あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

47 二・二六事件行動隊裁判研究 (二) 『 第五章 訴追 』

2016年03月14日 19時01分40秒 | 暗黒裁判・二・二六事件裁判の研究、記録

獨協法学第45号 ( 1997年12月 )
論説
二・二六事件行動隊裁判研究 (一)
松本一郎
第一章  序説
第二章  反乱の陰謀
第三章  出動命令
第四章  反乱行為の概要  ( 以上第四五号 )
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獨協法学第47号 ( 1998年12月 )
論説
二 ・二六事件行動隊裁判研究 (二)
松本一郎
第五章  訴追
一  幹部に対する訴追
二  准士官 ・下士官の訴追
三  兵に対する訴追
第六章  将校班の審判
一  軍法会議の構成
二  将校班の審理経過
三  論告 ・求刑
四  被告人らの主張
五  判決
第七章  下士官班の審判
一  審理の経過
二  被告人らの弁明と心情
三  論告 ・求刑
四  判決
第八章  兵班の審判
一  審理の経過
二  判決
第九章  終章  ( 以上本号 )
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第五章  訴追
一  幹部に対する訴追
  二月二九日午後陸軍大臣官邸に集合した反乱軍幹部たちは、
 午後五時頃憲兵によって東京衛戍刑務所に移された。
もっとも、自決に失敗した安藤は東京衛戍第一病院で手当を受けていたので、
刑務所への収容は午後一〇時過ぎとなった。
日蓮宗の篤信家である山本は、身延山久遠寺に参詣するため山王ホテルから脱出し、
終日山王神社の裏山に潜んでいた。
他方今泉は、まだ反乱者扱いをされておらず、近衛歩兵第三聯隊で隊務に服していた。
磯部は当時の心境について、
「 山王ホテルから脱走して支那へ渡らうと思って、柴大尉に逃げさせてくれとたのんだ位ひであつた。
 何処迄も生き延びて仇討ちをせねば気が済まなかったのだ 」
と記している。
・・・(1)
河野司編 『 二 ・二六事件--獄中手記 ・遺書 』 ( 一九七二年、河出書房新社 ) 278頁
ちなみに今泉を除く将校全員は、この日付で免官となった。
陸相官邸での身柄拘束と衛戍刑務所への連行は、
現行犯逮捕または適式な礼状 ( 勾引状 )によるものではない。
被告人らはこの日の午後七時頃刑務所内において、
陸軍司法警察官 ( 憲兵 ) が発付した勾引状の執行を受けたことになっているからである。
したがって、右時点までの身柄拘束の法的根拠が問題となるが、
この点については、林の三月一日付憲兵調書に次のような記載がある。
「 午後五時頃身柄保護トイフノデ憲兵ニ刀及拳銃ヲ取上ゲラレ、
 捕繩ヲ懸ケラレテ刑務所ニ聯レテ來ラレマシタ 」
これによると、
陸相官邸での身柄拘束は行政執行法一条の保護検束であったと思われる。
憲兵に行政検束の権限があるかどうか疑問なしとしないが、
・・・(2)
憲兵には、行政警察の職務を行う権限はないとする有力説があった。見延達吉 『 日本行政法 』 下巻 ( 一九四〇年、有斐閣 ) 55頁
この点はさておき、執拗に自殺を慫慂しておきながら、
それを拒まれると手のひらを反すように、
「 自殺ヲ企ツル者其ノ他救護ヲ要スト認ムル者 」
として検束するのだから、勝手なものである。
勾引状の記載によると、各被告人は、
当日刑務所から格別に憲兵隊 ( または憲兵分隊 ) に引致されたことになっている。
しかし、これは形式だけで、当日にはそのような事実はなかった ( 池田俊彦氏の直話 )。
勾引状は、その翌日からの各憲兵隊に分散しての尋問を合法化するために発付されたにずない。

三月二日、憲兵は山本 ・今泉を除く被告人らを第一師団軍法会議検察官に送致し
( 陸軍軍法会議法一八二条。以下、陸会と略記する 、)
翌三日検察官は、各被告人らに対して勾留状を発付した ( 一八三条 )。
三月四日、昭和一一年勅令第二一号 「 東京陸軍軍法会議ニ關スル件 」 が公布 ・施行され、
二月二六日事件を管轄する特設軍法会議として東京陸軍軍法会議が設置された。
これに伴って三月五日、被告人らの事件は第一師団軍法会議から東京陸軍軍法会議に移送された。

  山王ホテルから脱出した山本は、御殿場の日本山妙法寺を経て三月三日身延山久遠寺に参詣し、
  事件の犠牲者のために法要を依頼した上、四日東京憲兵隊本部に自首した。
同日付で憲兵の尋問調書が作られ、また勾引状が発付されているが、
なぜかその執行は五日午後四時となっている。
一旦自宅に帰すことはあり得ないから、おそらく初日は保護検束という常套手段によったのであろう。
七日、山本は東京陸軍軍法会議検察官によって勾留された。

三月五日近衛歩兵第三聯隊本部で勾引状の執行を受けた今泉は、
六日東京陸軍軍法会議検察官に送致され、翌七日に勾留された。
中橋中隊長代理によって事件に巻き込まれた今泉に対しては、憲兵も同情の念を抱いたとみえ、
検察官への送致書には寛大な処分をという意見が付されている。
また、近歩三が軍法会議検察官に提出した資料には、次のような嘆願文が記されている。
・・・(3)
近衛歩兵第三聯隊 「 陸軍少尉今泉義道 ・陸軍軍曹蓑輪三郎 ・同宗形安ニ關スル裁断参考資料 」
「 将校団一同ハ、
 平素ヨリ至誠至純、孜々トシテ軍務ニ精励シ、
小心翼々勉メテ唯及バザレヲ是レ懼レタル、可憐ナル当年二十二歳ノ今泉少尉ニ無限ノ同情ヲ注ギ、
彼ガ此ノ事件ノ連座ニヨリテ軍人トシテノ生命ヲ終リテハ余リニモ悲惨ナリ、
風雲急ナル折柄何卒神明ノ加護ニヨリテ、今一度彼ニ皇軍軍人トシテノヨキ死場所ヲ与ヘラレムコトヲ、
ト切ニ祈リツツアルコトヲ附記ス。
部下兵員並家族一同ノ冀フ所、亦ココニアリ。願ハクバ諒トセラレムコトヲ。」

  三月八日、検察官匂坂春平は東京陸軍軍法会議の長官 ( 前記勅令二条による ) である陸軍大臣に対して、
  被告人ら全員について予審を請求すべきものと思料する旨の意見を添えて捜査報告書を進達し、
大臣の命令 ( 陸会三〇八条二号 ) を得た上、予審官に予審を請求した ( 三一二条 )。
予審とは、事件が公訴を提起すべきものかどうかを決定するに必要な資料を収集するための手続きである。
( 陸会三二一条 )。
それは、法形式的には予審官 ( 刑事訴訟法では予審判事 ) を主宰者とする公判準備手続きであるが、
その実質は捜査にほかならない。
このことは、軍法会議法でとくに顕著であった。
というのは、旧刑事訴訟法 ( 大正一一年法律第七五号 ) は予審を起訴後の手続きとし ( 二八八条 )、
これを弾劾主義構造の中に取り込んだのに対して ( 予審でも弁護人を選任でき、予審免訴決定には一事不再理効が与えられた )、
軍法会議法はこれを起訴前の手続きとして、予審を名実共に捜査の一環に位置づけているからである。
この違いは、旧刑訴法が訴追裁量権を検事に与えたのに対して ( 二七八条、二七九条 )、
軍法会議法はそれを軍法会議の長官 ( 高等軍法会議においては陸軍大臣、師団軍法会議においては師団長。陸会一〇条 )
に委ね ( 陸会三〇八条、三三一条 )、検察官の起訴 ・不起訴を長官の命令にかからしめたことによる。

ここで、東京陸軍軍法会議職員の構成について簡単に触れておく。
同軍法会議は裁判部と検察部とに分かれ、各師団軍法会議などから急遽集められた職員が配置された。
三月二三日付の職員票によると、・・・(4)  匂坂資料Ⅱ72頁
裁判部には二一名の陸軍法務官、検察部には一二名の法務官がそれぞれ配置されている。
裁判部には、現役陸軍将校から選任された判士が加わるが、これについては次章で考察する。
裁判部所属の法務官は、さらに予審を担当する予審官と、
審判機関としての軍法会議 ( 訴訟法上の意味における軍法会議 ) の裁判官である法務官とに分かれる。
しかし、軍法会議では、検察官、予審官、裁判官の区別は、通常の裁判所のように厳格なものではなく、兼務が可能だった。
 陸軍軍法会議法には忌避の制度を欠いていたが、除斥と回避の制度はあった ( 八〇条以下 )。
これによると、裁判官が事件につき検察官や予審の職務を行ったときは、当然に除斥された。
しかし、同法八六条は、特設軍法会議においては、裁判官の除斥 ・回避の規定によらないことができると規定していた。
これは、戦地などの緊迫した状況下で設置される特設軍法会議では、適式な人的構成をとる余裕がないことによるものであり、
しかもその適用が任意的とされていることに注意する必要がある。
したがって、戒厳令下とはいえ、すでに治安が回復した状態で開かれる東京陸軍軍法会議では、
本来適用を控えるべき規定であった。
しかし、陸軍の法務部は、この規定を活用した。
同一被告人について、裁判官と予審官の一人二役を務めた例だけではなく、
検察官 ・予審官 ・裁判官の一人三役を務めた例さえもあった。
例えば、栗橋担当の藤井予審官は、将校班の裁判官を努めている。( ・・栗橋=栗原+ 中橋 ? )
北 ・西田担当の伊藤予審官は、後に同人らの裁判官となり、さらに公判審理の合間を縫って、検察官として西田を取調べている。
公正な裁判を担保すべき制度的保障は、最初から無視されていた。

三月一一日、陸軍次官は憲兵司令官 ・戒厳司令官宛に、
今事件においては、部隊が兵営を出発した時点からこれを 「 叛乱 」 と認める旨の通牒を発している。
・・・(5) 清張資料Ⅰ399頁
予審の取調べも、この公式見解を前提として進められた。

  被告人らは、刑務所に収容された当初はうち萎れていたが、
午後一〇時過ぎ包帯姿の悲壮な格好で入所してきた安藤が、
「 最早俺は断じて死なぬ。必ず生きて再挙を計る 」
と強い意見を吐くのを聞いて、元気を回復した。
磯部によると、一同は 「 暗夜ニ燈火ヲ認メタ如ク、一縷ノ望ヲ嘱シタ 」 という ( 昭和一二年三月三日付検察官聴取書 )。
予審に付された被告人らは、各自予審官の尋問を受けた。
彼らは、予審段階では自らの運命についてきわめて楽観的だったようである。
磯部の 「 獄中手記 」 ・・・(6) 河野 ・前掲書363頁 によると、
安藤は四月二九日の天長節 ( 天皇誕生日 ) には大赦で釈放されるから、
「 幸楽 」 で祝賀会をやろうと朗らかだったという。
磯部自身も、近いうちに出所できるだろうと考えていた。
しかし、被告人らの希望的観測は、見事にうち砕かれた。
四月九日予審終了の通知を受けた匂坂検察官は、
一五日軍法会議長官 ( 陸軍大臣 ) に対して予審終了を報告すると共に、
被告人ら二三名全員について公訴提起が相当である旨の意見書を提出し、
同日長官の公訴提起命令を得た上、東京陸軍軍法会議に対して公訴を提起した。
公訴状によると、村中 ・磯部 ・香田 ・安藤 ・栗原が陸軍刑法二五条一号の反乱首魁、
澁川 ・對馬 ・竹嶌 ・中橋 ・坂井が同条二号前段の謀議参与、
丹生 ・田中 ・中島 ・安田 ・高橋 ・麥屋 ・常盤 ・林 ・鈴木 ・清原 ・池田が同条二号前段の群衆指揮、
今泉 ・山本が同条二号後段の諸般の職務従事者とされている。
磯部は、四月の二十四、五日頃公訴提起の通知を受けて驚いている。
しかし、藤井法務官から、裁判官は検察官とは違って公平な立場で裁くのであると説明されて、
いささか安心したという。
後に彼は、次のように自らをあざける。
・・・(7) 河野 ・前掲書363頁
「 何も知らぬ余は公判でウンと戦へると考へた。そして私かに全勝を期してユカイでたまらなかった。
 知らぬが仏だ。公判に於てアレ程の言論封サをされることも知らずによろこんでいたのだから 」

二  准士官 ・下士官の訴追
  反乱部隊に加わった准士官 ・下士官 ( 見習医官を含む。以下同じ )は、
原隊復帰の数日後全員が東京衛戍刑務所に勾留された。
見習医官を除く全員は、二月二九日付で免官されて一等兵とされ、
・・・(8)
陸軍懲罰令 ( 明治四四年軍令第四号 ) による。
下士官に対するもっとも重い懲罰が免官であり、 「 免官は其の官を免じ一等兵とする 」 と規定されていた ( 一一条 )
位階勲等を剥奪された上、予備役に編入された。
三月一六日、全員について予審が請求され、予審官の尋問を受けた。
予審では、事件中の各自の行動のほかに、事件への参加が自発的か、
それとも命令によるものかという点について、厳しく追及された。
後に無罪となった横川元次郎 ( 歩一第一一中隊軍曹 ) は、次のように記している。
・・・(9)
埼玉県編 『 二 ・二六事件と郷土兵 』 ( 一九八一年、埼玉県 ) 55頁  ( ・・・リンク →「 豫審では そう言ったではないか 」 )
「 私を取調べた予審官は岡田痴一という法務官で( 中佐相当官 ) 万事罪人に仕立てるべく段取りした上で、
 きびしく私にあたった。調査室は小部屋で彼は一段高い所にいて高圧的に尋問した。
 『 お前は出動中、今読みあげたように行動したのだな 』
 『 その時お前は進んで同意したそうだな 』
 『 それをよいと判断したのだな 』
彼はこのように自ら筋書きを作っておいて私にハイといわせた。
つまりパズルと同じ空欄の中にイエスという言葉をはめ込んで行くのである。
反論すると大声で威圧し、自論に従わせた。」

  四月二四日、匂坂検察官は陸軍大臣に対して、准士官 ・下士官のうち七三名について起訴相当、
  二〇名について 「 犯情ニ於テ憫諒ス可キモノアルヲ以テ 」 不起訴相当の意見を進達し、
同日その旨の命令を得て公訴提起と不起訴の処分を行った。
公訴状では、被告人らはすべて陸軍刑法二五条二号後段の諸般の職務従事者とされている。
公訴提起は、二グループに分けて行われた。これは、人数の関係からと思われる。
新軍曹以下三九名の第一グループは、
斉藤内大臣私邸 ・渡辺教育総監私邸 ・警視庁を各襲撃した被告人らで、全員が歩三に所属していた。
大江曹長以下三四名の第二グループは、
高橋蔵相私邸 ・陸軍大臣官邸 ・総理大臣官邸 ・鈴木侍従長官邸を各襲撃した被告人らで、
近衛三 ・歩一 ・歩三所属者と個人参加の大江曹長 ( 近衛師団司令部所属 ) とで成り立っていた。
この第一グループは後に下士官甲班として第二公判廷で、第二グループは下士官乙班として第三公判廷で、
各別に審判されることになる。
第一票は、所属中隊ごとの反乱参加者 ・起訴 ・不起訴人員数を表したものである。
この表では、個人参加の大江曹長 ( 近衛師団司令部 ) と尾島曹長 ( 歩一砲兵砲隊 )とを除いた。
なお、歩三第二中隊の数字は、一旦不起訴とされた後に起訴された北島伍長を被訴追者に加えた数字である。
不起訴のうち、歩一第一一中隊の一名と機関銃隊の二名は、負傷者の看護のために同行させられた見習医官である。
・・・(10)
彼らは、その後反乱軍から脱走して原隊に復帰している。
全員は不起訴となった後、官を免ぜられて除隊させられた ( 羽生田進氏の直話 )
この三名を除くと、准士官 ・下士官の起訴率は八二パーセントに達する。
検察官が、いかに下士官の役割を重大視したかが察知される。

第一表  准士官 ・下士官訴追状況
所属                   指揮官        襲撃先              参加者数      訴追者数      不起訴者数
歩三・・一中隊      坂井中尉     斎藤 ・渡辺邸      8                 8                 0
歩三・・二中隊      同               同                      6                6                  0
歩三・・三中隊      清原少尉     警視庁               10               6                  4
歩三・・六中隊      安藤大尉     鈴木侍従長官邸  11               11                0
歩三・・七中隊      野中大尉     警視庁               12               11                1
歩三・・十中隊      鈴木少尉     同                      9                 7                 2
歩三・・機関銃隊  各隊に分属   各隊に分属         9                 2                 7
歩一・・十一中隊  丹生中尉      陸相官邸等        12               11                1
歩一・・機関銃隊  栗原中尉      首相官邸           10                7                 3
近歩三・・七中隊  中橋中尉     高橋邸                3                 3                 0
重砲七・・四中隊  田中中尉     輸送担当             1                 0                 1
合計                                                              91               72                19

将校から昭和維新断行を告げられて参加を求められた中隊では、下士官の殆んどほとんどが起訴され、
事情のわからぬまま命令によって出動した中隊では、その多くが不起訴となった。
歩三第一 ・第二 ・第六 ・第七 ・第一〇各中隊、歩一第一一中隊 ・機関銃隊、近歩三第七中隊が前者であり、
歩三第三中隊 ・機関銃隊、野戦重砲兵七聯隊第四中隊が後者である。
このことから、起訴 ・不起訴の一般的判断基準が、被疑者の知情の有無にあったことがわかる。
・・・(11)
軍法会議法上では、被疑者も 「 被告人 」 と呼称している。全員は不起訴となった後、官を免ぜられて除隊させられた  ( 羽生田進氏の直話 )
しかし、前者でもなぜか不起訴となった者があれば、後者でも特段の事情もないのに起訴された者がある。
後述の北島伍長の例にもあるように、予審の捜査は必ずしも十分ではなかったと思われる。
予審官の心証の良し悪しによって、起訴 ・不起訴の明暗を分けた例もあったであろう。
もっとも、歩一機関銃隊の中川伍長のように、
部隊から離脱したい一心で、暴発を装って自ら拳銃で右手掌を撃ち抜き、
病院に収容されて不起訴となった特殊な事例もあった。

  坂井中尉から一本釣りをされた歩三第二中隊の下士官の中で、
  北島伍長だけは一旦不起訴処分で釈放され、除隊となった。
これは、予審官が、坂井から出動の目的を聞かなかったという北島の弁解を真に受けた結果であった。
しかし、将校班第二回公判 ( 六月四日 ) での坂井の最終陳述から、問題が再燃した。
坂井は、部下の下士官兵には責任がないことを主張した上、
下士官全員に対して蹶起の趣意を明瞭に告げたにもかかわらず、
予審で正直にそれを肯定した長瀬伍長が起訴され、
否定した利口者の北島伍長が不起訴となったことを指摘し、
部下に対しては公正な裁判をしてほしいと述べたからである。
六月一七日竹沢検察官は坂井を取り調べた上、一八日北島を出頭させて予審官に勾留を請求し、
二〇日陸軍大臣に対して、
「 被告人ハ曩ニ右反亂事件ニ附犯情憫諒スベキモノアリトシ、
 不起訴處分ニ附セラレシモノナルモ、更ニ檢察官取調ノ結果
被告人ノ反亂參加ノ事情及決意其ノ他ノ點ニ於テ
何等憫諒スベキモノニアラザル新ナル事實ヲ發見シタルニ依リ、
被告人ニ對シテハ公訴提起ノ命令相可燃モノト思料ス 」
との意見を進達した。
こうして同日、北島は公訴を提起された。
同僚に対する裁判はすでに五月二八日に結審して、判決を待つばかりであった。

三  兵に対する訴追
  反乱部隊に参加させられた一、三五八名の兵隊たちは、
原隊復帰後他の聯隊に軟禁されて、  憲兵と検察官の取調べを受けた。
匂坂資料Ⅱには、「 兵ニ對スル尋問事項 」 という書類に続いて、
「 兵ニ對スル訊問要項 」 と題する似通った書類が収録されている。
・・・(12) 匂坂資料Ⅱ100頁以下
その体裁 ・内容と、後者 ( 謄写 ・タイプ ) の頭首に匂坂検察官の筆で 「 憲兵ニ示シタルモノ 」
という書き込みがあるところから、後者が実際に憲兵に配布された尋問のマニュアルと思われる。
これによると、一二項にわたって 「 兵営出発ノ当時ハ何ヲシニ行クモノト思ツタカ 」 ( 三項 )、
「 其ノ後如何ナル行動ヲシタカ 」 ( 第五項 )、「 兵器弾薬ヲ使用シタカ 」 ( 第七項 )、
「 如何ナル考ヘデ今回ノ事件ニ参加シタカ 」 ( 第八項 ) などの尋問のポイントが示されている。
兵士たちの中には、憲兵や中隊の幹部からあらかじめ答弁要項を指示された者もあった。
・・・(13)
前掲 『 二 ・二六事件と郷土兵 』 85頁、埼玉県編 『 雪未だ降りやまず 』 ( 一九八二年、埼玉県史刊行協力会 ) 161頁
できるだけ兵を連座させたくないという軍の意向が窺える。
多くの兵が犯罪者として扱われることになれば、その父兄らに反軍思想が高まり、
ひいては国民の間に徴兵制度に対する疑念が生じるおそれがあるからである。
これは、徴兵制度にその基盤を置く陸軍としては、もっとも警戒すべき事態であった。
・・・(14)
戒厳司令部は、事件が地方民心に及ぼした悪影響について深甚な注意を払い、詳細な調査を行っている。
この点については、第八章で述べる。
兵隊たちのほとんどは、一、二回の取調べで原隊に戻された。
しかし、殺傷行為など突出した行為をしたと認められた一九名は、勾留されて予審に付された。

二  四月二七日、検察官は予審を請求した一九名全員について、
  陸軍大臣の命令を得て公訴を提起する一方、残りの一、三三九名については、
陸軍大臣に対して、
「 犯情ニ於テ憫諒ス可キモノアルヲ以テ 」 陸軍軍法会議法三一〇条の告知が相当であるとの意見を進達し、
その旨の告知がなされた。これは、不起訴処分の一種である。
陸軍軍法会議法三一〇条は、軍法会議長官が公訴提起命令 ・予審請求命令 ( 以上三〇八条 )、
管轄違による送致命令 ( 三〇九条 ) をしないときは、その旨を検察官に告知すべしと規定している。
この告知は、形式的には前二条所定の命令をしない旨の告知となっているが、
その実質は検察官に対する不起訴許可の告知である。
陸軍軍法会議法は、予審を経た事件についての不起訴処分命令 ( 三三一条一項二号 )
による不起訴を 「 不起訴処分 」 と称し、これは、新事実または新証拠を発見しない限り、
予審請求 ・公訴提起をすることができないという効力が付与されるのに対して、 ( 三三二条 )、
三一〇条による不起訴の場合は、事件の再起について何らの制約もない点にあった。
・・・(15) 日高已雄 『 改訂陸軍軍法会議法講義 』 ( 一九四一年、謄写版 ) 270頁
公訴を提起された者は、いずれも反乱の付和随行者 ( 陸軍刑法二五条三号 ) とされた。
その内訳は、首相官邸襲撃の歩一機関銃隊員一〇名 ( 陸軍上等兵一名 ・一等兵五名 ・二等兵四名 )、
斎藤 ・渡辺邸襲撃の歩三第一 ・第二中隊員九名 ( 上等兵五名 ・一等兵四名 ) である。
公訴状によると、そのほとんどは殺傷行為者か発砲者であるが、
なぜか、鉞で首相官邸に本間の窓ガラスを破壊して内部に侵入し、
その後東京朝日新聞社において活字入りケースを転倒させたに過ぎない歩一の西村一等兵も含まれている。
多数の同種行為者の中から彼だけが起訴された理由は、わからない。

・・・次頁  第六章  将校班の審判 ・・・・に続く