こればかりはイカン!と怒っています。外ならぬ来春から予定されている裁判員制度の導入です。殺人のような重大な刑事事件の裁判に、裁判官でない素人を参加させるもので、判決が市民感覚から乖離しないようにとの趣旨だと説明されます。誰がこんな幼稚で、一方的な制度を考え出したものかと、怒り心頭です。
芸能人のスキャンダラスな犯罪を傍聴席で楽しむようなことであれば、何人であれご随意にどうぞ、といえます。しかしそんな事件とはまるっきり違う、死刑という判断を全国民の“ずぶの素人”に任せるというのです。間違いなく裁判は混乱します。
だいたい裁判所というのは、言語も特異な、極めてギルド的な世界です。証拠調べも量刑の判断も極めてテクニカルです。法律論を堂々とかざす裁判官に、素人の内の幾人が委縮することなく渡り合えるというのでしょう。要は市民裁判という喧伝の、単なる“飾り”にさせられるだけなのです。
だいたい死刑の執行は現在秘匿されたままで、執行官と検察官が立ち合う程度です。誰も抽象的にしか知らないのです。死刑判決を出しうるとするなら、その実態、すなわち絞首刑の現場を承知していなければいけません。少なくとも死刑判断に関与した裁判員は、老若男女を問わず、その死刑執行に立ち会う覚悟も必要でしょう。しかし逆に、そんなきついことを国民に無差別に強いることは、ナンセンスです。
もう一つ特に不愉快なのは、裁判員に指名された人はそれを拒めないという強制措置です。それでもって死刑判決という生命を奪う行動を求められるのですから、構造的には赤紙の召集令状と同じです。人々は様々な生活があります。そういった個別の生活事情は無視し、最重要の国民義務が裁判参加だと強制するのは司法の傲慢です。司法とはそんなにエライのか!と悪態をつきたくなります。
それにしてもこの制度は不備ばかりです。例えば裁判員の日当もわずか8000円程度。ちなみにおなじ作業をする裁判官は年収2000万円として実働日一日で8万円位でしょうか。これで拘束時間も守秘義務も死刑判決の重圧も同じというのですから、素人国民はバカにされているというものです。1日10万円位は弁償して当然です。罰金を払ってでも、自分のビジネスを優先しようという人が現れても、それを非難することなど出来ません。
さらに地方行政をやっていた私の立場から見て憤然とするのは、国民参加というキレイな表現を、そのままに信じているかのように導入する最高裁の軽薄さです。長いこと地域での市民参加の実態を知らされてきた我が身にとって、不幸にして多くの場合、その参加層がいかに付和雷同的であり、感情的であり、時に政治イデオロギー的であるか、思い知らされているのです。裁判席で抽象的にしか国民を見ていない裁判官が、国民参加という怪物性をどこまで理解しているか大いに疑問です。単なるキレイごとでの観念論で飛びついた、幼稚で学級民主主義的な選択という感がぬぐえません。
市民参加は重要です。特に自治体では、対立する地域のシビアな課題に対してなど、広く市民の意見集約が必要なことが随分あります。しかしその場合でも、参加を条例などで義務付けるなどせずに工夫してきました。戦後50数年をかけてです。主体性を重視するのが民主主義というものだからです。選挙でさえ自主的な制度ではないですか。
それを今回、一片の法律でもって、ロシアンルーレットのように特定個人を選定し、参加を拒む人を処罰してまで強制的に裁判に参加させるのです。それでもって司法の民主的外観を顕示しようとするのです。まるで北朝鮮といった全体主義国家の営みをほうふつとさせるものです。何よりも内部の改革努力を放棄した司法の、明らかな安易さであり、手抜きなのです。
裁判員制度は、かように天下の悪法というべきものであり、考えれば考えるほど、その導入には反対すべきものと思うのです。