嶋津隆文オフィシャルブログ

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イスラム国、満洲国、そして『森繁久弥自伝』

2015年01月29日 | Weblog

「森繁自伝」

おぞましいニュースが連日流れています。「イスラム国」による日本人拘束と殺害。ふとテレビをつけようにも怯んでしまう残忍さです。「イスラム国」と称しながら決して国家ではないこの過激集団を政府はISISと呼ぶとしたようです。

そういえば昭和7年に誕生した満洲国もまったくの似非国家であったと戦後厳しく指弾されています。しかし終戦までの13年間、そこに悲喜こもごもの人生を送った多くの日本人のいたことは紛れもありません。

その一人に森繁久弥がいます。大正2年生まれ、早大中退後、満州新京でNHKアナウンサーに就きます。満映の甘粕正彦とも交流があったともいわれ、終戦後にはソ連軍に連行されるなど辛酸をなめ、昭和21年に帰国しています。

『森繁自伝』(中公文庫)を手にしたのは、昨今ひどく戦前に興味がわき、その一環で満洲国の歴史を生活者の目線から改めて追ってみたいと思ったからです。

読み終えて頭を銃で撃ち抜かれたような衝撃を受けました。ソ連兵による殺害や強姦など人間の欲望と残忍さが随所に描かれます。しかし驚くのは、その陰惨な殺戮や暴行の姿を軽妙洒脱に自伝のなかでは描いているのです。「滑稽の奥に悲哀を漂わせ、優しさの中に厳しさをたたえた筆致」(Amazon評)なのです。

今日も流れる「イスラム国」の残忍な映像。それに押しつぶされようとする自分の狼狽ぶりを見るとき、この軽妙な筆致に森繁久弥の、とてつもなく強靭で慈愛ある人としての深みを思い知らされるというものです。


寄贈の渡邉崋山「千山万水図」は時価1億円以上

2015年01月26日 | Weblog

【千山万水図】

さて今日は前回に続いて田原の文化に関わるブログです。

郷土の先人、渡邉崋山の晩年の作である「千山万水図」。まぎれもなく国の重要文化財に指定されています。この貴重な作が、何と所有する秋田の篤志家からわが田原市博物館に寄贈されたのです。

「本格的な遠近法を用いた作で、晩年の崋山の代表作。市場では時価1億円とも1億5千万円とも言われます」とは当館の学芸員の談。

「慎機論」での幕府批判などで捕まった、いわゆる蛮社の獄での崋山が、蟄居先の田原の池之原で描いた天保12(1981)年の作です。この絵を書き上げたわずか4ヵ月後に「不忠不孝渡邉登」としたため割腹自殺をしています。

自身がかつて周遊した三浦半島を描いたものではないか、浮かぶ船は黒船でなく中国船であるもののやがて到来する開国の予兆を示したものではないかなどとも指摘されます。そう聞かされると、この穏やかな山水風景が、崋山の晩年の口惜しさを伝える心象風景とも思えてくるというものです。

今年の4月には特別企画展として一般に公開されます。多く郷土の方たちの目に触れることを期待したいものです。


勾玉を幾つも発掘、その青い光にワクワクさせられる

2015年01月16日 | Weblog

【勾玉と衣笠の発掘現場】

「勾玉が出ました、勾玉が幾つも出ました。首飾りの一部と思われます」。いやあ、新春早々にワクワクする報告がわが教育委員会の文化財グループから入りました。田原市役所の近くの衣笠(きぬがさ)地区の道路工事現場の一角です。

早速に現場に飛んでいきました。まだ土が付着したままのブルーの勾玉です(写真左)。まさに旬な発掘に出くわすというのですから、教育長に身を置く醍醐味と言えましょうか。

渥美半島は遺跡の宝庫といわれます。吉胡貝塚、伊川津貝塚、保美貝塚の3つの縄文遺跡が戦前から考古学研究に大きな寄与をなしています。東大寺の瓦を焼いた窯も発掘されています。今回発掘の勾玉は古墳後期で6~7世紀の頃の勾玉ではないかと担当の学芸員が説明します。

しかし大きな石室のなかから発掘された装飾品には、それ以外にも須恵器や耳飾りなども発掘され、埋葬された時代や一族の息遣いが伝わってくるようです。この渥美半島にもこうした贅をなす豪族がいたかと想像すると胸が高ぶります。

それにしてもキラキラした勾玉の青い光に、私は思わず「衣笠ブルー」と名付けてはどうかと口にしました。30年前に尋ねたシルクロードで、かつての城壁やミナレットの屋根に光る青色レンガを「サマルカンドブルー」と称していたことを思い出したからです。渥美の青い空に似合った呼称とも言えましょう。

渥美の空が出たところでもう一言付け加えます。「フーテンの寅」の渥美清。彼はかつて渥美を訪れ、その透き通った青空に感銘し、そこから渥美清を名乗ったと伝わります。ブルーはわが渥美半島の空と海と歴史の象徴なのです。


渥美線、渥美半島と外界をつなぐ鉄路の物語

2015年01月09日 | Weblog

【田原市博物館】

豊橋鉄道の渥美線は豊橋と田原を結ぶ18kmの鉄道路線です。大正13年(1924)に開業してから今日まで、渥美半島と豊橋、さらに遠くの地域(外界)を結ぶ基幹のパイプとして、その役割を果たしてきています。

今年が開業90年となることを機に、この渥美線の企画展を田原市博物館が開催しました(12月6日~2月1日)。もちろん一年前に完成した田原の新駅舎がかの安藤忠雄のデザインで大いに話題になったことも開催の理由です。

それはともあれこの渥美線には戦前、半島の先端・伊良湖岬まで20km余が引かれる「まぼろしの渥美線」が予定されていました。昭和11年に閣議決定され昭和16年の完成目途でした。しかし昭和16年には太平洋戦争が勃発し、資材確保が困難となって挫折してしまうのです。

この延伸の理由は3つです。一つは先端にあった陸軍の伊良湖試射場への物資輸送を図ること、二つは渥美半島の地域振興を進めること、そして三つは何と伊勢神宮参拝への連絡が謳われたのです。

戦後70年経ちました。この渥美半島の先端の地域の衰退を考えるとき、かえすがえすも惜しまれてならない「まぼろしの渥美線」というものです。


そうか、司馬遼太郎は梅棹忠夫の影響を受けたんだ

2015年01月05日 | Weblog
【岩波書店「柳田國男と梅棹忠夫―自前の学問を求めて」表紙】

長い、9日間に及ぶ年末年始の休みでした。誕生した二人目の孫の顔を見に宇都宮に足を運んだことと神社への初詣以外は、読みそびれていた何冊かの本に挑みました。その1冊は「柳田國男と梅棹忠夫―自前の学問を求めて」伊藤幹治(岩波書店)です。

私のNIRA(総合研究開発機構)時代に都(みやこ)論で直接薫陶を受けた梅棹先生です。その文明史観と、日本の民俗学の草分け柳田御大の対比です。その内容の面白さに、もっと早めに読むべきであったと大いに悔やみつつ頁を追いました。

その中の一節に梅棹先生の指摘としてこんなくだりがありました。遅ればせながらちょっと驚いたので、ここに記します。

江戸後期から明治までの間、藩校などを通じ教育の充実が日本の近代化の素地となっていたが、そこには武士階級の価値観が貫かれていたというものです。それを梅棹は「サムライゼーション」(武士の倫理)と呼んでいます。しかしその後に近代化の今日に至る過程で消費を優先する社会が顕在化するようになり、それを「チョーニナイゼーション」(町人の倫理)と名付けます。

そうか、「「明治」という国家」や「坂の上の雲」で司馬遼太郎が言及していた「(明治は今日と異なる)もうひとつの国家であった」との指摘は、この梅棹の言及を踏襲していたのでないのか。そう感じとったのです。「もうひとつの国家」とは慧眼であり、司馬遼太郎の文学者としての透徹した歴史感があったと思ってきたものだけに、目から鱗でありました。

梅棹史観などへのこうした自分の不明を恥じながらも、この発見にひどく嬉しくなり、いいお年玉をもらったものと気持ちを楽しくした次第です。


謹んで新春のお慶び申し上げます。平成27年元旦。

2015年01月01日 | Weblog

あけましておめでとうございます。以下は私の今年の年賀状の本文です。採録し、嶋津隆文オフィシャルサイトにアクセスして下さる皆様への新年のメッセージとします。写真は故郷の渥美半島の先端、伊良湖岬の灯台です。海上の小島は、三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となった神島です。