嶋津隆文オフィシャルブログ

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天下の悪法ではないか、裁判員制度

2008年05月31日 | Weblog

こればかりはイカン!と怒っています。外ならぬ来春から予定されている裁判員制度の導入です。殺人のような重大な刑事事件の裁判に、裁判官でない素人を参加させるもので、判決が市民感覚から乖離しないようにとの趣旨だと説明されます。誰がこんな幼稚で、一方的な制度を考え出したものかと、怒り心頭です。

芸能人のスキャンダラスな犯罪を傍聴席で楽しむようなことであれば、何人であれご随意にどうぞ、といえます。しかしそんな事件とはまるっきり違う、死刑という判断を全国民の“ずぶの素人”に任せるというのです。間違いなく裁判は混乱します。

だいたい裁判所というのは、言語も特異な、極めてギルド的な世界です。証拠調べも量刑の判断も極めてテクニカルです。法律論を堂々とかざす裁判官に、素人の内の幾人が委縮することなく渡り合えるというのでしょう。要は市民裁判という喧伝の、単なる“飾り”にさせられるだけなのです。

だいたい死刑の執行は現在秘匿されたままで、執行官と検察官が立ち合う程度です。誰も抽象的にしか知らないのです。死刑判決を出しうるとするなら、その実態、すなわち絞首刑の現場を承知していなければいけません。少なくとも死刑判断に関与した裁判員は、老若男女を問わず、その死刑執行に立ち会う覚悟も必要でしょう。しかし逆に、そんなきついことを国民に無差別に強いることは、ナンセンスです。

もう一つ特に不愉快なのは、裁判員に指名された人はそれを拒めないという強制措置です。それでもって死刑判決という生命を奪う行動を求められるのですから、構造的には赤紙の召集令状と同じです。人々は様々な生活があります。そういった個別の生活事情は無視し、最重要の国民義務が裁判参加だと強制するのは司法の傲慢です。司法とはそんなにエライのか!と悪態をつきたくなります。

それにしてもこの制度は不備ばかりです。例えば裁判員の日当もわずか8000円程度。ちなみにおなじ作業をする裁判官は年収2000万円として実働日一日で8万円位でしょうか。これで拘束時間も守秘義務も死刑判決の重圧も同じというのですから、素人国民はバカにされているというものです。1日10万円位は弁償して当然です。罰金を払ってでも、自分のビジネスを優先しようという人が現れても、それを非難することなど出来ません。

さらに地方行政をやっていた私の立場から見て憤然とするのは、国民参加というキレイな表現を、そのままに信じているかのように導入する最高裁の軽薄さです。長いこと地域での市民参加の実態を知らされてきた我が身にとって、不幸にして多くの場合、その参加層がいかに付和雷同的であり、感情的であり、時に政治イデオロギー的であるか、思い知らされているのです。裁判席で抽象的にしか国民を見ていない裁判官が、国民参加という怪物性をどこまで理解しているか大いに疑問です。単なるキレイごとでの観念論で飛びついた、幼稚で学級民主主義的な選択という感がぬぐえません。

市民参加は重要です。特に自治体では、対立する地域のシビアな課題に対してなど、広く市民の意見集約が必要なことが随分あります。しかしその場合でも、参加を条例などで義務付けるなどせずに工夫してきました。戦後50数年をかけてです。主体性を重視するのが民主主義というものだからです。選挙でさえ自主的な制度ではないですか。

それを今回、一片の法律でもって、ロシアンルーレットのように特定個人を選定し、参加を拒む人を処罰してまで強制的に裁判に参加させるのです。それでもって司法の民主的外観を顕示しようとするのです。まるで北朝鮮といった全体主義国家の営みをほうふつとさせるものです。何よりも内部の改革努力を放棄した司法の、明らかな安易さであり、手抜きなのです。

裁判員制度は、かように天下の悪法というべきものであり、考えれば考えるほど、その導入には反対すべきものと思うのです。

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慌てています、オフィシャルサイトのトラブル

2008年05月29日 | Weblog

この5月の初めより、「嶋津隆文オフィシャルサイト」が閉鎖状態になってしまっていささか慌てています。YAHOOに登録していたドメインの手続きに手違いがあり、登載契約を新規にやり直すことになってしまったのです。そのため、約2か月の間、すなわち来月(6月)末にならないと正式復旧できないという事態になっています。不便をおかけしますが、お含み下さい。
 
ただ管理をお願いしている(有)ブリリアント(☎042-571-6681)の厚意で、「オフィシャルサイト」の更新手続きにすぐやってもらい、また「オフィシャルブログ」についてだけは書き込みと閲覧が可能にしてもらいました。そこで早速に、こうして今回ブログを入れる次第です。

発言することがインターネットでもう出来ないとなった時、ふと思い出したのは韓国の前の大統領の金大中氏のことでした。朴正煕政権に障害だとして、韓国中央情報部(KCIA)に九段下のホテルでクロロフォルムを嗅がされて連行され、日本海で殺されるところ自衛隊が拉致船を追跡し、かろうじて殺害される難を逃れた事件(1973年)で有名です。

その金大中氏は、韓国の刑務所に入れられたとき、書籍を読むこともさることながら、鉛筆をもつことを禁じられたと伝えられます。すなわち一切の表現活動を出来なくされたのです。その苦痛をしみじみ述解していた記事を読んだことがありました。確かに発言するという行為は、現代人にとってもっとも基本的人権といってよいものです。それを奪われたのですから何とも残酷です。

そんな大事件と、ちょっとしたブログのトラブルを絡めるのはいささか大げさではないかと笑われそうです。が、パソコンに向かって何も発言できない事態への絶望感は小さいながらなかなかのものでした。したがって今日はウキウキしながらキイをたたいている次第です。

ところで、金大中氏が拉致された九段下のホテルグランドパレスは、私が週のうちの半分を過ごす編集プロダクション・オフィスJのマンションビルの、道を挟んで真向かいにあります。彼が襲われた部屋は22階、私のオフィスは10階。僅かに階差こそあれ、朝鮮半島の政治状況の重さを、文字通り日々目の当たりにしているというのは、奇縁というほかありません。



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“何だ、近頃の若い連中ときたら・・”

2008年05月09日 | Weblog

連休明けのキャンパスは、入学仕立てと違い学生どうしも親しくなったのでしょう、楽しそうな会話があちこちから聞こえてきます。私自身も本格的に教壇に立って一か月がたちました。しかし長いこと接することのなかった二十歳前後の若者の生態に、この間、驚かされることしきりです。今日は閑話休題で、その幾つかを掲げておきましょう。

「朝日新聞は左派系、産経新聞は右派系、読売新聞は・・」と説明していて、ハッと思ったのです。そして学生に聞いたらその予感通りでした。クラスの20人のうち、新聞を読んでいるといったのが2人だけであり、残りの学生は新聞名もほとんど知らないのです。みなニュースなどはインターネットからなのです。

「日本の地方自治行政は明治以降に県と市町村とになり、江戸の頃は藩体制でした。NHKの『篤姫』薩摩藩は、ほら宮崎あおいが主役の・・」と解説していて、これまたオヤッと思ったのです。案の定、その学生の全員が日曜の大河ドラマなどみていなかったのです。話しが続くはずもありません。

「嶋津先生は女優の誰が好きなんですか?教えて下さい」との雑談で、「そりゃ、韓国のソン・イエジンだよ、ほら『夏のかおり』のくりくりした・・」とウケを狙って答えて、またまたドキッとしてしまいました。そうなのです。知らないのです、韓流ドラマなどは。あげて中年のおばさんの関心対象だったのです。

ほとんど共通項などないというものです。こんな状態ではむしろ、外国人の学生と話をする方が楽かもしれません。日本人で、同じ言語を語っているだけに、同じ理解をもつだろうという期待をもってしまいます。外国人であれば、始めから共通項がないものとして、前提から順追って説明することになるからです。混乱せずに済むというものです。

加えて驚くのは、講義中の私語。注意すると何の反抗もなくすっと静かになるのです。しかししばらくすると又始まるのです。「先生、トイレ!」と突然退席したりする学生もいます。まことに不思議な人間たちを見せられているような感があります。これらの生活の基本ルールを欠落した諸行動には、どこの大学も頭を悩ませているようですが。

果たして、思わず古典的な言葉が口について出てくるというものです。「何だ常識がない、近頃の若い連中ときたら・・」(笑)。しかしかといって、無気力かといえばそうでもなく、実に積極的に接してくる学生も少なくないのです。私の戸惑いはもう暫く続きそうです。

先に早稲田大学の田勢康弘教授(テレビコメンテーター)と会った時、学期末の試験には毎回「母への便り」を書かせて家族に送り、試験に代えていると言っていました(3月25日ブログ参照)。東大の非常勤の時もそうしていたといいます。たしかに妙案かと納得し始めています。最近の親子関係というものが見えてくる。学生の日常生活と将来への期待が分かる。何よりも、基礎学力のない若者にも書き易いテーマとなる。手紙をもらった親も喜ぶ。

しかし、とやはり思うのです。しかしどこか違ってはいないだろうかと思うのです。「失われた10年」とバブル期以降の混迷をもった90年代を称します。その弁でいえば、「失われた50年」というべきかもしれません。社会ルールをなおざりにし、学力重視を軽んじ、自由さだけが強調されてきた日本の戦後。その半世紀のことが、改めて取り返しがつかないような気がしてくるのです。

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明和地所の3千万円寄付申入れと国立市の動揺

2008年05月01日 | Weblog

連休の間くらい、のんびりとゴルフに行くなりして過ごしたいものと思っていました。しかし国立市政は、どうしても気持ちを平穏にしてくれないようです。立て続けに、びっくりする2つの話しが聞こえてきたからです。1つは明和裁判絡み、もう1つは市教委絡みの問題です。今回ブログもまたまたクドく、国立色(いろ)です。

(1)明和が市からの賠償金を市に寄付
1つめの問題は、明和マンション裁判での市(長)側敗訴に絡んで、国立市が明和地所に支払った3000万円と同額を、明和地所が逆に市に寄付すると言ってきたことです(4月28日ブログ参照)。市長サイドは動揺し、その対応を決めかねているとも決めたとも聞こえてきました。まことに意表を突く展開です。

考えてもみれば、マンション訴訟は明和地所にとって、たいへん不幸な事件でした。合法的に土地取得し合法的に建設した行為が、ある日、当の行政によって「犯罪的行為」とされ、全国的に「悪徳業者」のように喧伝されたからです。

大学通りの高さ制限は、そもそも国立市が事前に整備しておくべきものでした。行政がその作業を放置していた挙句に、後づけで規制をつくり、その事後法でもって「違法行為」として追及したものですから、まことに明和には踏んだり蹴ったりの事件だったというべきでしょう。

最高裁は、この明和の立場を十分理解し、一方的な営業妨害行動を行った国立市(長)に、3000万円の賠償金の支払いを命じたのです。それなのに先般、明和地所は、それまでの市の身勝手な態度を難詰するのでなく、なんと全額を市に寄付しようと申入れたのです。実に堂々とした、爽やかな対応ではないでしょうか。

こうなると問われるのは、国立市の「品格」あるいは「矜持」の問題です。昨日まで唾をかけていた相手から、笑顔で静かにお金を返されたのです。いったい、どういう態度でこの行為を受けとめるというのでしょう。普通であれば、恥ずかしくてとても受け取れないお金です。しかし百歩下がって、市民の血税だとして受け取るものなら、少なくとも明和に感謝を表明すべきです。加えて当然のことながら、市の数年来の非礼を陳謝するといった姿勢がなくてはいけません。

そしてさらに問われることになるのは、市税を使って騒動を起こした前上原市長の責任の追及です。自己の住民活動家としての立場ばかり主張し、相手と血税の立場を考えずにきたオトシマエは、政治的にも法律(金銭)的にも前市長につけてもらわねばなりません。議会が発足させた調査特別委員会は、同じ過ちを国立市が犯さないためにも、原因の検証と責任の所在を一層厳しく行うことが明確になったと承知すべきです。それが今回の明和の心くばりにこたえる最低限の誠意だといえるでしょう。

(2)市教育委員がモンスター・ペアレントに!
さてさて、もう1つのびっくりした事件を併せて載せておきます。それは国立市の教育委員会での学校視察をめぐる混乱です。

国立の学校視察の日程は、授業や職員会議など学校サイドの関連で「年間予定」として水曜日とされてきていました。当事者や子供への影響が大きいだけに、きちっと事前に調整して設定されてきているものです。

しかし先週の委員会で、4人の市教委の一人N教育委員は突然に、「自分の都合が悪いから(学校視察日を)火曜日に変更すべきである」と主張し始めたと聞きます。そして何時間も譲らず、結論のつかないまま次に持ち越されました。他の教育委員は、みな水曜日にすることに従っていたにも拘らずです。

こうなると、思い起こすのは、モンスター・ペアレントといわれる世間で頭を悩ませている、理不尽な親たちの言動です。「学校の運動会が、家族の都合が悪いから変更してくれ」と学校に怒鳴り込むなどの、一連の、身勝手な主張しかしない親が最近の大きな社会問題となっています。自分の都合だけを考え、全体のことには目をやらない権利至上主義の病的な姿です。その同類の行動を、なんと国立市では、現職の教育委員がやっているというのです。

すべてが権利ばかりを主張して良しとする国立“革新”市政。上の2事例は、そうした風潮がもたらした災いと言ってよいようです。そんなこんな国立の市政の様子を聞くにつけ、どうも気がふさいでなりません。戸外はかつてゲーテが「五月の歌」で詠んだような、素晴らしい青空が広がっているというのにです。

そこでせめての気分直しに、その一節を掲げておくこととしましょう。
どの枝も花を噴き、
しげみからは数知れぬ鳥の歌声。
 胸に湧く歓喜。
おお地よ、太陽よ。
幸福よ、よろこびよ。

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