あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

宇治野時参軍曹「 河野さん、私の懺悔話を聞いて下さい 」

2017年11月09日 17時51分58秒 | 下士官兵

襲撃失敗の責任に悩む
「 事件以来、家族のこと、殊に弟のことについて、親身も及ばぬお世話になった御恩は、
私の脳裡に焼きついています。
出所して間もなく、如水会館で初めて御会いしたあと、
直にでもお宅に伺って御礼を申上げねばならないことは、百も承知でした。
しかし、私は、どうしても亡くなられた隊長のお兄さんに改めて顔を合せることが出来なかったのでした。
そのまま今日まで、十年近くも無音を重ねた非礼をお詫びします 」
宇治野はこう前置きして、今日会うまでの心境を語ってくれた。
同君がその時に、打明けてくれた話は、今日まで、私は誰にも語ったことはない。

密かに私の胸中に秘めたまま、もう十年が経った。
当の宇治野君も故人になってしまい、事件からは三十年が過ぎた。
同君の七周忌も終ったのに当り、
個人の深刻な心境をここに書残して置くことは、同君の人柄を語る挿話として意義のあることと思い、
あえて書くことにした。
宇治野君が私に合わす顔がないと語った理由はこうであった。
<湯河原襲撃 >
雪の東海道を南下して、湯河原に牧野伯を襲撃した河野隊は、
宇治野軍曹を除いては、ほとんどが除隊組か民間人であった。
単身、所沢飛行学校から参加した河野大尉の手兵として栗原中尉が動員し編成した隊員は七名であり、
皆、一騎当千の夕刻熱血の士であったが、いざ戦闘行動となると、誰か中心となる現役の下士官が欲しかった。
栗原中尉が選んだのが宇治野軍曹であった。
襲撃は当の牧野伯を逃して失敗に終った。
護衛警官の戦闘応戦に、河野隊長、宮田隊員の受傷によって襲撃が頓挫したことが原因であった。
この失敗について宇治野君は、それはすべて自分の責任であると自責の念に悩んだのだった。
 ・
屋内に踏込んだ隊長と宮田隊員が、予期しなかった警官の抵抗にあって受傷し、
前進を阻止されたとき、河野隊長は屋外の待機隊員に対して、続いて突入するように再三にわたって命令した。
断続する銃声で、この命令が消されたのかも知れないが、外部から誰一人、飛込む者はなかった。
胸部盲貫銃創の隊長が、やむなく屋外に後退し、第二次襲撃の非常手段としてとられたことは、
放火であり、機銃打込みであった。
これは措置としては明らかに拙劣であり、失敗でもあった。
私が熱海の陸軍病院に弟を訪れたとき、弟はこのことに触れて
「 もう一人将校がいてくれたら 」 と洩らした。
この話は、その後誰にも語らず、ただ私一人の胸の中に封じこんでおいたが、
襲撃目標の牧野伯を逃した失敗の原因の一つがこの辺にもあったことがうかがえた。
十余年の後、奇しくも宇治野君の口から、裏付けるかのような当時の状況を聞いたが、
宇治野君はそれはすべて自分の責任であるとの自責の念に悔い悩み続けたことを知った。
殊に事件後の軍法会議の裁判の結果、
湯河原襲撃隊員のうち、水上源一氏ただ一人が死刑の判決をうけて刑場の露と消えた。
その判決理由書によれば、河野隊長受傷後、隊長に代って指揮をとり、
機銃掃射、放火を行ったことが罪に問われている。
隊長に代るべきものは、隊の編成上は、自分であった筈である。
それが民間の学生、水上氏一人が責を問われて死んで行った。
宇治野君の性格として、これは堪えられない苦悩であったことは想像に難くないことである。
宇治野君は私に語ってくれた。
「 私は、隊長の御遺族に顔を合せる資格のない人間でした。
何とかしてこの責任をつぐなうに足りる仕事をするまでは、お会いする気持ちになれなかったのです。
しかし戦争は私にその機会を与えてくれました。
軍籍を失った私でしたが、進んで軍属となって従軍し、
ビルマ戦線の第一線に参戦し生命をかけて、恥ずかしくない働きをして来たつもりです。
不幸、敗戦の恥を忍んで帰国した私でしたが、私個人としては、これで二・二六事件の関係同志とも、
肩身狭い思いをせずに相交わる心のゆとりがもてるようになりました 」

「 二十二士之墓 」 開眼供養法要 
二十二士の十七回忌の年だった。
この機に合同埋葬と墓碑の建設を行うこととし、その準備を進めた。
万事順調に進捗し、いよいよ七月十二日の命日に除幕式を行う手筈が整ったが
肝心の墓碑と墓所の工事が遅々として進まない。工事費の前渡金が充分でなかったせいもあったか、
施行の 『 石勝 』 をいくら督促しても煮えきらない。
除幕開眼式の二日前になっても、墓所の聖地すれ着手しない。
すでに案内状も発送し 抜きさしならない土壇場だった。
事情を知って 宇治野君が、血相を変えて飛び出して行った。
石勝へ行ってからの宇治野君のこう活躍振りは想像に難くない。
多数の人夫が動員され、資材も搬入された。
あの賢崇寺の長い石段を大きな墓碑石が夜をかけて運び上げられた。
そして明日が除幕式という前日の夕方に、辛うじて、墓石の下部工事が済んで、
遺族立会いの上で、二十二士の遺骨の埋葬を終えた。
それから徹夜の作業が続けられ、
墓碑が建ち、墓所の工事が終わったのが、当日の朝十時過ぎであった。
厳冬の深夜、夜を通して現場に立っていた宇治野君の姿は、まだ忘れることが出来ない。
無事に、盛大に、除幕式の開眼供養を終えた時、
もう日は暮れ落ちて、参列者の帰った無人の 『 二十二士の墓 』 の前で
同君と二人で手を握り合って嬉し泣きに泣いたことだった。

河野司 著  湯河原襲撃 から


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