嶋津隆文オフィシャルブログ

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富士演習で思う「この火力は使ってはいけない」

2014年08月25日 | Weblog

お盆明けの8月19日、富士の裾野で行われた自衛隊の総合火力演習に参加しました。10時の開始に合わせ、早朝5時30分に田原市役所を出るという強行軍です。

演習の始まった会場に溢れる人の数に驚いたものですが、いや毎年2万人ほどは入りますよと当番の自衛官が笑っていました。澄み渡った夏空に富士山が凛として聳え、さすがに祖国を守るのだという思いをたからしめる舞台です。

前半、迫撃砲から機関銃、対戦車ヘリによる火力演習と続き、その後の圧巻は戦車火力でした。90式戦車や10式戦車の実弾演習は、その振動がはらわたに響き、爆音が耳をつんざきます。近くに居た小学生が思わず泣き出すほどです。

そして後半、装備の紹介という前半とはうって変わり、「島嶼部に対する攻撃への対応」と称して島嶼奪還を想定した演習が展開されたのです。明らかに中国軍による尖閣上陸をイメージした演出です。

P-3C哨戒機が登場したあとF-2戦闘機が飛来します。戦闘ヘリや輸送ヘリが到着し偵察用オートバイ、警戒車などの起動展開が進められます。そして奪回作戦としてりゅう弾砲、迫撃砲、高射機関砲、最終的には主力の90式や10式の戦車が砲撃を展開し、敵を制圧するというものです。

現実味を帯びた実演のストーリィであるだけに、そのリアリティさには圧倒されるというものです。それにしても砲撃の正確性と破壊力の強さには驚愕したというものです。敵兵が跡形もなく吹き飛ばされることは明々白々です。ということは逆にわが自衛隊員も木っ端微塵になるということです。

武力とは明らかに必要悪です。装甲車や戦車など、こうしたものは絶対になければない方がよい。実演の炎と爆音に改めてそう思わされたものです。

泥棒はどんな家庭にも入り込みます。泥棒には対抗しなければなりません。そうした点で武力は必要悪でありましょう。しかし「こうした火力は外交努力や文化交流などによって使わずに済むようにする。それが人類としてのチエというものなのだ」。そう語り合う富士演習場の帰路でありました。


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20周年を20時間試合で盛り上がったサッカー協会

2014年08月19日 | Weblog

写真:「田原市サッカー協会HP」

お盆とは不思議なものです。人が消えた東京がのんびりするだけでなく、帰省人を受け入れたはずの故郷もけっこうのんびりするようです。お盆の数日はわが田原市役所もほとんど人影のない職場となっておりました。

しかしそんな中で、俄然、異質な存在感を示したのが田原市サッカー協会のイベントです。発足20周年を祝い、なんと20時間ぶっとおしのサッカー試合を企画したのです。「20時間サッカーフェスティバル」。それを聞き、わがスポーツ課の職員はお墓参りそっちのけで、会場に馳せ参じた次第です。

田原市を含む三河地域はサッカー空白地帯ともいわれます。東に清水エスパルス、西に名古屋グランパスを控えながらそれらに匹敵するチームがないのです。そんな背景もあって、田原サッカー協会の焦りと気負いは尋常ではありません。

20周年イベントは、お盆の15日の午後3時から翌16日の11時まで、昼は小学生、夜は中高生、深夜は一般で試合するとの内容です。田原市サッカー協会の会長さんはすでに70歳を超えた人物。しかもその彼の発案というのですからまことに楽しい話しではないでしょうか。果たして約500人のサッカーファンが集りました。

いやぁそのやる気に驚き、また20年=20時間というユーモアにすっかり喜ばされました。私のコーフンした発言を地元の東愛知新聞がアップしましたので、この際、採録しておきましょう。

 


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「ハエもトラもたたく」で思う陳希同北京市長の涙

2014年08月12日 | Weblog

「陳希同自叙伝」

習近平政権は先日、腐敗問題をめぐって「ハエもトラもたたく」とし、中国の元治安部門トップ、周永康(前党政治局常務委員)を拘束しました。

周は同じく収賄の罪に問われた重慶市の元トップ、薄煕来元政治局員の後ろ盾で江沢民元総書記に近いとされます。それだけに習近平政権と江沢民元総書記との全面戦争が始まったとの指摘もあります。

昨今のこのニュースは、私に20年前の北京市庁舎での光景を思い出させないわけには行きません、1994年、私は当時の鈴木俊一都知事に随行して友好都市である北京市を訪問しました。市長は陳希同であり党の中央政治局委員でもありました。鈴木知事との交流は長く、それだけに大きな歓迎を受けたものでした。

ところが別れに際し陳市長は、都知事を強くハグし、何と涙まで流したのです。少なくない関係者が囲む公の場です。その光景は唐突でもあり異様でもありました。

しかし帰国し、暫くして私たちにその涙の意味が分かります。市長は汚職審査を受けていた副市長の自殺で監督責任を取って辞任。本人も汚職容疑がかけられ、やがて懲役16年の実刑判決を受けることになったのです。

涙した陳市長はそうした自分の行く末への予感を持っていたに違いないのです。もう鈴木知事と生きて会うことはない。そう感じていたのでしょう。実際に陳氏はガン治療で保釈されるまでの10年間を牢で過ごし、その後数年して昨夏に他界しました。

陳氏は天安門事件を制圧した時に北京市長でもあり、それだけに権力を誇っていました。しかし前後して党総書記に抜擢された江沢民は、その「北京独立王国」を築いていた陳市長を徹底的に潰す策に出たのです。中国支配層における汚職容疑。それは明らかに権力抗争という言葉と同義といってよいようです。


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柳田國男の命日に伊良湖岬「椰子の実」海岸を想う

2014年08月08日 | Weblog

写真:「シーサイド・スパ」

渥美半島の伊良湖岬といえば、島崎藤村の「椰子の実」の歌で有名です。昭和11年にNHKで流されたのが世に出た最初といわれます。しかしこの歌詞は、島崎藤村が自らの体験で作ったものではなく、民俗学者の柳田國男から聞いた話が発端とされます。

明治31年の8月、帝大の学生であった柳田はこの伊良湖岬の地を訪れ、ひと夏を過ごします。ある朝、浜辺を散策した折、椰子の実が流れ着いているのを見つけ、後日東京に帰った後にこの話を藤村に語ります。そのおり藤村は「その話はもらいました、他言無用に」と頼んだというのです。

先日、渥美半島の突端の伊良湖の海水浴場で、海開きの神事が行われました。地元のホテル関係者や渥美半島観光ビューロー、田原警察など30人ほど集まり、安全祈願を行ったのです。

この伊良湖の浜辺は今では「ココナッツビーチ」と「椰子の実」に因んで名づけられる海水浴場となっています。しかしまさしくこの浜辺が、柳田國男が逗留した民家から数百メートルの処なのです。

海開きの神事の傍らでは、若い男女100人余がビーチバレーを楽しんでいました。柳田國男が「海上の道」で考察した日本人。白亜の高層ホテルの前に広がるこの人々の風景を、100年前の柳田はどう想像したものでしょうか。

そういえば今日は8月8日。柳田國男の命日です。昭和37年のこの日、柳田は87歳の生涯を閉じています。


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養父市の明延鉱山で「一円電車」の人気継続を祈る

2014年08月05日 | Weblog

写真:「NPOあけぼのHP」

先週末は「こども鷗鳴フォーラム」への参加のため、特急「きのさき」に乗って兵庫県は養父市へ出掛けました。その二日目、「ウチのまちで日本一といわれるのは明延(あけのべ)鉱山」という市役所の課長の案内でその現地を訪れました。

明延鉱山は明治42年に三菱による近代鉱山として開発されます。昭和62年の閉山時でもなお国内産出の錫の90%を占め、そこで採掘された鉱石は約6km離れた神子畑(みこはた)選鉱場に輸送されました。昭和4年、その間をつなぐ全長約4kmの明神隧道が完成。昭和20年になると客車の運行も始まりました。

その鉄道が昭和27年に一円電車としてスタートするのです。客車2両で定員は40人。料金1円のこの電車は、収益というより入山者のカウントを主にしたようですが、しかし昭和60年、明延鉱山の合理化のため運行は終了します。

ところがこの明延鉱山が経産省の近代化産業遺産に認定されたこともあって、平成22年秋、長さ70mの「一円電車明延線」が復活しました。この電車に今回、乗る機会を得たのです。今では明延のシンボルとして有名になっています。

財政的に苦しい養父市はその電車の経営をNPO法人一円電車あけのべに委ねました。全国人気のこの一円電車。愛くるしいほどちっぽけな、しかし歴史を山ほど積んだ一円電車です。うーん、何とか今後も維持継続できてほしいもの。その快走をひたすら祈った一日でありました。


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