写真:「流された家庭を想起させるガスボンベ群(女川町)本人撮影」
写真:「映画 “Zigeunerweisen”」
映画「大鹿村騒動記」を見ました。笑いに笑え、泣きに泣かされ、正に佳作といってよい作品です。立川の満席の映画館では終了とともに拍手が起きました。
それにしても原田芳雄は、どうしてあんなに恰好いいのでしょう。都会的で野性的で、知的でアグレッシブで、何と言ってもあの鋭い眼光がよく、さらに響き渡る声量が小気味よいのです。
ところで彼の主演映画「ツィゴイネルワイゼン」が封切られた30年も前のこと。キネマ旬報第1位となったこの作は、いうまでもなく監督鈴木清順で、1980年の映画賞を総なめにした作品です。
その封切り初日に舞台挨拶があると聞き、私はいそいそと会場の代々木に向かったものでした。監督賞受賞の鈴木清順、主演女優賞の大谷直子、助演男優賞の藤田敏八、最優秀女優賞の大楠道代と挨拶が続く中で、しかし何と、主演の原田芳雄の姿はなかったのです。
それもそのはず、一人だけ賞から外されるという異常な事態になっていたからです。それだけに鈴木清純監督は、壇上に立つや、突然に叫ぶようにこう挨拶したのです。
「原田よ、賞(主演男優賞)を逸したことを気にするな。お前の演技は素晴らしかった!」。
そして30年たちました。今、映画「大鹿村騒動記」のなかで、原田芳雄は実に味のある演技を披歴し、改めて私たちを感動させたのです。ガンの痛みを堪えつつ「大鹿村騒動記」を作りあげて逝った姿とともに、間違いなく主演男優賞そのものといってよいでしょう。
それにして原田芳雄は久しく憧憬の対象であり、私の青春の一つでした。そうした過去を、彼の死はごそっと持ち去って逝ってしまった気がします。サラサーテの曲と等しく、切ない限りです。
写真:「バラの花」
サッカーのなでしこフィーバーも今日で3日目です。しかし「W杯は終わった話」などの発言が出るように、選手たちは結構冷静のように私には見えます。いや、マスコミの異常な狂騒ぶりにいささか白け出しているような気もします。
そうは言っても今朝の国立駅で、北側にそびえる三浦和良選手の住むマンションを見あげたりすると、ふと彼のインタビューを思い出したりしてしまうものです。「なでしこの彼女たち一人ひとりに薔薇の花をプレゼントしたいよ。キザだけれど」と語った例の笑顔のインタビューです。
なでしこ達の活躍の映像は、何度テレビで見ても感動的です。強烈なゴールの決め方もびしっとして何とも美しく、小気味いいものでした。他方で、カズの気恥ずかしそうなインタビューの決め方も、それはそれでびしっとしてかっこいいものではなかったでしょうか。
ここぞという時に、大きいことであれ小さいことであれ、きちっと発言し、物事にけじめをつけていくことは、世の中、結構大切なことです。
子ども手当などマニフェストが明らかに行き詰まってしまっても、ぐずぐずとしてその変更ができない政権。「メド、メド」と発言し、牛のよだれのように辞任を引き延ばす首相。なでしこチームの爽やかさとは凡そ縁遠い人たちがここにはいます。息苦しいばかりです。
写真:「どこで、どう暮らすか日本人」
(1万部が売れたヒット作品でもありました)
一昨日の寝苦しいわが身の誕生日の夜に、つらつら思うことがあり、ふと私の25年前の処女作『どこで、どう暮らすか日本人』を書棚から取り出しました。
昭和62(1987)年の国連の国際居住年に関連し、建設省や朝日新聞が実施した懸賞論文コンテストで、その一席となった私の論文を素材としたものです。TBSブリタニカから出版の話しが持ち込まれ、一万部近く売れたヒット作品となりました。「朝まで生テレビ」等にも出演するきっかけにもなったものです。
論文の冒頭に、会議で訪れた島根県で耳にしたエピソードを掲げました。山村で生まれ、東京に暮らし、60歳を過ぎてふるさとに戻ってきた人がいる。しかしその人は生れた家までは帰らず、松江に居を構える。そして時どき村にも東京にも出かけている。地元の人はその生活ぶりを興味深く見ているという話しです。
なるほど、と思いました。日本人のこれからの住まい方は、「住みつく(土着する)生活」にとどまらず、「往来する(漂流する)生活」を追求するようになるかも知れない。その新鮮な気づきを論文の主軸として書きあげたものです。
60歳を過ぎたいま改めて読み返してみて、自己の論文ながら、こうした老後の生活スタイルの選択もあってもよいかと感じさせられてしまったのです。誕生日とは、いや不思議な作用をもたらすようです。
写真:「避難の小学校講堂と並ぶ仮設トイレ」本人撮影
一昨日、お盆までは必ず完成させると首相が言っていた仮設住宅の建設が、困難になったと国交相が発言していました。時間との戦いが勝負の震災対応に、ここでもまたズルズルと時間ばかりが流れて行きます。居てもたってもおれない心境です。
先般訪れた石巻の被災地で、こんな話を耳にしました。
避難場所となっている小学校に5月の初め、歌手の八代亜紀が訪問した時のことです。彼女は熊本出身ということもあって、故郷の八代から大量の畳を持参しました。
人々は歌声だけでなくこの温かい畳の感触に、失われたわが家を思い出して喜んだといいます。しかし聞くと現地の反応はそれだけではなかったのです。朝から晩まで、何もすることなく過ごさざるを得ない人たちにとって、思わぬ反応があったというのです。
身動きの取れないほどに多くの家族が寄り添って暮らす小学校の講堂。畳が来れば、そこの何百人の人たちは布団や鏡台を運び出さねばなりません。そして畳を皆で敷き詰め、その後でまたまた布団や鏡台を並べ返すことになります。
当たり前と言えば当たり前のこの出来事が、しかし絶望的な程の無聊をかこつ避難生活の中で、久々の「大仕事」となったのです。この降ってわいた「大仕事」に、誰もがはしゃぎ、みな嬉々として参加したというのです。
思わず私は涙してしまいました。
「もし時間のロスというのであれば、それは政権交代に基づく民主主義のコストだと理解している」。平然とこんな発言をする閣僚に、畳一枚の運搬に歓喜する人々の姿を焼き付けてやりたいものです。
写真:「慰霊の花も枯れる女川町のいま」 本人撮影
さきほど(5日午前9時)、復興大臣の辞任がニュースに流れました。当然のことです。あれほど被災地を見下し、地方を見下し、傲岸無礼な言動を重ねれば人格さえ疑われるというものです。
先のブログ(6月27日付け)で、被災地の石巻、女川を訪れた私は、異臭に包まれながら政府の無策に憤っている地元の様子を記しました。
「まちの再建や家の再築をしたくとも、防波堤の高さなどといった基本的な基準を国が決めない。避難している老人たちは、通帳におカネ(義援金)が記入されるだけで安心できるのに、まだ支払いはない」。
地元自治体の復興がままならないのは、政府の無策に起因すると地元は憤然としていたのです。その当の政府責任者が、あろうことか、汗水たらしている地元に対し、「チエを出さないヤツは助けない」となじったのです。唾棄にも値すべき発言です。
その復興大臣は、更にあろうことか辞任の記者会見で、「支えてくれた妻や子供に感謝したい」と涙ながらに語っていました。いま誰に向かって詫びるべきかも分かっていないのです。「おそまつ」という次元を超え、「おぞましい」というべき感覚です。
菅政権はどこまでも被災地をボロボロにしてしまうのか。それにしてもひどい日本になってしまったものです。