あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

47 二・二六事件行動隊裁判研究 (二) 『 第六章 将校班の審判 3 』

2016年03月10日 08時20分49秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第45号 ( 1997年12月 )
論説
二・二六事件行動隊裁判研究 (一)
松本一郎
第一章  序説
第二章  反乱の陰謀
第三章  出動命令
第四章  反乱行為の概要  ( 以上第四五号 )
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獨協法学第47号 ( 1998年12月 )
論説
二 ・二六事件行動隊裁判研究 (二)
松本一郎
第五章  訴追
一  幹部に対する訴追
二  准士官 ・下士官の訴追
三  兵に対する訴追
第六章  将校班の審判
一  軍法会議の構成
二  将校班の審理経過
三  論告 ・求刑
四  被告人らの主張
五  判決
第七章  下士官班の審判
一  審理の経過
二  被告人らの弁明と心情
三  論告 ・求刑
四  判決
第八章  兵班の審判
一  審理の経過
二  判決
第九章  終章  ( 以上本号 )
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五  判決
1  判決の概要
判決は、結審から一月後の七月五日に言い渡された。
判決には、今日の刑法理論の主流である責任主義の思想は、そのひとかけらも見られない。
軍の規律維持を最大の目的とする軍法会議の性格もさることながら、
東京陸軍軍法会議は設置当初から一般予防目的の威嚇主義によって律せられていた。
三月一二日付陸軍省軍務局通達 「 軍法会議ニ関スル件 」 は、その冒頭で、
「 粛軍ノ見地ニ基キ、将来ニ於ケル軍紀ノ確立ヲ主眼トス。
 之ガ爲厳罰主義ヲ以テ速ニ之ヲ解決ス 」 と述べている。
・・・(22) 匂坂資料Ⅱ 73頁
判決は、この路線に忠実に、極刑を原則としたのである。
判決では、香田 ・安藤 ・栗原 ・村中 ・磯部が反乱首魁、竹嶌 ・對馬 ・澁川が謀議参与者、
中橋 ・丹生 ・坂井 ・田中 ・中島 ・安田 ・高橋 ・麥屋 ・常盤 ・林 ・鈴木 ・清原 ・池田が群衆指揮者、
今泉 ・山本が諸般の職務従事者と認定されている。
論告で謀議参与とされた中橋 ・坂井が群衆指揮と認められた以外は、検察官の主張通りの事実認定であった。
判決は、量刑について、
「 被告人等ガ国家非常ノ時局ニ当面シテ激発セル概世憂国ノ至情ト、
 一部被告人等ガ其ノ進退ヲ決セルニ至レル諸般ノ事情トニ付テハ、
之ヲ諒トスベキモノアリト雖モ、其ノ行為行動タルヤ、
聖論ニ悖リ、理非順逆ノ道ヲ誤リ、国憲国法ヲ無視シ、而モ建軍ノ本義を紊リ、
苟モ大命無クシテ斷ジテ動カスベカラザル皇軍ヲ僭佣シ、下士官兵ヲ率ヰテ反乱行為ニ出デシガ如キハ、
赫々タル国史ニ一大汚点ヲ印セルモノニシテ、其ノ罪寔ニ重且大ナリト謂フベシ 」
と判示した上、首魁と謀議参与者全員、それに群衆指揮者のうち中橋 ・丹生 ・坂井 ・田中 ・中島 ・安田 ・高橋 ・林を各死刑、
その余の群衆指揮者を各無期禁錮、山本を禁錮一〇年、今泉を禁錮四年に處した。
判決が諒とした 「 一部被告人等ガ其ノ進退ヲ決セルニ至レル諸般ノ事情 」
が何を指しているかは、明らかではない。
いずれにせよ、極刑が原則である以上は、それはリップサービスにすぎなかった。
判決は、被告人らが激しく争った二点、すなわち
① 北 ・西田の政治思想を実現するための蹶起ではないこと、
② 奉勅命令は下達されなかったこと
の二点については、概ね被告人らの主張に沿った事実認定を行った。
とくに前者について、村中 ・磯部 ・栗原らが、副次的に
「 日本改造法案大綱ノ主旨ニ則リツツ軍上層部ヲ推進シテ、所謂昭和維新ノ実現ヲ齎サシメムコトヲ企図 」
していた事実を認めたものの、彼らが 「 日本改造法案大綱ノ方針ニ則リ、政治経済等ノ機構ニ一大変革ヲ加ヘ、
民主的革命ノ遂行ヲ期 」 するため、本件行為に及んだという検察官の主張は採用しなかった。
しかし、このような認定も、被告人らに対する罪責評価には何らの影響も及ぼさなかった。
以下、問題点について考察する。

2  首魁
反乱の首魁にたいする法定刑は、死刑のみである ( 二五条一号 )。
「 首魁 」 とは、反乱行為を発動し、またはこれを支配する首脳者をいう。
判例をみると、内乱罪の首魁についてのものはないが、騒擾罪のそれについては、
「 騒擾行為ノ主動者トナリ多衆ヲシテ其合同力ニ依リ騒擾行為ヲ爲サシムル者 」 ( 大判大正四 ・一一 ・六、刑録二一輯1897頁 )
とか、「 主動者となり首唱画策し、多衆をして其の合同力により暴行又は脅迫を爲すに至らしむる者 」 ( 最判昭和二八 ・五 ・二一、刑集七巻五号1053頁 )
と定義されている。
内乱罪の首魁についての学説の定義も、右と大同小異である。
その代表的なものを見ると、
「 首魁トハ暴動ノ発動力ヲ惹起シ又ハ之ヲ支配スル主動者ヲ謂フ 」 とか、 「 暴動の首謀 ・統率者 」 をいうとする。

村中 ・磯部 ・栗原の三人は、自他共に認める本事件の首謀者であり、首魁とされて本望だったに違いない。
安藤は当初蹶起に反対したが、一旦参加を決意するや週番司令の地位を最大限に利用して、
反乱軍中最大の兵力を歩三から出動させたのであるから、首魁と認定されたのは当然である。
また香田は、二月二三日夜の最終謀議の段階でこれに参画したにすぎないが、
事件勃発後は村中らとともに陸軍大臣らとの交渉に当たるなど、
對外的には終始リーダーの一人としての行動をとっていたから、
首魁と目されてもやむを得ないであろう。
自決した野中大尉を除けば、彼が決起将校中の最先任者であったことも一つの要因とされたかも知れない。
旧軍は、序列を重んじる集団だったからである。

3  對馬勝雄 ・竹嶌繼夫 ( 謀議参与者 )
反乱の謀議参与者と群衆指揮者は、死刑、無期もしくは五年以上の懲役または禁錮に處せられる ( 二五条二号前段 )。
「 謀議参与者 」 とは、首魁の参謀として反乱行為の全般的計画の策定に関与する者をいう。
對馬と竹嶌は、いずれも豊橋陸軍教導学校歩兵学生隊の區隊長であった。
對馬は、西園寺襲撃担当のリーダーとして、磯部と協議を遂げた上具体的計画の作成に当たっているから、
謀議参与者という認定はやむを得ない。
しかし、竹嶌は對馬の誘いに応じて、心ならずも参加したに過ぎない。
彼は、西園寺襲撃計画に加担した鈴木五郎らの事件の証人として尋問されたとき、
自分は最後まで自重論であったが、
「 對馬ノ熱意ニ對シ崇高ナ感ジニ打タレ、同人ニ殉ズル覚悟ヲスルニ至ツタ 」
と述べる ( 昭和一一年五月三一日付尋問調書 )。
その鈴木 ( 歩兵第六聯隊一等主計 ) も、
「 竹嶌ハ、何レカト申セバイヤイヤナガラ對馬ニ引キ摺ラレタ態度デアリマシタ 」
と述べている ( 昭和一一年三月一七日検察官尋問聴取書 )。
この鈴木ら豊橋グループの関係者三名は、後に反乱謀議参与として起訴されたが、
将校班と同じ第一公判廷 ( ただし、法務官は津村幹三 ) で審理された結果、
全員が反乱予備として処罰されるに止まった ( 七月二九日判決 )。
これは、本判決と実質的に食い違った判断である。
竹嶌に関する事実認定には、無理があったというべきである。
豊橋グループによる西園寺襲撃の計画は、二月一九日に磯部が對馬に伝えている。
しかし、実は豊橋では、それに応じるだけの態勢が整っていなかったので、對馬はこれを渋った。
しかし、磯部から
「 下士官ガ云フコトヲキカナケレバ、威嚇シテ引ツ張ツテ行ケバヨイデハナイカ、
 革命ハ剣ト威力トヲ押シツケテシマフコトニヨリ、初メテ目的ヲ達スル 」
と煽られた對馬ハ、その勢いに呑まれて、ついにこれを承諾してしまった ( 磯部 ・昭和一二年二月二一日付検察官聴取書 )
西園寺襲撃失敗の原因として、一般に板垣徹中尉が兵力使用に反対したことが挙げられる。
それが中止の直接の引き金となったことは事実だが、仮に板垣の反対がなかったとしても、
襲撃が実現できたかどうかは疑問に思われる。
学生隊における區隊長と下士官 ( 助教 ) ・学生 ( 兵 ) の関係は、
一般における中隊長と下士官 ・兵の関係とはまったく異なっている。
前者には、後者のような統帥関係 ( 命令服従の関係 ) は存在しない。
したがって、下士官 ・学生を動かすためには、階級や身分を超えた同志的な結びつきが必要だが、
それは作られていなかったからである。
對馬と板垣の激論に立ち会った井上中尉によると、
板垣の反対によって中止を決定したとき、對馬はほっとして救われたような顔をしたという ( 鈴木 ・前掲聴取書 )。
對馬自身も、最後まで襲撃に自信がもてなかったのである。
失敗の原因は板垣にあるとし、「 変節者板垣 」 を罵倒した磯部も ( 前掲検察官聴取書 )、後には検察官から、
「 豊橋では真剣に計画を立てていなかったように認められるがどうか 」 と問われると、
そうだったかも知れないと答えている ( 同年三月一六日付聴取書 )。
まさに検察官私的のとおり、對馬らの行為の客観的危険性は、決して大きくはなかったのである。
對馬と竹嶌は、西園寺襲撃を断念した後、在京部隊に加わるため急遽上京した。
列車の中で、湯河原偵察から帰る途中の渋川夫妻に偶然逢っている。
村中にこのことの次第を報告した後、村中の指示によって、對馬は栗原部隊に、また竹嶌は丹生部隊に同行した。
しかし、所詮は招かれざる客人であり、二人とも部隊の驥尾に付して行動を共にしたに過ぎなかった。
對馬 ・竹嶌が事件で果たした役割は、以上のようにささやかなものである。
二人に対する極刑の選択は、事実認定の点をさておいても、あまりにも重きに過ぎた。

4  澁川善助 ( 謀議参与者 )
澁川は会津若松の出身で、仙台陸軍幼年学校を経て陸士に進んだ ( 三九期 )。
幼年学校では、二期上に村中、一期上に安藤がいた。
彼は、士官学校予科を二番で卒業し、将来を嘱望された。
しかし、本科卒業直前に、士官学校の教育方針を批判したというだけの理由で、退校処分を受けた。
ときの校長は眞崎甚三郎であった。
その後明治大学専門部に学んだが、在学中社会問題、思想問題に関心を抱き、
満川亀太郎らの指導を受けて国家革新運動に奔走するようになった。
昭和九年頃大森一声、西郷隆秀らと、学生を対象とする精神修養団体 「 直心道場 」 を創設し、
塾生の指導に当たる傍ら、道場に置かれた 「 核心社 」 の同人として雑誌 『 核心 』 の発行に携わった。
昭和一〇年一一月相澤中佐が起訴されると、西田税らと共に相澤の救援活動に当たっていた。
同志の澁川評は、「 直情径行の士で、実行力に富む 」 ( 福井幸 ・第五回予審調書 )、
「 昭和の高山彦九郎との評判どおりの人物。激しい気性の持ち主で一方の雄ではあるが、総大将ではない 」 ( 中橋照夫 ・第一回公判 )、
「 一徹に進んで行くかと思うと、途中でいかぬと思えばすぐに引き返し、今度は引き返した方向に一徹に進むという急進 ・直角的で、
 樫の木のような性格の持ち主 」 ( 西田税 ・第三回公判 )
と、ほとんど一致する。
彼が明晰な頭脳と鋭い論鋒の持ち主だったことの片鱗は、裁判長らに宛てた 「 公判進行ニ関スル上申 」 ( 前出18頁 ) に示されている。
しかし、私が何よりも驚嘆するのは、彼の強固でしぶとい意思についてである。
一例を挙げよう。
後述のように、彼は事件の前日、偵察先の湯河原に同行していた妻を、連絡のため上京させた。
帰途西田から託された手紙を夫に渡した。
これは、妻も西田もあっさり認めた事実だが、澁川だけはついに最後までしらを切り通した。
取調官が確証を握っている事実について否認し通すことは、通常人にはできない仕業である。
澁川は、兄事していた西田に関する事項については、徹底徹尾諴黙を守っている。
西田を庇った被告人は、もちろん彼だけに止まらない。
村中 ・磯部 ・栗原らは、予審 ・公判を問わず、極力西田が事件と直接関係のないことを主張した。
とりわけ磯部は、北 ・西田の助命のため、獄中から百武侍従長その他の要路関係者に対して、
次々と秘密の怪文書を発送している。
・・・(23) 前掲 『 二 ・二六事件  獄中手記遺書 』 302頁
( ・・・リンク→獄中からの通信 (1) 歎願 「 絶対ニ直接的ナ関係ハ無イノデアリマス 」)
( ・・・リンク→ 獄中からの通信 (6) 「 一切合切の責任を北、西田になすりつけたのであります」   獄中からの通信 (7) 「 北、西田両氏を助けてあげて下さい 」  )

しかし、まるで西田が存在しないかのように西田関係について黙秘した者は、澁川を除いてはなかった。
これは、彼の人間研究に見落とすことのできない点である。
そこで、彼の事件とのかかわれを見てみよう。
二月二三日、澁川は村中から本件の計画を知らされ、牧野伸顕の所在偵察を依頼されてこれを快諾した。
この時点で、彼は直接行動には加わることなく、外部から蹶起を支援することになっていた。
彼は、即日妻キヌを同伴して湯治却を装い、佐藤光佑という偽名で湯河原の伊藤屋旅館に投宿し、
牧野の動静を探った。
二五日朝、彼は妻を上京させて磯部に情報を届けた。
午後、河野大尉が旅館を訪れ、直接澁川から情報を得ると共に、
牧野が滞在している同旅館別館の周囲の状況を自ら見分した。
澁川は、午後九時頃旅館に戻ったばかりの妻をせき立てて、
旅館には 「 親戚の子どもの具合が急に悪くなったので帰る 」 との口実で、
湯河原発午後一〇時三四分発の終列車 ( 横浜止まり ) で帰京した ( 澁川キヌ ・第二回検察官聴取書、稲井静江 ・検察官聴取書 )。
妻が旅館に戻ったとき、彼は妻が帰ってくるのを待っていたような様子であり、
トランクなどもきちんと整理とてあったというから、当初から帰京のつもりだったと思われる。
帰京した彼は、終夜歩一 ・歩三の周辺で部隊の様子を窺っていた。
午前四時過ぎに部隊が営門から出発するのを確認した彼は、直ちに電話でこのことを西田に報告している。
事件発生後の澁川は、情報の蒐集と提供、民間右翼に対する協力要請などに走り回っていたが、
二七日旧知の中橋照夫 ( 明治大学生 ) から山形県農民青年同盟の同志らと謀って蹶起する旨を告げられ、
拳銃五挺の入手方を依頼された。
澁川は、歩兵第三二聯隊 ( 山形 ) の浦野大尉への紹介状を渡し、
まず軍隊と連絡を取るようにと助言する一方、栗原に依頼して入手した拳銃五挺し実包二五発を与えた
( さらに栗原を介して銃砲店に実包三〇〇発を注文したが、これは入手できなかった )。
中橋は、出発直前の二八日午前九時頃自宅で警察官に逮捕され、
反乱幇助で起訴されたが、判決では 「 諸般の職務従事者 」 と認定されて禁錮三年に處せられている。
このほか、澁川は、二八日青森の歩兵第五聯隊の末松太平大尉のもとに、
東京の情況説明と地方同志の奮起を促すため、佐藤正三 ( 中央大学専門部学生 ) を派遣している。
このため佐藤は反乱幇助罪で起訴されたが、
判決では 「 諸般の職務従事者 」 と認定され、禁錮一年六月 ・執行猶予四年の刑を受けている。
なお、末松は、革新青年将校の一員であり、澁川の同期生で親交があった ( 反乱者を利する罪で禁固四年 )。
この事実は、澁川も被告人尋問で率直に認めている。
しかし、判決文からは、なぜかこの事実はすっかり欠落している。
おそらく、法務官のミスと思われる。
二八日午前一〇時頃、澁川は 「 幸楽 」 にいた安藤大尉を訪れ、そのまま叛乱軍に止まった。
その理由について、彼は法廷で、
「 外部の弾圧が激しく、検束されるおそれがあったからだ 」 と述べる。
確かに警視庁は、この日から民間関係者の一斉検束に乗り出している。
しかし、情報を得るために安藤に会いに行った澁川が、
急激に悪化した情況のため、戻るに戻れなくなった可能性もないわけではない。
以上の事実関係のもとで澁川を 「 謀議参与者 」 と認めることは、私には疑問がある。
牧野偵察はまさに幇助行為だし、中橋らに対する行為にしても、彼が独自に行った支援行為にすぎないからである。
しかし、この点はさておいても、極刑の選択はあまりにも酷であった。
軍法会議は、民間の被告人らに対しては、とりわけ厳刑で臨んで居る。
澁川然り、湯河原班の水上然り ( 求刑は懲役一五年 )、北 ・西田また然りであった。
禁錮一五年の求刑を受けた亀川哲也も、判決は無期禁錮であった。
軍部に対する国民の非難を民間人に転嫁しようとする意図が窺える。

5  群衆指揮者
群衆指揮者と認められた者のうち、
死刑は中橋 ・丹生 ・坂井 ・田中 ・中島 ・安田 ・高橋 ・林の八名、
無期禁錮刑は麥屋 ・常盤 ・鈴木 ・清原 ・池田の五名であった。
中橋 ・丹生は中隊長代理として、坂井は週番士官の職権を行使して、
いずれも所属中隊の部下を動員しており、その責任は重大である。
田中は野戦重砲兵第七聯隊第四中隊付の砲兵中尉であったが、
夜間自動車行軍と称して所属中隊の下士官 ・兵を駆り出して軍用自動車などを運転させ、
反乱部隊に投じた。これまた統帥を乱した点で、その責任はきわめて重い。
中島と安田はいずれも陸軍砲工学校の学生で、中島は工兵少尉、安田は砲兵少尉であった。
この二人は個人参加の形で決起に参加したが、中島は高橋蔵相殺害の実行正犯であり、
また安田は斎藤内大臣 ・渡辺教育総監殺害の実行正犯である。
高橋は歩三第一中隊付の少尉で、坂井の指揮に従ったが、
安田と同様に斎藤内大臣 ・渡辺教育総監殺害の実行行為者であった。
林は歩一機関銃隊付の新品少尉 ( 週番士官 ) であるが、首相官邸で警察官二名を斬殺し、
さらに兵に命じて首相秘書官松尾伝蔵を射殺させている。
その行為結果の重大性を考えると、彼らに対する極刑の選択はやむを得ないであろう。
これに対して、無期刑を選択された者のうち、
麥屋は歩三第一中隊付の特別志願の少尉であり、その外の四名は、すべて新品少尉であった。
この経歴の淺さと殺傷行為に加わらなかったことが、彼らを死から救ったのであろう。
ただ、いやしくも週番士官命令を発して所属中隊員を動員した鈴木 ・清原とそうでない者との間には、
量刑上差異があって当然ではないか、という疑問は残る。
あるいは、前非を悔い、寛大な裁判を泣訴した二人の態度が、罪一等を免じさせたのかも知れない。

6  山本又 ( 諸般の職務従事者 )
山本は、大正四年歩兵第三四聯隊 ( 静岡 ) に現役兵として入隊し、
以来累進して昭和五年歩兵少尉に任官すると同時に予備役に編入された、たたき上げの将校である。
除隊後しばらく郷里の静岡県で農業を営んでいたが、その後中等学校教員の免状を取得し、
昭和八年から東京市外府中町にある私立明星中学校の体操兼剣道の教師をしていた。
事件当時四〇歳、妻との間に一四歳を頭とする四人の子どもがあった。
山本は、大正一〇年頃日蓮主義の国柱会に入会し、
・・・(24)
国柱会とは、日蓮主義者田中智学の主唱した修業団体であるが、
政治団体として天皇中心の国家主義を標榜する立憲養正会を抱えていた。
馬場義続 『 我国に於ける最近の国家主義乃至国家主義運動に就て 』 700頁 ( 一九三五年、司法研究報告書集一九輯一〇号 )
 
次第に国家革新の必要を感じるようになった。
昭和九年頃磯部を知ってその影響を受け、時折革新将校の会合に顔を出したりしていた。
しかし、昭和一一年に入る頃からは、自らの年齢と家族の生活を考え、革新運動から手を引きたいと思うようになり、
磯部の会合への誘いも口実を設けて二度ほど断っていた。
二月二五日午後六時、前日から生徒を連れて近衛歩兵第三聯隊に一泊二日の体験入隊をしていた山本は、
帰途磯部宅に立ち寄った。
二三日に、その旨の指示を受けていたからである。
山本は、そこで初めて昭和維新断行の計画を告げられて驚愕した。
彼は、「 頭ガガントシテシマヒ、何ガ何ダカヨク判ラナカツタ 」 と述べている ( 第三回予審調書 )。
不安に駆られた彼は、家庭のことも心配なので一度帰宅してから出直したいと申し出た。
そのまますっぽかそうという腹づもりだったという。
しかし、磯部の強態度に押し切られ、そのまま歩一に随行した。
彼は、丹生部隊に同行して陸相官邸に赴いた。
山本が本事件で果たした役割は、蹶起趣意書の印刷、陸相官邸で入口の監視、給養に関する交渉などであった。
「 諸般の職務従事者 」 という判決の認定は正当である。

7  今泉義道 ( 諸般の職務従事者 )
今泉は、前述のように反乱の意思なしとして起訴事実を争った。
しかし、判決は、中橋から決起計画を告げられた
「 今泉義道ハ、事茲ニ至ル、已ムヲ得ズト爲シ、中橋基明ノ意ニ從ヒ行動セムト決意スルニ至リ 」、
中橋らの高橋蔵相襲撃の間守衛隊控兵を引率して待機し、その後中橋の指揮に従って宮城内に赴き、
「 守衛隊司令官ニ敢テ事情ヲ告グルコトナク控所ニ位置シ 」 た行為を 「 諸般の職務 」 に従事したと認めた。
中隊長代理から部隊の出発直前に起されて計画を明かされ、その場で進退を迫られた今泉の立場は、
同情に値する。
しかし、事態を十分認識しながら中橋の皇居侵入行為に同調した彼の行為は、
反乱罪に問われてもやむを得ないというべきであろう。
禁錮四年という他の被告人に比べると破格の量刑は、裁判官の彼に対する同情を示している。