嶋津隆文オフィシャルブログ

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アルハンブラ宮殿の花園と橋下大阪都構想の手法

2015年05月22日 | Weblog

【アルハンブラ宮殿】
         

世界遺産アルハンブラ宮殿。花のこの季節になると私は、30年近く前の初夏に訪れたこの宮殿の美しい庭園での衝撃を思い出さずにはおれません。

グラナダのこの古城は、イスラム建築の最高傑作とも名高く、天井のダイヤモンドを何千と埋めたようなアラベスク文様には息をのまされます。しかし訪れた私が受けた一番の衝撃は、その庭園の咲き乱れる花々から漂ってくるえも言われぬ香りだったのです。

アルハンブラ宮殿は小高い山の頂きに建築されています。それだけに庭園を維持するためにサイフォンの技術できめ細かに水を吸い上げなくてはなりません。そうした工夫の上で花園が維持できるのです。

私が驚いたのは、その庭園の花々が咲き乱れるだけでなく、さらにその一体に香ばしい匂いが漂よっていることでした。ひょっとしてこの古城の建築者たちは、訪れる人たちの視覚(花々)だけでなく、触覚(噴水)、そして嗅覚(香り)をも同時に堪能させてこそ庭園と考えていたのではないだろうか。そうだとしたらなんと素晴らしいことではないか。

ところでわが日本の稀有な政治家、橋下徹大阪市長が辞任するとのこと。大阪都構想の敗北によるものですが、地方自治の発信のためには残念でなりません。府と市との二重行政の弊害解消は、大都市行政に関わってきた者にとっては当然の課題です。しかし負けました。理念が正しくても、その理解を住民に丁寧に、しかも多面的に展開していかないと進まないということでしょうか。

アルハンブラ宮殿の花々は、彩だけでなく香りや噴水まで多様に演出してこそ、訪れる人を感服させていました。そうした複層的な展開が橋下市長には結果的に十分でなかったのかも知れません。そんなことに関連づけられては、さすがのアルハンブラ宮殿の花園も迷惑というものでしょうが、ふと私にはそう思われるのです。


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「市民自治の憲法理論」の松下圭一先生が逝かれた

2015年05月15日 | Weblog

先週、松下圭一先生が逝かれました。85歳。「市民自治の憲法理論」(岩波新書1975年)、「シビルミニマムの思想」(東大出版会1971年)で、私たちの世代に圧倒的な影響を与えた政治学者です。

「憲法は国家のものか、市民のものか。今日、市民運動の昴進は、従来国家統治の対象とみられていた市民こそが、憲法理論をつくる主体であることを認識させつつある。本書は、既成法学の国家法人論的概念構成を批判し、市民自治から発する分節政治システムと、基本的人権を核とした国民の政府への機構信託を構想することによって、憲法学と政治学の結合を前提とした、国民主権の日常的発動を目標とする憲法理論の再構成を具体的に展開する」(「市民自治の憲法理論」帯文)。

その考えは何と新鮮であったことでしょう。書かれた著書は幾冊も幾度も読み返し、職場でも繁く議論しあったものです。理論としてだけではありません。東京都は行政計画(1968年)を策定する際、基本的考え方として松下「シビルミニマム」論を採用していたのです。

何年前のことだったでしょうか、ある日飯田橋駅から総武線に乗ると、目の前に座っておられたのが松下先生でした。古くからの知己の気持ちになり、思わず声をかけてしまいました。

「失礼ですが松下先生ですね。わたくし、先生の「市民自治の憲法理論」に大変啓発され、東京都庁に身を置きました。一度お会いしたいと思っていただけに嬉しゅうございます」。

そう申し上げると松下先生も頗る嬉しそうな顔をされ、「どうですか、次の駅で降りませんか。お茶でも飲みながら色々お話ししようではありませんか」と誘って下さったのです。が生憎、会議を控えていた私は「近々に先生の処にお邪魔いたします」と申し上げ、千載一遇のチャンスを逃してしまったのです。

しかしそれ以上に残念なのは、この松下理論が昨今では菅直人や鳩山由紀夫らの民主党の理論的支柱になったと批判されていることです。

確かに地方自治の強調は国家否定の側面を持ちます。見方によればアナキズムに底通する危険性もありましょう。しかし民主党のチルディッシュな失政がいかに問題であるにせよ、地方自治に市民権を与えた松下理論の歴史的意味まで否定することには、率直に言って多く抵抗感があるというものです。


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なかなか新鮮だった新宿前区長の多文化共生スタンス

2015年05月11日 | Weblog

新宿区の中山弘子前区長との議論を持ったのは先週末の秋葉原でのことです。テーマは新宿の「多文化共生」。恐らく消極的な話が出るのではないかと思えば、大いに違ったのです。率直に言って意外なことでした。

「多文化共生、すなわち外国人の問題について言えば、たしかに新宿区は外国人の割合が11%弱で約36000人います。ただ新宿区にニューカマーが多くなったのはそれほど昔のことではありません。1980年代の中曽根内閣の時の、留学生10万人計画が発端です。そうした留学生を対象にしたビジネスとして日本語学校も増加するなどし、外国人の数はぐんと伸びました。外国人のコミュニティができる。そこを軸にさらにその国の人たちが集まる。関連した商業活動が行われる。こうした形で広がっていったのです」。

「こうした事態に私はいかなる立場をとったか。大事なことは立場を明確にするということだと考えたのです。そしてこう打ち出しました。「外国人が多く住むことを新宿区のイメージとする」と前向きに発信することにしたのです。それまでこの問題に対して行政の方向性が不明確であった。それが混乱をもたらした。だから私は区長として方向性を明確にする」。

外国人が増えると犯罪が多くなる、汚くなる。こんな指摘が多いだけに、こうした小気味よい話を聞くとはちょっと驚き出した。すると中山区長はこう続けました。

「本当かどうか、私は実態を客観的に捉えることが大事だと考えました。不法投棄は犯罪です。私は不法投棄の見守りを職員と行いました。すると日本人と外国人の割合は半分、半分であったのです。しかも外国人はゴミの生活ルールについてよく知らされていないということも分かったのです」。

先入観でなく、こうした客観的なデータの基づいた行政は強いものです。それにしても講演の最後に口にした次のコメントには、思わず苦笑してしまいました。なかなかオツな首長と言ってよいでしょう。

「新宿区には外国人が多く来てほしいものと私は考えています。先の韓流ブームの時には大久保界隈は観光地化しました。ゴミの問題やトイレの問題などトラブルがありました。でも地価が上がったのです。「再開発をせずに地価が上がったのは大久保だけではないか」といわれましたね(笑)」。


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花の半島の花の息吹、フラワーアレンジメント

2015年05月07日 | Weblog

【於リベルテムーブル】

日差しの眩しい季節です。花の半島といわれる渥美半島であれば当然のように、街道沿いに色とりどりの花々が咲き誇っています。そんななかで5月の風の爽かさもあって、近くのフラワーアレンジメントの展示会に足を運びました。

小さな教室が主催した会場です。しかし種類も色も様々な楽しい作品が所狭しと並んでいました。しばらく見ていると、主催者の女性が何気なくこう言いました。「花を人に見せて楽しむ、そういう生活スタイルが広がっているんですね」と。

その言葉にふと一冊の本を思い出しました。40年以上前になるでしょうか、犬養道子の著『私のヨーロッパ』。そこには確かこんな記述がありました。「ドイツの街の楽しさは、道に面するあらゆる家々やアパートの『窓の美しさ』につきるといっていい」と。

ドイツに限らずヨーロッパの人たちは、公道に面した窓をちょっとした心がけと努力で飾り、道行く人とその美しさを共有するというのです。そこには日本人の古くから床の間や庭に花を活け、静かにそれを身内で楽しむという文化との違いを訴えていました。

あれから半世紀。今や私たち日本人の趣向も大きく変わったようです。訪れた喫茶店の一角での展示会場では、間違いなくどの作品も自己主張があり、そして花とアレンジメントの楽しさを共有し、是非一緒に愛でてほしいと語りかけていたからです。

ところで渥美半島(田原市)は農業生産額日本一を誇る自治体。しかもその50%近くをマムなどの花卉が占めています。花々を共有して楽しもうとする生活スタイルの広がりの中で、花のマーケットの新規開拓は大きなテーマとなっています。

そこで地元が着眼したのが「2020年の東京五輪のビクトリーブーケに渥美半島のマムを!」との発想です。菊は皇室の紋章、東京開催の五輪にはもっともふさわしい花ではないかと。その主張や良しと、楽しく賛同するものです。


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