あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

47 二・二六事件行動隊裁判研究 (二) 『 第七章 下士官班の審判 』

2016年03月08日 15時03分31秒 | 暗黑裁判・二・二六事件裁判の研究、記錄

獨協法学第45号 ( 1997年12月 )
論説
二・二六事件行動隊裁判研究 (一)
松本一郎
第一章  序説
第二章  反乱の陰謀
第三章  出動命令
第四章  反乱行為の概要  ( 以上第四五号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
獨協法学第47号 ( 1998年12月 )
論説
二 ・二六事件行動隊裁判研究 (二)
松本一郎
第五章  訴追
一  幹部に対する訴追
二  准士官 ・下士官の訴追
三  兵に対する訴追
第六章  将校班の審判
一  軍法会議の構成
二  将校班の審理経過
三  論告 ・求刑
四  被告人らの主張
五  判決
第七章  下士官班の審判
一  審理の経過
二  被告人らの弁明と心情
三  論告 ・求刑
四  判決
第八章  兵班の審判
一  審理の経過
二  判決
第九章  終章  ( 以上本号 )
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第七章  下士官班の審判
一  審理の経過
  反乱罪の 「 諸般の職務従事者」 として起訴された准士官 ・下士官のうち、
  新軍曹いか三九名の甲班 ( 斎藤内大臣私邸 ・渡辺教育総監私邸 ・警視庁を襲撃したグループ ) は第二公判廷、
大江曹長以下三四名り乙班 ( 総理大臣官邸 ・高橋蔵相私邸 ・陸軍大臣官邸 ・鈴木侍従長官邸を襲撃したグループ ) は第三公判廷で、
各別に審理された。
甲班の全員は歩三に所属し、乙班は個人参加の大江曹長 ( 近衛師団司令部 ) を除き、
近歩三 ・歩一 ・歩三の三聯隊にまたがっていた。
甲班の裁判長は、陸軍歩兵中佐若松只一 ( 陸軍参謀本部、大正一五年陸大卒 )、法務官は陸軍法務官山上宗治 ( 第三師団軍法会議 )、
判士は陸軍歩兵大尉浅沼吉太郎 ( 東京陸軍幼年学校 )、同二神力 ( 陸軍歩兵学校、昭和四年陸大卒 )、同中尾金弥 ( 歩兵第六三聯隊 )、
補充裁判官は陸軍歩兵大尉河合重雄 ( 戦車第二聯隊 ) であり、立会検察官は陸軍法務官塚本浩次 ( 第一四師団軍法会議 ) であった。
乙班の裁判長は、陸軍歩兵中佐山崎三子次郎 ( 歩兵一一聯隊 )、法務官は陸軍法務官岡田痴一 ( 第一〇師団軍法会議 )、
判士は陸軍航空兵大尉谷川一男 ( 陸軍参謀本部、昭和四年陸大卒 )、陸軍歩兵大尉福山芳夫 ( 陸軍兵器本廠 )、
陸軍砲兵大尉高山信武 ( 横須賀重砲兵聯隊、昭和一〇年陸大卒 )、補充裁判官は陸軍砲兵大尉寒川吉溢 ( 陸軍参謀本部、昭和八年陸大卒 )
であり、立会検察官は陸軍法務官西春英夫 ( 第一師団軍法会議 ) であった。
  兩法廷とも、昭和一一年五月五日の第一回公判から同月二八日の第一一回公判まで、  ほとんど連日のように開廷された。
審理は、受命裁判官による証人尋問と検証 ( 甲班 ) を除けば、被告人尋問と書証の取調べに終始した。
被告人側からの証拠申請はなかった。
被告人の最終陳述は、乙班では全員について行われたが、甲班では一八名についてしか行われていない。
被告人の方で、述べることはないと言ったためと思われる。
六月二十日、北島伍長 ( 歩三第二中隊 ) が遅れて起訴された ( 前章第二項二参照 )。
北島は、六月二四日第二公判廷において審理され、即日結審となった。
判決は、甲班の被告人らと併合して宣告された。
甲班では、なぜか第一回公判の五月二日、三日に裁判長以下の各裁判官が手分けして、
受命裁判官による被告にん尋問と証人尋問を行っている。
これは、現行刑事訴訟法の下では絶対にあり得ないことだが、おそらく当時としても異例ではなかったかと思われる。
甲班の第一回公判前の被告人尋問は、各判士によって二四人の被告人についておこなわれているが、
その選別の基準は判らない。
尋問は、事件参加の動機、とくに命令によるものかどうか、その命令は正しいものと思ったかどうか、
という二点に主眼が置かれている。
甲班での証人尋問は山上法務官が担当し、公判開始後の五月七日にも継続的に実施された。
証人は、被告人らを指揮した坂井 ・常盤 ・高橋 ・鈴木 ・安藤 ・清原の五名である。
尋問の中心は、下士官兵を命令で参加させたかどうかという点にあるが、
それに加えて、部下の革新意識の強弱を一〇点満点で評価させている。
乙班では、五月一三日に受命裁判官 ( 岡田法務官 ) による栗原 ・中橋に対する証人尋問が行われた。
ここでも尋問の中心は、命令によって部下に参加を強制したか否かという点にあった。

二  被告人らの弁明と心情
1  甲乙両班の違い
起訴に対する被告人らの対応は、自由意志で参加したことを認めた者 (A)、
命令の違法性を知りつつ、あるいは疑問を抱きつつこれに服従したことを認めた者 (B)、
正当な命令と信じて行動したと主張した者 (C)、
の三つに分類することができる。
各人の主張と求刑意見 ・判決結果をまとめたのが、第三、第四表である ( 遅れて起訴された北島を含む )
第三表    下士官の主張と刑 ( 甲班 )    ( 第三聯隊 )
A = 自由意志で参加した
B = 命令の正当性を疑いながらも、これに従った
C = 正しい命令と信じて行動した

第四表    下士官の主張と刑  ( 乙班 )
A = 自由意志で参加した
B = 命令の正当性を疑いながらも、これに従った
C = 正しい命令と信じて行動した

これによると、被告人らの対応が甲乙両班で著しく違っていることが判る。
甲班では、自発的参加を認めた者が二一名 ( 五二 ・五% )、乙班ではわずか四名にすぎない ( 一一 ・八% )。
これに反比例して、命令の正当性を信じて行動したと主張した者は、甲班では七名 ( 一七 ・五% )、
乙班では二五名 ( 七三 ・五% ) である。
ちなみに、命令の正当性に疑問を抱いた者 ( 違法と認識していた者を含む ) は、甲班で一二名 ( 三〇 ・〇% )
乙班で五名 ( 一四 ・七% ) となっている。
この違いが生じた原因として、次の三点が考えられる。
第一に、甲班の第三聯隊第二中隊員六名は、坂井の一本釣りによって参加しているので、( 前述第三章第一項2参照 )
命令服従関係が成立する余地がない。
第二に、指揮官の下士官に対する働きかけの違いがある。
甲班の第七中隊員一一名と第一〇中隊員七名に対しては、
野中大尉が、「 命令 」 では統帥権を侵すことになるから、「 同志 」 として参加してもらいたいと懇々と説明し、
下士官たちの同意を取り付けた。( 前述第三章一5、6参照 )
福島伍長のごときは、兵にもこのことを伝え、その意思を確認した上で出動を命じている。
これに対して乙班の歩一機関銃隊員七名と歩三第六中隊一一名は、
その心情はともかくとして、栗原中尉または安藤中隊長の 「 命令 」 の形式によって出動した。
前者では、最初から 「 上官の命令 」 という大義名分への逃げ道が断たれていたのである。
第三に、乙班の歩一機関銃隊は栗原中尉が、また歩三第六中隊は安藤中隊長が、
それぞれかねてから熱心に革新思想教育を施していた隊であった。
他中隊に比べて、下士官たちの同志的意識は高かったと思われる。
それに引き替え甲班には、そのような中隊はなかった。
この意識の差が、権力 ( 裁判官 ) に対する姿勢の違いとして現われたのではないか。
両班の雰囲気の違いは、最終陳述に歴然としている。
甲班の一八名は、そのほとんどが反省 ・恭順の意を表しているのに対して、
乙班のほとんど全員は、昂然と上官の命令に服従した自己の行為の正当性を主張しているからである。

2  自発的参加者
自由意志で参加した者の中には、蹶起将校らの同志を自認する者も少数ながら存在した。
甲班では長瀬伍長 ( 第二中隊 )、伊高軍曹 ( 第一〇中隊 ) がその例である。
長瀬は、安藤大尉の部下ではないが、彼に私淑した一人であった。
かつて富士山麓の演習場で銃剣を紛失して途方に暮れていた初年兵の長瀬を助けてくれたのが、
騎馬で通りかかった安藤であった。
安藤は、その場では名前も告げずに立ち去ったが、
その後かれを探し当てた長瀬は頻繁に安藤を訪ねて指導を仰ぎ、革新思想の持ち主となった。
法廷で、「 私ノ安藤観ハ信仰的デアリマス 」 と公言してはばからなかった彼は、
昭和維新実現の手段方法について、
「 兵力ヲ以テ暗雲ヲ一掃スル事デアリマス。ソレニハ非常呼集ヲ行ツテ将校ガ兵隊ヲ率ヰテ重臣財閥ヲ暗殺シ、
 戒厳令ヲシキ、爾後ノ工作ニ移ルノデアリマス 」
と述べ、現在の心境を問われると、
「 吾々ノ行動ノ是非善悪ハ、後世史家ノ判断ニ俟ツ 」
と大見得を切っている。
( ・・・リンク → 長瀬一伍長 「 身を殺し以て仁を為す 」 )
( ・・・リンク → 反駁 ・ 長瀬一伍長 「 百年の計を得んが為には、今は悪い事をしても良いと思ひました 」 )
伊高も、初年兵のときから安藤の感化を受けた一人であった。
彼の予審調書には、
「 鈴木 ・齋藤 ・牧野等ハ、財閥ト手ヲ握リ国威ヲ海外ニ発揚スル気分ガ乏シイト共ニ、
 天皇機関説ヲ尊重シ、下々ノ苦シンデイル様子ヲ上奏セントシテモ之等重臣ガ堅塁ヲ作リ、
下ノ意思ヲ陛下ニ達シナイ。
ソコデ我々ハ全陸軍ヲ以テ、コノ重臣ブロック打攘フ目的デ蹶起シタ 」
とある ( 三月二日付 )。
乙班では、大江曹長 ( 近衛師団司令部 ) と前田軍曹 ( 歩一第一一中隊 ) が筋金入りの同志であった。
大江は、以前勤務していた近歩三第六中隊で中橋の指導を受けて以来、革新思想に共鳴するようになった。
彼も法廷で参加の目的を問われて、元老 ・重臣を殺害し、昭和維新を斷行するためと明言する。
前田は、昭和六年以来栗原と香田から指導を受けた同志であった。
昭和八年の埼玉挺身隊事件では、第一師団軍法会議で取調べを受けている。
彼も、重臣 ・財閥らを倒すのが目的で蹶起に参加したと供述する。
しかし 「 同志 」 として参加したとみられた者のすべてが、右のような真の同志関係にあったわけではない。
命令に絶対服従を要求し、「 死をみること、鴻毛よりも軽しとせよ 」 と教えた軍隊という特殊社会で、
いかに 「 これは命令ではない 」 「 同志として参加してもらいたい 」 「 行きたくない者は行かなくてもよい 」
などと言われたとしても、上官から一人ひとり指名されて意向を聞かれた場合、
それを断るのは至難の業である。
卑怯未練、武士の風上に置けぬ奴と仲間から永久に爪弾きされることを覚悟しない限り、断れないのである。
現に歩三第七中隊でただ一人参加を断った須藤特務曹長は、法廷で田島曹長から、
「 新の軍人ではない、生命が惜しくて出なかったのだ 」 と痛罵されている。
上官に対する情誼もあり、やむなく将校の誘いに応じた者も、もちろんいたに違いない。
これとは逆に、法廷では命令関係を強調したが、実際は蹶起が成功した暁の立身出世を夢見て、
将校たちに付和雷同した者も少なくなかったと思われる。
准士官はもとより、下士官の多くは豊富な軍隊経験を有しているから、
兵たちとは違ってそれなりの判断力 ・批判力を備えている。
日頃の将校の言動から、彼らが過激な危険思想の持ち主であることを察知していた例も少なくない。
いかに週番司令 ・週番士官の命令形式がとられたにしても、それが統帥系統の正当な命令でないことは、
当然理解できたはずである。
初年兵ならいざしらず、彼らは將校の命令を鵜呑みにするほど単純ではなく、悪く言えば海千山千の強者である。
しかも命令者が直属上官でなく、新品少尉の週番士官 ( 清原 ・鈴木 ) や、中隊付将校 ( 栗原 
) にすぎない中隊もあった。
私には、彼らなりの計算をした上で参加した者が、むしろ多かったのではないかと思われる。
牧野襲撃隊の一人に選ばれた宇治野軍曹 ( 歩一第一中隊 ) は、栗原の全幅の信頼を得た確信犯的人物であった。
彼は、湯河原班の公判で、刑務所に収容された下士官の多くが、自らの行動を泣いて悔み、
自らの将来について思い悩んでいることを紹介して、
「 彼らは、成功の暁の論功行賞を目的として参加したとしか思われない 」
と厳しく批判している ( 同班第二回公判 )

3  被告人らの弁明
命令によって出動したと答えた被告人らは、法廷で法務官から厳しく追及された。
蛭田軍曹 ( 歩三第二中隊 ) の尋問の一こまを紹介しよう ( 甲班第二回公判 )。
「 問  是ハ正当ナ系統ノ正シイ命令でない事ハ判ラヌカ
 答  正当ノ命令トハ思ヒマセヌ。
問  国法ニ反シ、又正当ナ命令デナイノニ、何故ニ参加シタノカ
 答  黙シテ答ヘズ 」
相澤伍長 ( 歩三第六中隊 ) は、極端な尋問を浴びせられた一人であった ( 乙班第八回公判 )。
「 問  先任者モ行クカラソレデ被告人モ行ク気持ニナツタノカ
 答  命令デアレバ、タトイ惡イコトデモ、人ガ行ツテモ行カナクトモ自分ハ行キマス。
 問  ソウスルト、連隊長ヲ殺セ、大隊長ヲ殺セト云ハルレバドウカ
 答  其ノ命令ニ對シテ不服ヲ云フナト云ハルレバ、連隊長デアラウガ大隊長デアラウガ殺シマス。
  良カラウガ惡カラウガ、命令ニハ変リハナイト思ヒマス。
 問  強盗シテ來イト中隊長ニ云ハレタ場合、之ニ對シ不服ヲ云フナト云ハレタナラバ何ウスルカ
答  ヤリマス 」
なんともすさまじい尋問だが、傍聴した憲兵の記録によると、この尋問は三〇分間続き、最後に裁判長から、
「 被告人の命令絶対の観念はよろしいが、中隊長の命令により上官の連隊長を殺すということは、
 命令統帥観念上正しくない 」 とたしなめられたという。
・・・(1) 前掲秘録第三巻189頁
新井長三郎軍曹 ( 歩一機関銃隊 ) は、命令が不法であったことを認めさせられた上、
次のように述べている ( 乙班第三回公判 )。
「 人を殺ストカ物ヲ窃取セヨト云フ様ナ不法命令ニハ服従シナクテモ良イト云フ事ハ、
 私ノミナラズ恐ラク他ノ下士官ト雖モ承知シテ居ツタコトト思ヒマス 」
この供述こそ、
実は法務官がもっとも期待していた答えだったに違いない。
命令服従の主張が、口実にすぎなかったことを意味しているからである。

4  元上官の証言
  では、被告人らの元上官は、命令服従関係についてどのように証言したのであろうか。
高橋太郎 ( 歩三第一中隊付将校 )、鈴木金次郎 ( 歩三第一〇中隊週番士官 )、清原康平 ( 歩三第三中隊週番士官 ) は、
下士官の参加は命令による旨を明言する。
高橋は、「 今回ノ事件モ戦争ニ参加スルノモ、同ジ気持デ下士官兵ガ行ヲ共ニシタ 」 のであるから、
刑事上の責任はないと思うと部下を庇い、
鈴木 ・清原は、軍隊内での同志としての団結は統帥権を紊ることになるから許されないと主張する。
また清原は、将校班の内情を次のように暴露している。
「 最近ニ於ケル公判廷ノ空気モ村中 ・磯部氏等ニ引キズラレタル感ガアリ、
 同志ノ中デ下士官兵ガ命令デ出タト云ツテハイカヌト私語スル者スラアリ、
安藤大尉ノ如キモ、決行直前ニ於テハ命令デ出スカラ若シ失敗スレバ全責任ヲ自分一人ガオフト云ツテ居リマシタガ、
公判廷デハ同志トシテ下士官兵ガ参加シタ様ニ申サレ、事実ト相違シテ居リマス。」
歩三第一中隊に関する高橋証言は、後述の坂井証言と対立する。
坂井が同中隊の下士官一人ひとりについて同意を取りつけた事実は認められないから、
高橋の供述を信用すべきであろう。
第一〇中隊の下士官たちは、その後野中大尉のもとに赴き、同人から 「 同志 」 としての参加を促されたことは前述のとおりである ( 第三章第一項6 )。
二  坂井 ・常盤 ・中橋は、自由意志による参加を主張する。
坂井直 ( 歩三第一中隊週番士官 )
「 下士官兵を使用したのではなく、自発的参加であった。
 二五日午後一〇時頃下士官全員を集めて蹶起の趣意を伝えたところ、『 何レモ勇躍シ決意ノ色ガ明瞭ニ見ヘタ 』。
午後一一時頃細部の指示を与えたが、『 下士官ハ何等逡巡ノ色ナク、寧ロ積極的ニ質問シテ準備ヲ整ヘマシタ 』。
出発までに相当の時間があったが、一人として不賛成や苦情を申し出た者はいなかった。
また、末吉 ・中島 ・熊井の三名は参加しなかった。」
常盤稔 ( 歩三第七中隊付将校 )
「 『 命令デモ強要シタノデモアリマセヌ。下士官兵モ自由意志ニ依ツテ参加シタモノデアリマス。
 吾々同志ハ平素カラ飽迄一同同志トシテ立チタイト云フノガ念願デアリ、殊ニ野中大尉殿ハ、
 一兵ニ至ル迄同志トシテ立チタイト私ニ申サレマシタ。』
二五日夕方、野中中隊長は准士官 ・下士官を集めて蹶起の趣旨を説明した後、一同の賛成を得た。
現に須藤特務曹長は、直接行動には反対の態度を表明し、参加しなかった。」
中橋基明 ( 近歩三第七中隊長代理 )
「 下士官を強要して連れて行く気はなかった。
 私が言えば断りにくいだろうと思い、斉藤特務曹長を通じて参加の意思を聞かせたのである。
私としては、彼らもある程度の理解を持って参加したと信じている。
しかし、『 今日ノ破目ニ陥ツテハ、堅キ信念無キ彼等トシテハ、
或ハ全然私共ノ強要ノ下ニ引キ摺ラレテ行ツタカノ如ク述ベレルカモ知レマセヌ。 』 」
坂井の指示に異議申立てがなかったことを即 「 同意 」 とみなすことには、無理がある。
末吉 ・中島は、中隊長に注進するために無断で連隊から脱柵しており、
これをもって任意の不参加とみることはできない。
もっとも、熊井伍長 ( 第二中隊 ) の不参加は、彼の自由意志によった。
しかし、第二中隊は坂井の指揮系統に属しないから、同中隊員の同意を求めるのは当然である。
このことから直ちに、坂井が部下の第一中隊員にも同意を求めたということにはならない。
第七中隊における同意の取り付けについては、前述した。
また中橋は、斉藤を通じて同意を得たというが、その斎藤は裁判長の質問に対して、
下士官には中隊長の命令だから来いと言ったと供述している。
三  これに対して、安藤 ・栗原は、形式的には命令によって参加させたが実質は同志であるという。
折衷的な見解を述べる。
常日頃同志的教育を行っていた彼らにしても、出動が命令の形式をとったことは認めざるを得なかったのである。
安藤輝三 ( 歩三週番司令 )
「 ( 下士官の参加は強制か、自由意志かという問いに対して )
 『 不義ヲ討タウト云フ気持ニ燃ヘテ居ル処ヘ私ノ命令ガ出タノデ、参加シタト思ヒマス。』
結局、形式上は命令で動かしたことになる。しかし、不承不承引きずったのではない。」 
栗原安秀 ( 歩一機関銃隊付将校 )
「 『 命令トイフ言葉ヲ申シタコトハ絶対ニアリマセヌ。』 私としては、平素の精神教育によって、
 下士官一同が私の信念を理解しているものと信じていた。
しかし 『 行動其物ハ命ラカニ命令形式ヲ採ツタ 』。
『 当時ノ準備前後ノ空気、二年兵ガトウ当意気軒昂タル状況等ヨリ身テ、
下士官ガ首相襲撃ノ実行ヲ疑ツテイタナドトハ到底判断デキマセヌデシタ 。』 」
命令に籍口とた被告人らが少なくないであろうことは、前述した。
しかし、そうであっても、裁きの場に立たされた彼らが、命令を免罪符として主張したことを責めるわけにはいかない。
しかも出動したのは、下士官だけではない。
彼らの後には一、三〇〇名もの兵が続いており、その七割までは一ケ月前に入営したばかりの初年兵であった。
彼らこそ、まさに命令によって事件に参加させられたのである。
結局、個々の下士官の心情がどうであったにせよ、部隊の出動が命令服従の原理によってなされたことは、
否定できない事実であった。

5  被告人らの心情
被告人らの中には、自分たちを事件に連座させた将校に対する恨み、つらみを述べる者も若干名ながらあった。
これは、被告人らの心情として無理もないが、ときには言い過ぎて、裁判長から叱責された例もあった。
職業軍人の裁判長 ( 判士 ) としては、上命下服の関係を否定しかねないような過激な発言を見過ごすわけにはいかなかったのであろう。
その代表例として、歩三第六中隊の奥山軍曹を取り上げよう ( 乙班 第八回公判 )。
現在の心境を問われて、
「 苟も隊長タル者ガ自己ノ職権ヲ濫用シ、何モ判ラヌ下士官以下ヲ使ツテ今日ノ様ナ立場ニ置クト云フコトハ、
 餘リニモ考ヘナキ中隊長デアルト恨ンデ居リマス 」
と答えた奥山は、法務官から、被告人は命令に籍口して弁解しているだけではないかと追及されただけでなく、
裁判長からも叱りつけられている。
「 問  統帥命令ニ服従シタト云フガ、被告人ノ行為全体ニ命令ニ基イテ動イタト云フ精神ガ尠シモ発揮セラレテ居ル點ガナイ処ヲ見ルト、
 矢張リ被告人ハ命令ニ籍口シテ居ルノデハナイカ
 答 ( 黙シテ答ヘズ )
 問  被告人ハ、尽スベキコトヲ尽サズ、嘗テノ上官ヲ恨ムトハ何事ダ。中隊長ヲ恨ム前ニ、何故自カラノ行為ヲ反省シナカツタノカ
 答  中隊幹部ノ一人トシテ、中隊長ニ對シ意見具申ヲシナカツタコトハ、私ノ手落デアリマシタ 」

これと反対に、かつての上官に今なお敬愛の情を抱く者もあった。
甲班では、高橋少尉を信頼して事件に参加したという梶間伍長が、
「 尊敬する人と生死を共にすることは、軍人として光栄である 」
と言い切っている ( 第三回公判 )。
また吉原伍長は、自決した野中大尉について、
「 中隊長は自分にとって宗教的存在であり、かりに自分が死んだとしても恨む気持ちはない。
 これからも中隊長の冥福を祈るつもりである 」
と述べる ( 第八回公判 )。
乙班では、安藤大尉に対する所感を聞かれた永田曹長が、
「 人格者である点に敬服していた。このような立場になっても、中隊長を恨まない 」
と答え、堂込曹長も、
「 安藤に接して、初めて上官 ・部下の真情を感じた。恨む気持はなく、今でも中隊長を信じている 」
と答えている ( 第九回公判 )。

なお、甲班の最終陳述では、三名から将来の軍隊教育に対する意見が出された。
福島伍長は、
「 全国の下士官が、将校のいう 『 天皇陛下のため 』 という餌に引っかからないように、よろしく願う 」
と皮肉な注文を出し、
桑原特務曹長は、
「 中隊長の言をあまりにも信頼しすぎた。青年将校の教育に一考を要する 」
と述べ、
堀曹長も、
「 将校の思想教育に意を用いられるように 」
と望んでいる。

三  論告 ・求刑
1  論告の概要
甲乙両班とも五月二八日の第一一回公判で、検察官の意見陳述、いわゆる論告が行われた。
被告人らの行動と命令服従の関係についての意見は、両班共通である。
その主要個所を紹介する。
「 被告人中、本件反乱行動ハ總テ上官ノ命令ニ基クモノナリト弁疏スルモノアルヲ以テ、
 此ノ點ニ就キ述ベントス。
抑モ皇軍ニ於ケル命令服従ノ関係ハ絶対ニシテ、決シテ之ガ服行ヲ遅疑逡巡シ、
或ハ命令ノ当不当ヲ論ジ、或ハ其ノ原因 ・理由等ヲ質問スルヲ許スベキモノニ非ザルコト勿論ナリ。
然レドモ、其ノ命令服従ノ関係ハ、嚴ニ皇軍ノ本義、即天皇親率ノ関係ニ基ク上下ノ間ニノミ限局セラルベキモノニシテ、
其ノ皇軍ノ本義ニ背反シ、天皇親率ノ関係ニ基カザル場合ニ於テハ、
斷ジテ皇軍ニ於ケル命令服従ノ関係ヲ認ムベキモノニアラズ、
然ルニ、本叛乱事件ニ於ケル元将校等ノ准士官以下ニ對スル出動及反乱行動ノ要求ハ反乱幹部トシテノ要求ニシテ、
又被告人等ハ反乱団体ノ一員トシテ之ヲ服行シタルモノナルガ故ニ、
右ハ單ニ皇軍ニ於ケル上下ノ関係ト類似セル形ニ於テ要求服行セラレタリト雖、
斷ジテ眞ニ皇軍ノ本義ニ基ク上下ノ関係ニ於テ要求服行セラレタルモノニアラズ。
從テ、元将校タル反乱幹部ト被告人等トノ間ハ、斷ジテ皇軍ニ於ケル命令服従ノ関係ヲ以テ律スベキモノニアラズ。
加之、皇軍上下ノ間ニ於テ反乱ヲ爲スベキ命令ノ存在ヲ認ムルガ如キハ、
皇軍ノ本義ヲ没却シ、皇軍ニ於ケル命令ノ神聖ヲ冒瀆スルノ甚ダシキモノニシテ、
斷ジテ許容シ得ベキモノニアラズ。
( 中略 )
即チ、被告人等ハ、犯罪タルコトヲ明ニ認識シナガラ反乱元将校等ノ要求ヲ服行シタルモノナルヲ以テ、
罪責ヲ免ルルコト能ハザルコト勿論ナリ。
要スルニ被告人等ハ、命令ニ籍口シテ自己ノ罪責ヲ免レントスルモノニ外ナラズ。」
違法な命令に従うべきでないことはむ、法律専門家である法務官にとっては当然の常識であった。
しかし、判士は、ときには命令で部下を死地に赴かせなければならぬ軍隊指揮官である。
彼らにとっては、この問題はそう簡単な問題ではなかった。
軍が最高の規範とした絶対服従の原理に、亀裂を生じかねない問題だからである。
この點については、事項で述べる。

2  求刑意見
被告人らに対する求刑意見は、第三、第四表に掲げたとおりである。
帰順としては、被告人の革新意識の濃淡と具体的な殺傷行為を同等に評価したようてある。
また、全員に対して懲役刑を求めたのは、被告人らを軍紀を乱した破廉恥犯とみなしたことを意味する。
ここでは、一〇年以上の求刑があった被告人についての検察官の意見を紹介する。
一  甲班
① 梶間 ・② 木部 ( いずれも一〇年 ) ・・・渡辺教育総監邸ヲ襲撃した際、屋内に向けて小銃を数発発砲した。
③ 林 ( 一二年 ) ・・・革新思想は濃厚ではないが、斉藤内大臣を殺害し、
  さらに渡辺総監襲撃に参加するなど 「 行動最モ残虐凶暴ニシテ其ノ情 」 が重い。
④ 蛭田 ( 一〇年 ) ・・・かねて革新問題に関心を有していた。
⑤ 長瀬 ( 一五年 ) ・・・安藤の所説に共鳴し、同志の糾合に努め、
  「 国家百年ノ爲ニハ直接行動ヲ以テスルモ亦可ナリトノ深キ信念 」 を培い、渡辺総監を殺害した。
  「 革新意識深ク、行動最モ残虐凶暴ニシテ、其ノ情特ニ重キモノ 」 である。
⑥ 桑原 ( 一二年 ) ・・・「 革新思想深ク、其ノ情 」 が重い。
⑦ 立石 ( 一二年 ) ・・・安藤から誘導されて参加した。 「 革新意識深ク、・・・其ノ情重キモノ 」 である。
二  乙班
① 大江 ( 一五年 ) ・・・直接行動による国家革新を是認し、生命を賭する覚悟で 「 勇躍之ニ参加 」 した。
② 斎藤一郎 ( 一五年 ) ・・・中橋から勧誘を受けた際、身を以てこれを諫止すべき中隊幹部の立場にあるにもかかわらず、
  かえつて自ら進んでその手足となり、下士官を事件に参加させた。
③ 前田 ( 一二年 ) ・・・将校らの思想に共鳴して参加した。
④ 尾島 ( 一五年 ) ・・・昭和維新に共鳴して参加した。犯情は元将校らに次いで重い。
⑤ 永田 ・⑥ 堂込 ( いずれも一五年 ) ・・・行動において積極的であり、とくに堂込は群衆ニ宣伝演説を行った。
⑦ 山田 ( 一〇年 ) ・・・群衆に 「 下士官ハ國賊ヲ倒サントノ信念ニ燃ヘ、進ンデ参加シタ 」 と演説するなど、将校らの思想に共鳴して参加した。

四  判決
1  判決の概要
判決は、甲乙両班とも将校班のそれに歩調を合わせて、七月五日午後一時に宣告された。
主文の内容は、第三、第四表の掲記のとおりである。
実兄に処せられた者 ( 北島を含む ) は、甲班一〇名 ( 二五 ・〇% ) ・乙班六名 ( 一七 ・六% )、
執行猶予者は、甲班一七名 ( 四二 ・五% ) ・乙班一〇名 ( 二九 ・四% )、
無罪を宣告された者は、甲班一三名 ( 三二 ・五% ) ・乙班一八名 ( 五二 ・九% ) 
となっている。
求刑と違って、有罪者にはすべて禁錮刑が選択された。
無罪者が過半数を占めた点で、乙班の判決がより寛大であった。
徹底否認の態度を貫いた乙班被告人らの法廷戦術が、功を奏したといえる。
無罪理由は、被告人らは上官の命令と信じてこうどうしたものであるから、
刑法三八条一項前段の 「 罪ヲ犯ス意 」 がなかったというのである。
しかし、少なくとも甲班判決が、「 これは命令ではない 」 という中隊長の説明を聴いて参加に応じた
歩三第七中隊の八名を無罪にしたことには、疑問が残る。
同意に追い込まれた彼らの苦しい立場に同情することと、証拠に基づいて犯罪の成否を論ずることは別問題である。
甲班の合議では、法務官と判士の意見が厳しく対立したようである。
「 中尾金弥判士メモ 」 の七月四日の欄には、次のように記されている。・・・(2) 前掲清張資料Ⅰ367頁
「 山上法務官遂ニ明日出席セザルヲ宣言シテ去リシモ法務局ヨリ河合大尉ヲシテ迎ヘシメ各先任者ノ説得、
 裁判長ノ努力ニヨリ無念ノ涙ヲ流シテ出席ヲ肯定ス 」
七月四日といえば、判決宣告の前日である。
この記事は、判決直前まで合議が荒れたことを示している。
裁判の合議は多数決によるものであるから、
自分の意見が通らないかといって職場放棄を宣言する法務官は懲戒ものだが、
あるいは明白な事実を故意に無視した第七中隊員に対する無罪が、
彼の感情をこじらせた最大の原因だったかも知れない。

2  命令服従の問題
命令服従の問題は、被告人らの罪責決定に当たって避けて通ることのできない重大問題であった。
中尾メモによると、五月一九日頃から判士たちでこの問題の研究を始めたことが窺える。 ・・・(3) 前掲清張資料Ⅰ356頁
その経緯は、すでに大木 ( 現姓藤井 ) 康栄氏が明らかにされているので、それに譲る。・・・(4) 前掲大木 「 二 ・二六事件の下士官兵 」 251頁以下
刑法理論からすれば、適法な命令に従った部下の行為は違法ではないが、
これはその命令に拘束力があるからではなく、それが法令による職務の執行とみとめられるからである。
・・・(5) 団藤重光編  『 注釈刑法 』 (2)のⅠ巻 ( 一九六八年、有斐閣 ) 99頁 「 福田平 」。
なお、泉二新熊博士は、次のように述べている。
「 絶対的服従ヲ要素トスル軍隊規律ニ於テモ上官ト共ニ反乱ヲ爲ス可シトノ命令ハ職務上ノ命令ニアラザルガ故ニ、
 此命令ニ從ヒタルノ故ヲ以テ叛乱罪ノ責任ヲ免ルルコトヲ得ズ 」 ( 日本刑法論上巻345頁、一九二四年 ・有斐閣 )
したがって、違法な命令に服従した部下の行為は、同様に違法である。
しかし、この理論は、部下に命令の適法性についての審査権を認める事になる。
これは絶対服従の軍隊成立の基礎に置く旧軍では、絶対に認めることのできない結論であった。
判士たちの悩みはここにあった。
甲班の判決は、此の問題について触れていない。
法務官と判士が激しく対立したため、それどころではなかったのであろう。
これとは対照的に、乙班の判決は詳細な法理論を展開している。
判決は、被告人らの犯意の有無については、
「 国軍ニ於ケル命令服従ノ本義ト、当時ノ機微ナル情勢ニ照合シテ認定 」 すべきであるとして、
前者について次のように述べる。
・・・(6) 前掲伊藤 ・北編  『 新訂二 ・二六事件  判決と証拠 』 145頁以下
「 由来皇軍ニ於ケル命令服従ノ関係ニ就テハ、畏クモ勅諭ニ御論シ給フノミナラズ 『 軍隊内務書 』、
『 軍隊教育令 』等ニ明示セラレ、『 上官ノ命令ハ其ノ事ノ如何ヲ問ハズ直ニ之ニ服従スベキ 』 絶対性ハ、
国軍ノ生命ト共ニ千載ニ揺ギナキ鉄則ニシテ、今次事変ノ爲微動ダモスベキモノニアラズ。
抑々軍ハ軍紀ヲ以テ成リ、服従ハ軍紀ヲ維持スルノ要道タリ。
故ニ軍隊ニ於ケル服従ハ絶対ニシテ、第二ノ天性トナリ、苟モ命令ニ對シ其ノ当不当ヲ論ジ、
原因理由ヲ質問スルヲ許サズ。
( 中略 )
斯クシテ上下ノ間、相信ジ相携ヘテ此良風ヲ継承シ、日夜砥礪シテ遂ニ習性トナリ、
以テ精強無比ノ精神的団結ヲ成ス。
此レヲ以テ受令者ハ、上官ガ神聖ナラザル命令ヲ下ス場合あるを予想シ得ザルヲ自然トスルヲ以テ、
万一不幸ニシテ違法ノ命令ニ接スルモ、其命令ガ大義名分ニ反シ、順逆ノ理自ラ明ナル場合ノ外、
其違法ナルヲ知ラズ神聖ナル命令ト信ジ之レニ從フ場合アルハ、
蓋シ是レ亦自然ノ歸趨きすうナリト謂フベク、
此ノ如キ場合ニ於テ、縦令命令ハ神聖ナラザルモ服従ハ絶対ニ申請ナリト斷ゼサルベカラズ。
特ニ軍刑法ガ抗命罪ヲ設ケ、命令ノ服行ヲ強要シアル點ニ鑑ミルモ、其ノ然ル所以は明ナリトイフベシ。
若シ此ノ如キ場合ニ於テ、其ノ命令ガ客観的ニ違法ナルノ故ヲ以テ其ノ服従モ之ヲ違法ナリトセンカ、
受令者ハ上官ノ命令ニ接シテ其ノ取捨判断ノ帰趨ニ迷ヒ、命令審査ノ端緒ヲ誘起シ、
其ノ結果遂ニ軍命令ノ本質ヲ否定シ、其ノ権威ヲ毀損シ、常時上官ニ對スル信頼ノ念ヲ希薄ニシ、
皇軍統帥ノ特質トスル軍命令ノ宗教的意義ヲ没却シ、遂ニ軍成立ノ基礎ヲ破壊スルニ至ルベシ。」
判決に依れば、命令服従を絶対とする軍隊においては、その命令が
「 大義名分ニ反シ、順逆ノ理自ラ明ナル場合 」 でない限り、違法な命令に対しても服従しなければならない。
このような受令者の行為は、刑法三五条の正当行為として罪にならないと解するのであろう ( 違法阻却 )。
ところが本件の元将校らの命令行為は、
「 其ノ大義名分ニ悖リ、順逆ノ理タルヤ明 」 であった。
だから、被告人らはこれに服従してはならなかったのであり、被告人らの行為は違法といわざるを得ない。
しかし、被告人らは、「 服従ヲ以テ第二ノ天性タルベク訓育セラレ 」 ていたこと、
中隊という仮定的な組織の下で、上官が違法な命令を下すことは絶対にあり得なかったこと、
他部隊も同時に出動すると告げられ、非常呼集という緊急出動の形式に従ったものであること等の事情から、
被告人らは
「 眞ニ上官ノ命令ト信ジタルモノニシテ、即チ被告人等ニ於テ犯罪タルコトヲ推知セズ、
 直ニ服従シタルモノナルヲ以テ、被告人等ノ行為ハ刑法第三八条第一項前段ノ罪ヲ犯ス意ナキ行為ニ該当スル 」、
というのである ( 責任阻却 )。
これを今日の刑法理論に当てはめると、違法性の錯誤について 「 相当の理由 」 があるから故意の阻却を認める、
ということになるであろう。
上官の違法な命令に従った部下の行為を、刑法第三八条一項の犯意を欠くという理由で無罪とした先例に、
有名な甘粕事件がある。
乙班判決は、この先例をさらに一歩進めたものといえる。
甘粕事件とは、関東大震災の騒ぎが治まらない大正一二年九月一六日、
東京憲兵隊渋谷分隊長の甘粕憲兵大尉が、
無政府主義者として有名な大杉栄、その妻伊藤野枝、野枝の甥橘宗一 ( 当時七歳 )
を拉致して扼殺したという事件である。
宗一少年を直接手がけたのは、甘粕の命令に従った鴨志田 ・本多の両憲兵上等兵であった。
第一師団軍法会議は、同年一二月八日両上等兵を無罪としたが、
その理由として、
平素甘粕を 「 深く信頼せる被告両名は、戒厳令下に於ける非常の場合その犯罪たる事を推知せずして 」
命令に従ったものでり、「 罪となるべき事実を知らずして犯したるものにして、即ち罪を犯す意なき行為 」
であると判示している。
・・・(7)
法律新聞二一九号7頁。
この事件の概要については、我妻栄編 『 日本政治裁判史録 』 大正編 ( 一九六九年、第一法規出版 ) 412頁 「 田宮裕 」 参照。
甘粕の生涯については、角田房子 『 甘粕大尉 』 ( 一九七五年、中央公論社 ) が詳しい。
ちなみに、この軍法会議には、林少尉の実父林大八陸軍歩兵少佐 ( 後に上海事変で戦死、陸軍少将 ) が判士として名を連ねている
いかに戒厳令下とはいえ、いたいけな少年を殺めることが罪にならないという絶対服従の論理には、
当然批判があった。
時事新報は、軍隊内における上官の命令に対する絶対服従の教育には重大な欠陥がある、
これを無罪とするのは、世間普通の常識では到底理解できない、と論じている。
・・・(8) 前掲法律新聞 9頁
しかし陸軍は、ついにその欠陥を克服することなく、本件に至ったのであった。

3  量刑の基準
量刑帰順としては、第一義的に被告人の革新意識の強弱を重視し、次いで具体的殺傷行為を考慮したと思われる。
革新意識が強い者に対しては、殺傷行為がなくても重い刑が課せられ ( 渡辺 ・大江 ・蛭田 ・青木 ・尾島 )、
殺傷行為に及んでも革新意識が強くない者に対しては、比較的軽い刑が課せられているからである。
( 林 ・永田 ・堂込 )
求刑意見と判決の刑を対比すると、両者の基準の違いを窺うことができる。
甲乙両班でもっとも重い刑に処せられたのは、禁錮一三年の長瀬伍長 ( 甲班 ) であった。
もっとも、湯河原班の宇治野軍曹は、さらに重い禁錮一五年に処せられている。
この二人は前述のように、若い将校顔負けの闘志であった。
次いで、同八年の渡辺曹長 ( 甲班 )、大江曹長 ( 甲班 )、同七年の蛭田軍曹、青木軍曹 ( 以上甲班 )、
尾島曹長 ( 乙班 ) となっている。
歩三第二中隊の全員に実刑が課せられたのは、彼らの出動が命令関係から逸脱しており、
文字どおりの自由意志による参加と認められたことによる。
中でも渡辺は、その中の先任者として全員を引率しており、革新意識もやや濃厚であった。
蛭田は、検察官主張のように思想的同調者と認められたのであろうし、
青木は、尋問の際に安藤 ・高橋を崇拝していると答え、自らの行為の正当性を主張したことが響いたのではないかと思われる。
大江は、中橋から、また尾島は栗原から個人的に勧誘されて参加した同志的存在であった。