嶋津隆文オフィシャルブログ

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東郷平八郎一族の畏敬する大先輩、東郷尚武氏逝く

2013年06月24日 | Weblog

6月3日のブログに、水師営の会見でのステッセル露将軍の話を書きました。それかあらぬか今回は、先日亡くなった日露会戦の英雄東郷平八郎一族に関する訃報を記さねばなりません。

東郷尚武(とうごうひさたけ)氏。都庁の大先輩です。昭和6年生まれですから享年82歳でした。学習院を出て入庁、都市計画に精通し「都市政策の展開」など多くの著書を残す一方、ロンドン大学にも留学し、都庁きっての国際派の一人といわれました。

幕末に江戸城受け取りの責任者になった海江田信義の曾孫であり、東郷平八郎をその一族にする名家の出です。しかしその人懐っこさと開明的な言動には常に啓発されることが多く、又もっとも私に目をかけてくれた職場の先輩でした。

その先輩がある日私にこう小さく呟いていたことが忘れられません。「東郷平八郎といってもね、日露戦争は日本帝国主義の走りだという人もいますから」。

先輩にとって終戦は15歳の時。そこから始まる戦後の反戦平和の大合唱の中で、東郷一族であることに肩身の狭い思いをして来たかもしれません。ふっとそう思わせる呟きでした。社会風潮というのは時に傲慢にして残酷なもののようです。


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アメリカから初孫が初めて帰国。まことに嬉しい!

2013年06月18日 | Weblog

いやあ、まことにもって良いものです。笑っても泣いても、起きていても寝ていても、孫というのは気持ちを癒し、周囲に生きる力と希望を与えるようです。

長男が赴任しているアメリカで3ヶ月前に生まれ、家族そろって日本へ一時帰国したのです。私にとっては文字通り初対面です。

意味なく名前を呼び続けたり、不意にだっこをしてみたり、幾度もほっぺをつついたり、時にはオチンチンをつまんだりと、何とも落ち着かぬ振る舞いをかさねてしまいます。

そういえば昔、私の母親がクールにつぶやいていました。「子供や孫が可愛いのはその肉親だけ。他人には少しも可愛くなんかないんだよ」。それはそうかもしれません。しかし人が何と言おうが、孫の可愛さは率直に口に出したいと開き直っています。

ところでアメリカは出生に属地主義をとります。したがって孫は米国籍ともなります。ミドルネームもつけたようです。しかしこの孫が成人して20年後に国籍を選択するとき、果たして米国籍を捨てるのか、ひょっとして日本国籍を捨てるのか。そう考えると急に不安になって、その寝顔をじっと見つけてしまったものです。


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白球を投げる青年のちょっと爽やかなエピソード

2013年06月14日 | Weblog

写真:「小川投手のグローブ(サンスポ.com)」

プロ野球セパ交流戦がたけなわです。そこでちょっと耳にした爽やかなエピソードを紹介します。

1990年の5月に愛知県田原市に生まれた一人の少年。高校は地元の成章高校です。3年の夏には21世紀枠でセンバツに出場し、野球部の創設103年目にして甲子園での初勝利を飾り、地元の人々に大きな歓喜を与えました。

大学進学には経済的理由もあり大いに悩んだと聞きます。しかし母親の強い愛情と後押しで東京の大学へ進学を決意。すると2年次の春からは主戦投手となり、4年春のリーグ成績は36勝3敗、防御率0.60というすばらしさです。その後、2012年のドラフト会議でヤクルトから2位指名を受け入団します。
誰にも親しく誠実に接する彼です。が、殊のほか母親を慕い、母親を尊敬していると聞きます。親孝行が彼のモットーです。プロになった今も使うグローブには「親孝行」の3文字が縫い付けられているのです。
ノーラン・ライアンを参考にした、左足を大きく上げる投球フォームとオーバースローから、最速148kmの速球を投げ込みます。その投球フォームから彼は“ライアン小川”、“和製ライアン”とも呼ばれています。その“ライアン小川”のグローブに何と「親孝行」の文字が大きく刻まれているのです。
この青年こそ、そう、ヤクルトの小川泰弘投手なのです。23歳。白球にかけた青春の軌跡は、地元田原市の少年たちの夢であり、家族と渥美半島の誇りといってよいでしょう。


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幕末に米国に渡った渥美の漂流漁師たちと郷土史家

2013年06月10日 | Weblog

写真:「怒濤の果て」(山田哲夫著)挿絵

ふと時間の空いた8日土曜日の午後、田原市の生涯学習講座「古文書を読む」へ顔を出しました。崋山会館の一室。講師は山田哲夫。テキストは「漂流聞書」。

嘉永4年(1852年)に漂流し、米国の捕鯨船アイザック・ハウランド号(写真)に助けられ米国に渡った渥美半島は江比間の漁師たち。「漂流聞書」とは、その稀有な運命を帰国した彼ら漁師から聞き書きした田原藩の記録集です。

実は山田講師は、この記録集を基に、ジョン万次郎と同様な体験を持ったこの地元の漁師たちの足跡を、『風濤の果て』(門土社)というタイトルで数年前に出版しました。その本の密度の高さは圧倒的です。

彼らの足跡を追ってハワイに、ボストンに、そして対馬などへと懇切な調査を試みたこの著書には、往時の歴史と日本人が持った新鮮な驚きと苦渋が活写されているのです。

文化は継承されなくてはならず、またそのためにはしかるべき知的人物が居なくてはならない。そう感じ入って、郷土史家山田哲夫講師の熱のこもった講座を拝聴したものです。


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旭川「第七師団」のステッセル将軍夫人のピアノ

2013年06月03日 | Weblog

写真:「北鎮記念館2階」

先週開催された全国教育長会議に出席した際の、旭川市での大いに驚嘆した話しをもう一つ付け書きます。

「水師営の会見」といえば、戦前であれば知らぬ人のない、日露戦争でのもっとも有名な出来ごとです。
♪ 旅順開城約なりて 敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の 処はいずこ出師営

そのステッセル将軍の夫人が愛用していたというピアノが展示されていたのです。写真がそれです。陸上自衛隊旭川駐屯地に併設される、北鎮記念館。その一角にこの歴史的遺品がデンと鎮座していたのです。

旭川と言えば「第七師団」です。日清・日露の戦、シベリア出兵、満州事変、支那事変、そして終戦後に侵攻してきたソ連軍との戦闘。日本の軍事史そのもののような「第七師団」の歴史を展示する北鎮記念館は圧倒的な存在でした。

その中でもこのステッセル夫人のピアノには、まさに100有余年の時空を超えての、圧倒的な存在感を示していたのです。


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