現在壕の坑口は塞がれる
この7月末は沖縄で嚶鳴フォーラムの一環での教育長会議がありました。その帰路、どうしても訪れたかった第32軍司令部壕に足を運びました。牛島満。沖縄の軍司令官であり、父親が陸軍士官学校を卒業する時の校長であったこの人物の、足跡に触れたかったのです。
「昭和19年3月、南西諸島の防衛を目的に、第32軍が創設されました。同年12月、司令部壕の構築がはじめられ、沖縄師範学校など多くの学生や地域住民が動員されました。昭和20年3月、空襲が激しくなると、第32軍司令部は地下壕へ移動し、米軍との決戦にそなえました。壕内は五つの坑道で結ばれていましたが、現在、抗口は塞がれ、中に入ることはできません。司令部壕内には、牛島満軍司令官、長勇参謀長をはじめ総勢1000人余の将兵や県出身の軍属・学徒、女性軍属などが雑居していました。戦闘指揮に必要な施設・設備が完備され、通路の両側には兵隊の二、三段ベッドが並べられました。壕生活は立ちこめる熱気と、湿気や異様な臭いとの闘いでもありました」。(現地説明板より)
壕は首里城の地下で全長1.6kmに及ぶといわれます。酷暑の那覇での訪問であれば「熱気と、湿気と異様な臭い」という表現が強烈に目に入ります。牛島中将は本土防衛の「捨石」とされた沖縄の悲劇の末に6月には割腹して果てます。硫黄島で同様の絶望的な戦いを強いられた栗林忠道司令官と二重写しとなるというものです。ただ合掌するばかりの一日でした。