体的事実に関する主張については、すでに第二章ないし第四章で考察したので省略した。
被告人らの主張は、
① 本件行動は軍隊における独断専行であり、正当であること、
② 本件行動は君側の奸の排除を目的としたものであり、北 ・西田の政治思想を実現するためのものではなかったこと、
③ 奉勅命令は下達されなかったから、勅命には違反していないこと、
以上の三点に要約できる。
予審から被告人尋問の段階まで主張されていた下士官兵同志論は、姿を消している。
それは、実態とかけ離れた観念論であったから、むしろ当然というべきであろう。
以下、順を追って考察する。

1  独断専行
先頭集団である軍隊では、規律、すなわち軍紀を 「 軍隊の命脈 」 として重要視した。
殺すか殺されるかという熾烈な戦場における統制の乱れは、直ちに敗北につながるからである。
軍は、この軍紀の基盤を命令 = 服従の原理に求めた。
軍人勅諭 (明治一五年 ) には、
「 下級のものは上官の命を承ること、実は直に朕が命を承る義なりと心得よ 」
とあり、また 「 戦闘綱要 」 ( 昭和四年 ) には、
・・・(12)
野戦における各兵科連合の戦闘のマニュアル書。後に 「 陣中要務令 」 と合わせて 「 作戦要務令 」 と改められた ( 昭和一三年 )。
上官に服従しその命令を守ることを将兵の 「 第二ノ天性 」 とすべきだとある。
これを受けて軍刑法は、「 上巻ノ命ニ反抗シ又ハ之ニ服従セザル者 」 を抗命罪として規定し、
厳罰をもって臨んでいる。
・・・(13)
陸軍刑法五七条 ・海軍刑法五五条。敵前でこの罪を犯した時は、死刑又は無期若しくは一〇年以上の禁錮に処せられる。
この 「 命令 = 服従 」 と並んで、陸軍では、 「 独断専行 」 をも重視した。
軍艦という一定の空間で、艦長の命令のままに艦を操り、戦闘行為に従事する海軍と違って、
無限の曠野に散兵線を展開する陸軍では、いちいち指揮官の命令を待っていては戦機を逸してしまうことがあるからである。
「 陣中要務令 」 ( 大正一三年 )
・・・(14) 野戦における行動 ( 戦闘行為を除く ) ・生活などについてのマニュアル書。前註12参照
綱領第三は、次のように述べる。
「 命令ノ実施ニハ独断ヲ要スル場合尠カラズ。是レ兵戰ノ事タル、其変遷測リ難キモノアレバナリ。
 故ニ受令者ハ、常ニ発令者ノ意図ヲ忖度シ、大局ヲ明察シテ、
状況ノ変化ニ応ジ自ラ其目的ヲ達シ得ベキ最良ノ方法ヲ選ビ、独断専行以テ機会ニ投ゼザルベカラズ 」
「 戦闘綱要 」 綱領第五も、同様のことを規定する。
「 凡ソ兵戰ノ事タル、独断ヲ要スルモノ頗ル多シ。
 然レドモ独断ハ、其精神ニ於テハ決シテ服従ト相反スルモノニアラズ。
常ニ上官ノ意図を明察シ、大局ヲ判断シテ、状況ノ変化ニ応ジ自ラ其目的ヲ達シ得ベキ最良ノ方法ヲ選ビ、
以テ機宜ヲ制セザルベカラズ 」
「 独断専行 」 のもっとも著名な例は、満洲事変 ( 一九三一年 ) 勃発のとき、
林銑十郎朝鮮軍司令官が、参謀総長の命令のないまま歩兵第三九旅団などを越境させて満洲に出兵させた事件である。
・・・(15) 林銑十郎 『 満洲事変日誌 』 ( 一九九六年、みすず書房 ) 参照
第二三回公判で、坂井はこの千例を引いて蹶起の正当性を論じている。
林の出兵は国際問題に発展しかねない重大事件であり、閣議でも憲法違反の議論が交わされたという。
・・・(16) 前掲14頁
彼は陸軍刑法の壇権の罪に問われるべきであったが、
・・・(17)
陸軍刑法三五条  司令官外国ニ對シ故ナク戦闘ヲ開始シタルトキハ、死刑ニ處ス
第三七条  司令官権外ノ事ニ於テ已ムコトヲ得サル理由ナクシテ壇ニ軍隊ヲ進退シタルトキハ、死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ禁錮ニ處ス
軍中央部と政府の追認によって不問に付されたばかりか、「 越境将軍 」 として一躍脚光を浴びた。
彼は、その二年後には陸軍大将に昇進し、教育総監 ・陸軍大臣を経て、ついには内閣総理大臣までも務めたのである。
しかし、この 「 独断専行 」 は、指揮命令系が昨日し得ない緊急な場合における、補充的な原理にすぎない。
この原理が一人歩きをすれば、軍の統制が崩壊することは自明の理だからである。
本件発生当時にそのような緊急事態に対する陸軍上層部の対応には、遺憾の点が多かった。
その極め付きは、
「 諸子の行動 ( 後に、なぜか 「 真意 」 と改められている ) ハ國體顯現ノ至情ニ基クモノト認ム 」
という陸軍大臣告示と、蹶起部隊を戒厳部隊に編入した戒厳司令官の行為である。
村中 ・磯部らが、これによって蹶起の正当性が承認された旨主張するのは、
無理からぬものがある。
しかし、陸軍大臣らの行為は、客観的に見れば叛乱幇助行為である。
被告人らの行為が、それによって免責される筋合いはないといわなければならない。

2  北 ・西田の影響
陸軍当局は、事件勃発直後からは北一輝と西田税をその黒幕と断じ、電話盗聴その他の内定を怠らなかった。
二月二八日午後、憲兵の一隊が北邸を襲い、北を検束した。
西田は間一髪逃れたが、三月四日早朝警視庁係官によって検挙された。
・・・(18)
北 ・西田に対する捜査と軍法会議裁判については、
拙稿 「 二 ・二六事件裁判研究 」獨協法学会四二号、「 二 ・二六事件北 ・西田裁判記録一~四 」 同誌三九~四一号参照

陸軍が、司法当局の反対 ・・・(19) 前掲 「 東京陸軍軍法会議についての法的考察 」 288頁以下
を押し切って東京陸軍軍法会議の管轄権を民間人にまで及ぼした最大の狙いは、
北 ・西田の断罪と抹殺にあったと推測される。
三月一日付の陸軍大臣通達 ( 陸密第一四〇号 「 事件関係者ノ摘発捜査ニ関スル件 」 ) は、次のように述べる。
・・・(20) 匂坂資料Ⅰ 335頁
この通達が、予審も始まっていない段階のものであることに注目する必要がある。
北 ・西田を張本人とする路線は、最初から敷かれていたのである。
「 叛乱軍幹部及其一味ノ思想系統ハ、
 過激ナル赤色的國體変革陰謀ヲ機関説ニ基ク君主制ヲ以テ儀装シタル北一輝ノ社会改造法案、
順逆不二ノ法門等ニ基クモノニシテ、我ガ國體ト全然相容レザル不逞思想ナリトス 」
検察官は、このシナリオに則って、論告の中で、事件の動機 ・目的として次のように述べる。
「 本叛乱首謀者ハ、日本改造法案大綱ヲ信奉シ、之ニ基キ国家改造ヲ爲スヲ以テ其ノ理想トスルモノニシテ、
 其企図スルトコロハ民主的革命ニアリ・・・・集団的武力ニ依リ 現支配階級ヲ打倒シ、
帝都を擾乱化シ、且帝都枢要地域ヲ占拠シ、戒厳令下ニ導キ 軍事内閣ヲ樹立シ、
以テ日本改造法案大綱ノ方針ニ則リ政治経済等各般ノ機構ニ一大変革ヲ加ヘ、
民主的革命ノ遂行ヲ期シタルモノナリ 」
・・・(21)
北 ・西田の本件とのかかわり合いについては、前掲 「 二 ・二六事件裁判研究 」 参照
なお、村中の遺書 ( 丹心録 ) に、次のような一節がある ( 前掲 『 二 ・二六事件  獄中手記遺書 』 188頁 )

「 七月十一日夕刻前、我愛弟子安田優、新井法務官に呼ばれ煙草を喫するを得て喜ぶこと甚し、
 時に新井法務官曰く 『 北、西田は今回の事件には関係ないんだね、然し殺すんだ、
死刑は既定の方針だから已むを得ない 』 と 」
( ・・・リンク ↓
・ はじめから死刑に決めていた
・ 幕僚の筋書き 
・ 暗黒裁判 ・ 既定の方針 『 北一輝と西田税は死刑 』
・ 暗黒裁判 (五) 西田税 「 その行為は首魁幇助の利敵行為でしかない 」 )

新井法務官とは、予審官として村中 ・磯部らを取調べた新井朋重法務官を指している。

これに対して、被告人らは、最終陳述で猛然と反駁した。
その一人、中橋は次のように言う。
「 蹶起ノ目的ニ付テ、私共ガ社会民主革命を企図シタト検察官ガ論告サレタコトハ、初メテ聞クノデアリマス。
 私共ハ決シテ斯ル企図ヲ有セズ、
私共ガ斯ル企図ヲ有シタルモノト認メラレテ居ルトスレバ、残念デ死ニ切レマセン。
コレハ恐ラク他ノ同志モ同様ト思ヒマス。
私共ハ各被告ニ依ツテ強ク主張サレタ通リ、國體破壊ノ元凶ヲ討取ツテ國體ノ眞姿顕現ヲナサンガ爲デアリマス
( 中略 )
又、北一輝著日本改造法案大綱ヲ理想トシテ国家改造ヲ行ハントシタ様ニ云ハレテ居リマスガ、
私共ハ大将ニモ大臣ニモナルモノデハアリマセン。
コノ法案ヲ仮ニ実施セントシテモ、ソレハ不可能ナコトデアリマス。
随テ、今回ノ蹶起ハ日本改造法案大綱ニハ全ク関係アリマセン 」
安田は、次のように述べている。
「 私ハ、北一輝、西田税ノ思想ヲ受ケテ社会民主革命ヲ企図シ、
 日本改造法案大綱ニ則リ本件ヲ決行セリト云ハレタコトハ、寔ニ遺憾デアリマス。
私ハカカル不逞ノ精神ハアリマセン。
村中孝次、磯部浅一、栗原安秀等ハ、彼等ノ思想ニ或ハ影響ヲ受ケテ居ルヤ否ヤハ別トシテ、
同人等ト雖も同法案大綱ニ則リ今回ノ決行ヲシタルモノニアラズト信ズルモノデアリマス 」
その村中は、次のように弁明する。
「 私共ノ蹶起ガ日本改造法案大綱ヲ実施シ、協力内閣ヲ樹立シテ昭和維新ノ実現ヲ企図セムトシタモノト
 論ゼラレマシタガ、決シテ然ラズ。
只私共ノ蹶起ニ依リ将来維新ニ入ランコトヲ希望トシテ念願シタルコトハ事実ナルモ、
当初ヨリ或ル構図ヲ画キ其ノ実行を圖ツタモノデハアリマセン。
然ルニ検察官ガ斯ク認メラルルニ至ツタ原因ハ、
私ノ手記中ニアリマス 『 経済組織ヲ改革スルニハ日本改造法案大綱ヲ指針トス 』
トノ旨ノ記載ガアツタ爲ト思ヒマス。
私ハ、固ヨリ昭和維新国家改造ニ付テハ、理想ヲ以テ考究シテ來タモノデアリマス。
然シナガラ、今回ノ蹶起ハ、全クコノ目的ニ出デタルモノデハアリマセン。
私ハ簡単ニ考ヘテ手記中ニ斯ル文句ヲ書キマシタガ、
今之ガ誤解ノ種トナツタコトハ實ニ遺憾デアリマス。
( 中略 )
日本改造法案大綱ハ、私共ノ思想研究ノ対象トシテ用ヒタノニ過ギマセン。
同法案ニ示サレアルガ如キ社会ノ実現ガ出来レバヨイト思ツタノハ事実ナルモ、
十月事件、神兵隊事件、大本教事件ノ如ク、或ル社会ノ状勢ヲ直接行動ニヨリ有利ニ転回シテ、
或ルプランノ実行ヲナサントスル意図ヲ有シテ居リマセンデシタ。
( 中略 )
私共ノ蹶起ハ、政権奪取ノ爲ニアラズ、一ニ國體覚醒ニアルノデアリマシタ。
私共ハ、相澤中佐ノ集団デナケレバナラヌノデアリマス 」
村中 ・磯部 ・栗原らについていえば、事件発生を契機として、
あわよくば改造法案の示すような理想社会を実現したいという期待感があったことは、否定できない。
法務官の巧みな誘導に乗せられたのか、栗原は第八回公判で次のように供述している。
「 今回ノ決断モ此ノ日本改造法案大綱ニ依ルモノデアリマシテ、
 大体論トシテハ、大権ノ発動ニヨリ憲法ヲ停止シ、戒厳令ニ導イテ 『 クーデター 』 ヲ行ヒ、
国家改造ヲ行ハントスル如キノ信念ヲ実行シタコトニナルノデアリマス 」
だが、事件発生後における主導者らの生ぬるい行動をみると、
彼らの現実に改造法案大綱の実現を企図して行動したとは思えない。
当時の革新的青年將校の全体的なムードとしては、君側の奸を除いた後のことを考えることは、
「 大権私議ニ亘リ、我々同志トシテハ猥リニ口ニスベキモノデハナイトノ気分ガ横溢 」 していたという ( 安藤 ・第一回予審調書 )。
彼らも、一旦事を起した後のことは、「 一ニ大御心ニ俟ツ 」 という心境を一歩も出るものではなかったのである。
また、若手の被告人の中には、北 ・西田を知らず、日本改造法案大綱を読んだことのない者もいた。
したがって、多くの被告人らが検察官の論告に反発したことは無理もなかった。
被告人らの中で、もっとも革命思想に徹していたのは磯部であった。
彼は、飛び抜けて尖鋭的だった栗原に対してさえも、忌憚のない批判を浴びせている。
次に紹介する磯部の供述は、鵜沢聡明の反乱幇助事件にも関するものである。
すでに判決が確定し、同志らの処刑後のものだけに、彼の本心を窺うことができる。( 昭和一二年三月一六日付検察官聴取書 )
「 元来今回ノ事件ニ付目標 ・襲撃ノ態度ニ付テモ、栗原ト私トハ相当ノ開ガアツタ様ニ思ヒマス。
 栗原ハ、飛出シテ仕舞ヘバ宜イ、飛出シテ戒厳令ガ布カレタナラバ万事吾々ノ目的ハ達成サレルト単純ニ考ヘテ居タ様デアリマス。
反之、私ハ軍人ヲ止メテ浪人生活ヲシタノデ、現役時代トハ総テノ考方ガ変リ、
徹底シタ革命思想ニ変ツテ居タノデ、必ズシモ栗原ノ如ク単純ニ考ヘテ居リマセヌデシタ。」
「 最モ急進的ナ栗原デスラ右ノ様ナ考デアリマシタノデ、 其ノ以外ノ青年将校等ハ推シテ知ルベシデアリマス。
要スルニ彼等ハ、不知不識ノ間ニ所謂公武合体的ノ考ニナリ、幕僚精神ガ浸潤シ、ソレガ一種ノ潜在意識トナリ、
総テノ考ヘ方モソレカラ出発シテ居ツタ様デアリマシタ。
之ニ對シ私ハ、飽ク迄討幕派ノ思想ヲ一貫シ、謂ハバ長州意識ニ燃ヘテ居タノデアリマス。
其所ヘ私ト他ノ同志トノ間ニ若干ノ食ヒ違ヒノアツタ事ハ認メラレマス 」
磯部は、昭和一〇年末頃から軍の要路を訪問し、それとなくその意向を打診していた。
眞崎大将は、このままでは血を見るかも知れぬと言い、
山下少将 ( 陸軍省調査部長 ) は、そのときは仕方がないと答え、
村上啓作大佐 ( 陸軍省軍務局軍事課長 ) は血を見なければ治まらないと言ったという ( 磯部五回公判 )。
磯部は、これらの感触から自信を得て、蹶起に踏み切ったのであった。
次に掲げる磯部の検察官聴取書も、鵜澤事件に関するものである。
磯部の事実認識が、巧みな比喩で率直に語られている ( 昭和一二年二月二一日 付 )。
「 問  蹶起後ノ建設計画ニ付テハ、事前ニ於テ十分ニ考慮ヲ払ヒ、工作ヲシタト認メラルルガ如何。
 答  其ノ点ニ付テハ、従来モ屢々申上ゲマシタ通リ、私ハ事前ニ於テ陸軍上層部ノ意嚮ヲ打診シテ歩イタ結果、
  吾々ガ蹶起シタナラバ陸軍上層部ノモノハ必ズヤ吾々ニ乘ツテ來ルモノトノ確信ガツイタノデ、
遂ニ蹶起シタノデアリマス。
果セル哉 軍部ハ、吾々ノ行動ヲ認メル様ナ大臣告示ヲ出シ、吾々ト共ニ維新ニ邁進スルコトヲ言明シ、
乗つて來ル気勢ヲ見セマシタノデ、之ナラ大丈夫ト思ヒ、此ノ情勢デグングン押シテ行ケバ必ズ勝テルト考ヘ、
蹶起ノ第一日ハ大ニ喜ンダノデアリマシタ。
然ルニ第二日目トナリ、上層部ノ意見が稍グラツキ出シ、同時ニ吾々同志ノ間ニモ意見ガ硬軟二派ニ別レ、
若干結束ガ亂レル傾ガアリマシタ。
而シテ第三日目ニ至リ、上層部ノ腰ハ全ク挫ケテ仕舞ツテ、最初ノ情勢ハ何時ノ間ニカ影ヲ潜メ、
却テ責任ノ全部ヲ吾々ニ転嫁シヤウトシテ自決ヲ勧告シ、
更ニ題四日目ニ及ビ、遂ニ吾々ヲ逆賊扱ヒニシテ討伐セントスルニ至ツタノデアリマス。
即チ、軍上層部及幕僚ノ一部ノ者ガ、平常ヨリ駻馬ヲ奮起サセ、狂奔スル様ニ誘導シ、
指嗾シ、激励シテ置キ、遂ニ奮起シタナラバ之ヲ禦シテ、
一挙ニ其ノ目的ヲ貫徹スベク驀進せんと企図シテ居ツタノデアリマス。
而シテ吾々ハ、打診ノ結果之ヲ察知シ、自ラ駻馬タラムコトヲ欲シ、遂ニ蹶起シタノデアリマシタ。
果シテ第一日ハ駻馬ニ乗ツテ來タノデアリマシタガ、禦シ方ガ拙カツタノデ、
第二日目ニ腰ガ浮キ、第三日目ニ自ラ墜落シテ怖気付キ、手モ足モ出セナクナリマシタ。
之レハ馬ノミガ悪イノデナク、乗馬手モ悪カツタノデアルニ拘ラズ、
馬バカリヲ攻撃シテ之ニ一切ノ責任ヲ転嫁シ、終ニ之ヲ殺シテ仕舞ヒ、
一方乗馬者ニ對シテハ毫モ責任ヲ問ハナイノミナラズ、
却テ駻馬ヲ踊ラセ狂奔サセタ原因 ・動機ハ他ニアリト爲シ、陰険悪辣ナ処置ヲ講ジタノデアリマス。
以上ガ、今次事件ノ事前事後ニ亘リ私ノ確信スル僞ラザル情況デアリ、且全貌デアリマス。
宜シク御明察アラムコトヲ切望シマス。」
参謀本部の情況判断は、あまりにも甘すぎた。
駻馬に乗りかけた騎手を天皇が激しく叱咤しようとは、思ってもみなかった点にも誤算があった。
この程度の心証でゴーサインを出すのは、無謀という外はない。
磯部にしてこの程度とすれば、日本改造法案大綱の具体化などは夢のまた夢といわざるを得ない。
ちなみに、磯部が切々と訴えた相手は、北 ・西田の裁判を担当する伊藤法務官であった。
言外に北 ・西田を庇う磯部の供述内容からすると、彼はそれを知っていたと思われる。
しかし、馬の耳に念仏、伊藤はそれに貸すような耳の持ち主ではなかった。

本題に戻る。
被告人らが日本改造法案大綱の実現を意図していたとは思えないが、
いずれにしてもそれは、反乱罪の成否とは直接関係のないことがらである。
また、君側の奸であれば実力で排除してよいという理屈が成り立つはずもない。
そうだとすると、北 ・西田の影響力に関する被告人らの主張は、情状論としての意味を持つに止まる。
もっとも、村中 ・磯部らには、北 ・西田裁判に対するアピールの意図もあったに違いない。

3  奉勅命令
奉勅命令が正式に伝達されなかったという被告人らの主張は、
受命裁判官 ( 河村判士 ) の堀丈夫に対する期日外の証人尋問 ( 五月二八日 ) によって、ほぼ裏付けられている。
当時第一師団長であった堀中将は、事態の円満解決のため奉勅命令下達の延期方を戒厳司令官に具申し、
二且二八日午後小藤大佐らと共に被告人らの説得に当たった。
一旦功を奏したかのようにみえたが、土壇場で失敗に終わり、
結局奉勅命令も下達されなかった経緯は前に述べたとおりである ( 第四章第五項3 )。
奉勅命令の伝達がなかったということは、被告人らが最初から主張したことである。
奉勅命令を無視したとなれば、逆賊の汚名を甘受しなければならない。
これは、天皇絶対主義の彼らにとっては、自己否定以外の何物でもないからである。
しかし、実際は、少なくとも首脳部の面々は、正式伝達こそないものの、奉勅命令が発せられたことを知っていた。
彼らは、法廷戦術の一つとして、これを強く主張したのである。
磯部は、判決確定後に次のように述べている ( 鵜澤事件についての昭和一二年三月二日付検察官聴取書 )。
「 二月二七日ノ朝 後退ノ意見ガ同志間ニ漸次有力ニ台頭シタ時ニモ、私ハ真向カラ反対シ、
 千四百名モノ下士官兵ヲ連レ出シテ置キナガラ此ノ侭オメオメト退ケルカト非常ニ強硬ナ意見を主張シ、
断乎トシテ頑張ツタノデアリマス。
其ノ内ニ奉勅命令ニ依リ撤退ヲ命ゼラレ、肯カナケレバ討伐スルトノ事デアリマシタガ、
此ノ奉勅命令ニハ勿論反抗スル気ハナカツタノデアリマスガ、
一旦飛出シタ以上最早単純ニ退クニモ退ケヌ状況デアリマシタノデ、
何ノ途斯ウナツタカラニハ最後ノ行キ詰ル所迄行クヨリ外致方ナシト考ヘテ居タコトハ、
同志一般ノ空気デアリマシタ。
然ルニ、刑務所ニ収容後奉勅命令デ大上段ヨリ斬リ付ケラレタノデ、
同志ハ皆立所ニ怖気付キ、当時ノ心意ヲ十分ニ述ベルコトガ出来ズシテ、
皆意気地ナクナリ、吾々ハ奉勅命令ニ抗スル気ハナカツタ、何時デモ後退スル考で居ツタ等ト、
心ニモナイ虚偽ノ陳述ヲ爲シタノデアリマス。
只私丈ケハ真実ヲ申立テタノデ、爲之公判ニ於テモ他ノ同志カラ、
磯部ハ同志ノコトヲ考ヘズニ余リニモ軽々シク陳述スルトテ怨マレタ程デアリマシタ。」
しかし、いずれにせよ法律的には、彼らの抗弁は空しい。
彼らは、奉勅命令に違反したから反乱罪に問われているのではない。
統帥関係を離脱して、武器を取り、兵を率いて営門を出たその瞬間に反乱罪は成立している。
奉勅命令にそむいたかどうかということは、これまた上場問題にすぎなかったのである。