あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

池田俊彦、反駁 『 池田君有難う、よく言ってくれた 』

2019年10月01日 11時51分25秒 | 池田俊彦

裁判始まる
五月十一日はいよいよ私と林の番であった。
午前中は林の審理及び陳述が行われた。
林は昭和七年の上海事変で金沢の歩兵第七連隊長として出征され、
壮絶な戦死を遂げられた軍神林聯隊長の次男で、
ちいさな身体に満々たる闘志を秘めて法廷に立った。
裁判長以下裁判官一同名門の好漢の言に熱心に聞き入っていた。
法廷に於ける林の態度は実に立派であった。
陳述の中で特に印象に残っていることを記す。

自分は幼年学校に入学以来、自分の身はすべて、天皇陛下に捧げ、
毎日のすること為すことすべて陛下の御為との自覚に立って行動し、
毎朝軍人勅諭を奉読し、全身全霊を捧げて日常を律したこと。
そして民を慈しみ給う陛下の大御心に違背する者の存在を許すことが出来なかったとし、
革新思想を抱くようになった動機等に就いて語った。
また御尊父を心から尊敬していたことを話し、その戦死の模様について語った。
上海で最も頑強な抵抗を示した江湾鎮攻撃の際、
旅団長から 「 我が旅団は砲兵の協力を待たずして直ちに攻撃を開始する 」
との命令に接し、林聯隊長は憤慨して、
陛下の赤子である兵隊の生命を何と考えるかと烈火の如く怒ったそうである。
砲弾の少なかったことも原因しているかも知れないが
砲兵の協力無く独力で攻撃が成功すれば、金鵄勲章の等級が上がるからである。
このような栄達主義、兵の生命を粗末にする堕落した軍の幹部、
そしてそのような雰囲気を醸成している今の社会を徹底的に改革しなければならないと言い、
何よりも国家の革新が急務であることを堂々と主張した。
林聯隊長はこの日、兵隊達だけ死なすことは出来ないと、
自ら第一線に進出し壮絶な戦死を遂げられたのである。
また長男林俊一氏のことにつき法務官は林の気持ちをきいた。
俊一氏は一高在学時代 共産主義運動に走り、拘留せられ退学されたが、
そのことに就いて林の考えをきいたのである。
林は簡単に兄は私と同じような考えであったが、
唯一つ、天皇陛下に対する気持の上で一致しなかったと述べた。

林も亦起訴状に対する反駁を強く主張していたが、
最後に二十九日首相官邸を離れて陸相官邸に行く時、
兵隊に別れの挨拶をしなかったことが、今となっては心残りであると、
しんみりした口調で述べた。


池田俊彦

午後は私の番であった。
事実関係の審理のあとで革新思想を抱くようになった動機について尋ねられた。
私は中学校及び士官学校在学時代から、国語、漢文に興味を持ち宗教や哲学的書物を好んで読んだこと、
そして日本精神に関する種々の本、特に大川周明の本などを読むうちに、
日本人は日本人たることによって生存の価値があること、
我々の行動基準は日本精神、神ながらの道に帰することだと考えるようになった旨を述べた。
そして僧契冲の伝記を読み、契冲が仏門に帰依して思索懊悩の末、遂に断崖に撒手して絶後に蘇った時、
飜然として自己に目覚め、仏教から国学へと転向していったその境地に深い感銘を覚えたことを話した。
私は神ながらの道にかえることが現在の混迷せる日本の進むべき道であり、
これこそが昭和維新だと考えるようになったと述べた。
亦安岡正篤の書などから王陽明の思想を知り、次で大塩中斎の著書を読んで、
その神学的な実践思想に共鳴するようになり、
この方面からも自ら進んで昭和維新の実現に努力すべきことを感じた旨を話した。
そして日本の海外進出についても、日本は王道的道義的精神を以てお互いに栄える道を選ぶべきであり、
利益本位のやのり方は是正さるべきであると言い、一つの例を挙げた。
中国貿易を行っている或る小さな会社が、中国奥地の乾燥卵を輸入していた。
これはその会社が奥地の鶏卵の山地に行って永年研究の末乾燥卵を造らせて、
それを一手に引受けて内地に輸入していた。
このことを知った或る財閥の会社は、その資本力に物を言わせ、
その商店より高く買い付けて、その輸入を独占してしまった。
これによってその小さな会社は倒産した。
その後その財閥の会社はダンピングによって買い値をたたき、
膨大に利益を得たということを或る人から聞いたこと。
そしてこのような覇道的な侵略的なやり方は断じて許さるべきものではないこと。
国内の貧困の救済と共に、
眼を大きく開いて米英の資本主義的搾取から東洋の民族を救ってゆかねばならぬことを述べた。

どうしてこの事件に参加したかとの問いに対しては、
私はこれ迄革新運動をやってきた者ではなく、また現在の軍の情勢などは分からないけれども、
今回の蹶起が昭和維新への道を開くことを念願して参加したことを述べ、
諸葛孔明の出帥の表の最後の文章を唱え、その成敗利鈍を問わず出陣した心境に触れ
参加を決意するに至ったことを話した。

次で法務官は一段と声を高くして次のように私を問いつめた。
「 今回襲撃し、そして殺害した方々は国家の元老、重臣であり、
 特に、陛下の御親任も厚く、今迄国家に対して功労のあった方ばかりである。
このような方々を殺害したことに対し、どう考えているか 」
私はこれに対しきっぱりと次のように答えた。
「 私はこのことについては次のように考えております。
 凡そ善人とは過去にどんな悪行があり、誤りがあったにせよ、それを反省し現在善人であり、
善なる方向に努力している者は善人であります。
また悪人とは過去にどんな善行があっても、現在悪であり、悪の方向に進んでいる者は悪人であります。
過去において国家に功労があった元老、重臣の方々も、時勢の進展に眼を開かず、
誤った認識の下に国家の進展を阻害している者は、悪と断じて差支ないものと信じております。
このような者を誅戮するのに躊躇するものではありません 」
この時裁判官一同私の顔をじっと睨んでいるような感じがした。

私は更に語をついで、
十一月二十日事件のことに触れ、
辻大尉一派のように謀略的方法を以て反対派を排撃し、
権力を以て自派本位の改革を行う考え方には反対で、
むしろ村中さんや磯部さんのように
一身を捨てて維新のために立ったことは正しいと考えている旨を述べた。

また法務官は自決しなかったことの理由を問いただしたが、
私は二十八日には栗原中尉以下一同自決する決心でいたけれども、
その後の攻囲軍の動きと当局の吾々の心情を踏みにじったやり方に、
何とも言えぬ反抗心が湧いたからであると述べた。
今から考えると、死を決意した者がその死を取り止めた理由など弁解じみたことに聞こえるが、
きかれた以上返答しなければならなかった。

あとは何を言ったかは覚えていなかったが、これで私の陳述は終り閉廷となった。
私は少し張り切りすぎて言いすぎたような気持がして、自分の席に戻ってからも興奮がさめなかった。
随分思い切ったことを言ったと思った。

やがていつものように香田さんを先頭に一列縦隊になって、
刑務所に向って帰っていった。
その時、私の二人目の後を歩いていた村中さんが、私の側に寄ってきた肩をたたき、
「 池田君 有難う。よく言ってくれた 」
と言って礼を言った。
磯部さんもまた同様であった。
この時私は嬉しかった。

池田俊彦 著
生きている二・二六   から


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