嶋津隆文オフィシャルブログ

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新井満のコラボ「ふるさとの山に向かひて」に浸る

2008年02月29日 | Weblog

友人の訃報に混乱して暫くブログから遠ざかってしまいました。
しかしそんな姿をみてか、ある知人から盛岡市の観光振興をかねて新井満のイベントがあるからと誘われ、過日お堀沿いのパレスホテルに出かけました。

開催されたのが「ふるさとの山に向かひて」と銘打っての、新酒と新曲CDの披露イベントでした。盛岡市が生んだ歌人石川啄木を素材に、芥川賞作家であり「千の風になって」の作曲家でもある新井満が中心となって製作し、そのお披露目として盛岡市とともに企画した催しでした。

新酒「ふるさとの山に向かひて」は、いうまでもなく啄木の「一握の砂」でもっとも良く知られる「ふるさとの山に向かひて言ふことなし」の歌から命名されたものです。盛岡の地の酒造会社が大吟醸、純米酒として販売します。銘柄名としては長すぎるのではないかとの声もありましたが、いやいや望郷の念は無限のものだとの声が勝っていたようです。

 ついで新井満は自らのCDの披露も行いました。啄木の上記の歌と併せて「やわらかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けど如くに」と「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにいく」とのいう二つの歌を入れ込み、「ふるさとの山に向ひて」というタイトルで世に出したのです。「涙が出るほど懐かしい」。このフレーズで、既にNHK「深夜便のうた」で流されているので耳にした人は少なくないことでしょう。

80人ほど集まったその会場は、盛岡出身の在京の人たちを中心に埋められていました。それだけにふるさと盛岡礼賛の雰囲気は大いに高まりました。そしてその際驚かされたことは、私の隣のテーブルには石川啄木の孫、ひ孫が招かれて座っていたことでした。ひ孫の石川氏は世田谷区に居を構えているとの話しでしたが、「歴史」と肩を並べることに何とも落ち着かなかったことは否めません。

ちなみに新井満は、啄木の子孫の人たちに語りかけながら、そのCD「ふるさとの山に向ひて」の収益金を盛岡市に寄付すること、しかもその資金が石川啄木記念館に流れることを希望する旨表明したのです。「千の風になって」の実績からすれば、最高のプレゼントを啄木と盛岡に提供したことになるといってよいでしょう。何とも小憎い選択です。

 それにしても啄木と新井満という過去と現在のコラボ。新酒と新CDという地場産業と文化のコラボ。そして東京と盛岡のコラボ。有機的な紡ぎの中で、新しい観光振興のありようが示された点で、観光行政に関わる私には極めて新鮮なイベントでした。

 ただ余談ですが、私にとって石川啄木には苦い思い出があります。40年前に京都大学を受験したときのことです。英語の第1問が何と、こういうものでした。
問 次の石川啄木の歌を英訳せよ。
         やわらかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けど如くに

面くらい、動揺し、そして落第してしまったのです。爾来啄木の歌には、過剰なほどに哀感が漂ってしまうことになったのは、私の人生の誤算という他ありません。
                            


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靖国松平宮司と友人山之内三紀子の死

2008年02月14日 | Weblog

「松平様は何があっても揺らぐことのない、信念の人です。とても尊敬しています。」

過日、癌で急逝した大学からの友人の弁護士山之内三紀子が、ある時口にしていた言葉です。彼女が逝って早や10日は経ちました。私のオフィスのある九段下から、まだ蕾もない靖国の桜の木々を今朝見上げながら、ふとこの言葉を思い出しました。

いうまでもなく靖国神社の宮司であった松平永芳は福井藩主の直系。元海軍少佐であり、戦後は陸上自衛隊に入るが、昭和53年に靖国神社の第6代宮司となった人物です。祖父は将軍家茂に辞職を勧告し或いは公武合体を画策した松平春嶽、父は大正天皇ご意見番といわれ戦後は宮内府長官となった松平慶民。3年前の平成17年に90歳で他界した松平宮司は、同じ福井出身ということもあり山之内のことを娘のように可愛がったようでした。

宮司は、A級戦犯を合祀した張本人ということで昨今、国民の非難を一身に受けているかのような存在です。まして彼の死後となった一昨年とはいえ、昭和天皇の「それが私の心だ」という合祀した靖国神社批判の言葉が表に出てからは、墓の中で一層肩身の狭い思いをしているものと思うのです。

それは違いますね、と山之内はきっぱりと言っていました。東京裁判を否定しなければ、日本の精神復興はできないという強い決意をもっていたのです。他方で靖国の国家護持は危険であり権力に迎合してはならないと主張し、また神式に従わなかった中曽根総理に憤然とし彼の公式参拝にも出迎えもしなかった程です。松平様は揺らぐ人ではないのです。

ことほど左様に松平宮司を山之内は尊敬していたようです。もっとも彼女自身は新しい教科書の採択に反対するなど、およそ右派と評されるような行動をとっていたわけではありません。間近にしかも繁く接するなかで、ひたすらその信念を貫く宮司の屹然とした姿勢に深く傾倒していたものと思われます。また私にしても、戦争責任の明確化という作業を国としてネグレクトしてしまったことが、戦後の日本の思想的、社会的混乱を招いた要因だと考えています。

その彼女が、自分が胆管癌であることを知らされたのが昨年の初夏でした。半年はもたないとまで医者に宣告されたのです。しかしこのことを他言しないとした上で、しかも最後まで弁護士活動など変わらぬ生活態度をし続けることを決意したのです。そしてその決意の通り、ほとんど誰もが気付かないうちに半年後を迎えました。大変な精神力が要ったのではないかと思わずにはいられません。

2月2日に息を引き取る前、私宛のメールにこうありました。
「あとは死をまつところ!
 笑って過ごしたい。
さいごの面会もかなわない。
さようなら」

「団塊の世代は老病死に対して全く無防備の世代です。それに対応する人生観や価値観の教育をほとんど受けていません。いかに生き、死んでいくかについて周章狼狽することが予想されます」。こう宗教学者の山折哲雄は案じています。しかし山之内三紀子の、ぎゅっと歯をくいしばって笑って死んでいったであろう様を思う時、同世代人にも堂々と自刃するような強さをもった人(女)のいたことを誇らずにはおれません。

それにしても死は、何とも苛烈なものです。もはや何も問えず、また応えもありません。
「時間が欲しい、時間が欲しいの」。
いつぞや送られてきたメールに残るこの本音に近いだろう言葉を見る時、彼女の気丈夫さが一方で恨まれてならないというものです。

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「カッコーの巣の上で」で思い起こす役人道というもの

2008年02月07日 | Weblog

1975年のアカデミー作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞を獲得した映画「カッコーの巣の上で」。精神病棟での管理体制に反発して、自由と活気を求めて改革を進めようとする主人公が、しかし抑圧され、ついには前頭葉切除で廃人にさせられていく悲劇の物語。そもそもは管理体制の厳しい共産東欧のチェコから米国に逃亡してきた著者の作品の映画化です。

このまことに重い名画を先日BSで見つつ、30年前の美濃部都知事のスピーチを思い起こしました。そのスピーチは冒頭で、日比谷の映画館で「カッコーの巣の上で」を観て大変学ぶものがありましたという展開でした。普段、無味乾燥なあいさつ文が読み上げられる中で、米国映画のシーンから口火が切られたことに私たち職員は大いに驚き、また美濃部都知事という人物の教養性がひときわ際立たされように感じたものでした。

しかし考えても見れば、知事の発言原稿というものは一般的に部下職員が作成します。もちろんその原稿内容はもちろん職員の言葉でなく、東京都知事の風格を持つものでなくてはなりません。カッコーの原稿も知事のスタッフであった太田久行政策室長(現在作家の童門冬二)が最終的には書いたもののようで、美濃部知事の人権重視の革新イメージを大いに増幅させることに成功したものといえます。

鈴木都知事時代の高木祥勝秘書部長はよくこういっていました。「われわれは如何に知事を大きく見せるかが仕事です。知事を大きく見せる。そのことで東京を大きく見せる。そうすることが自分を大きく見せることにもなるのです」。役人と組織の心情、すなわち「役人道」を実に的確に表した言葉ではないかと感心したものでした。

振り返って国立市政の場合はどうでしょうか。明らかにトップと職員のそうした一体感がないのです。例えば駅周辺のまちづくり計画。この間の国立の市長は政治主義的姿勢で走り、JRなど関係機関との交渉をやってきませんでした。しかしそのような場合、普通は役所内部で実務的に問題点を整理し、首長に進言し、場合によってはJRや東京都と水面下で調整は図るといった作業を進めるのです。その縁の下の力持ち的作業をやってこそ行政人なのです。

首長が行き詰まってしまえば、部下も何も動かない国立市役所。これでは市長もまちも死んでしまいます。実は東京都もJRも、国立市政には首長への不信があるだけでなく部下職員への不信が強烈に醸成されていることを、市民・職員ともどもに知るべきなのです。

もう一つ加えるならば、最近、市報などで関口博市長のスピーチや挨拶文がそれなりに目に入ります。しかし率直に言って、そのいずれもがおよそハラハラとし聞くに苦痛な、中学生の作文のような稚拙な内容のものです。市長の文章力やスピーチ力が貧困であるとするならば、それは組織として、職員のサイドが支え、世間に示す市長イメージ下落の阻止を図らねばいけません。それが「役人道」なのです。

映画「カッコーの巣の上で」では、民主的と称される管理体制の運営の中で、病棟にいる人々は誰もが日々無気力になっていきます。しかしそんな寒々とした風景が、どこぞの市役所などにはないと、とても言い切れない気がするのは残念でなりません。市長を支えその自治体を大きくみせていくというのは、役人としての責任であり、またまさに醍醐味と思うのですが、いかがでしょうか。

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