嶋津隆文オフィシャルブログ

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いよいよ迷走するばかりの国立市政

2009年01月28日 | Weblog


またまた今回も国立バージョンです。昨夜、新年初のくにたち政治経済研究会の1月定例会に顔を出しました。パネラーは自民、公明、中立左派?の3人の国立市議で、テーマは国立市政の現状と課題でした。いくつか驚かされる話しがあり、改めて国立のまちの泥沼状況を知らされました。とくに迷走しているのが、一つに財政難対策であり、もう一つがまちづくり計画でした。

第一の財政に関して言えば、財政難の原因として、徴税努力がなく周辺市と比べても相変わらずの低率である市政運営が指摘されました。また職員の給与の高さ(50代の職員は年収800~1000万円、東京都職員と比べ月4万円も高い)、とくに業務系職員の高さが放置されていることも問題視されました。

しかし考えてもみれば、こうした行政改革を今の市長ができないのは、不思議でもなんでもありません。既得権を逃すまいとする職員組合(業務系職員が多い)の意向を受けて、切り込みをしないからです。いうまでもなく職員組合が“革新”市長の支持母体であるからです。

失笑してしまったのは、その“革新”関口市長が財政改革の一つとして「保育園の民営化」を口にした時、共産党が「そんなことは絶対させない」と大騒ぎしたという話しです。聞いている方に常に冷や汗がでるといわれる市長発言ですが、前後を考えず、ただ部下に言われるままに重大事項をぽっと口にする市長の軽率さには、仲間といえども辟易するというものでしょう。同情申し上げる他ありません。

第二のまちづくり計画についていえば、駅周辺の整備事業を平成26年度以降に延期して着手するという案が提示されたということです。駅周辺まちづくりは、JRの平成22年度完成の高架化に連動させようと、上原市政の10年前から鳴り物入りで議論してきたものです。数度にわたる計画書案を1000万円余の市費を使って積み上げてもきました。その事業を5年後に延期するというものです。これは「もうやらない、もうやれない」と判断するのが行政の常識です。

それにしても、こうした杜撰で何もしない市政運営が許されるこの国立というまちは、果たして「自治体」という名に値しないのではないでしょうか。加えてそれを追求できない市議会の体たらくにも失望しないわけにはいきません。苦い思いを味わいながら、三角屋根の駅舎の消えたままの駅前を歩いて帰宅したものでした。


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三角屋根駅舎はもう復元できない

2009年01月19日 | Weblog

「国立駅 新しい駅舎の外観」

ひさしぶりに国立駅問題を取り上げます。この正月明けの先週、いよいよ国立の新駅と中央線の下り高架線の利用が始まったからです。本来この時期に合わせ、三角屋根駅舎が復元され、南口駐車場跡地も再活用される手はずになっていました。しかしそんな気配が全くなく、改めて国立市政のふがいなさに憤然とするからです。

駅周辺まちづくりに関し、国立市は市民協議会とコンサル会社による計画案ばかり作ってきました。例えば平成12年に駅周辺プラン報告書を、平成16年に駅周辺まちづくり提案書を、平成20年に駅周辺まちづくり基本計画案を作成しました。これら報告書に延々10年の時間と2000万円近い費用と膨大な市民エネルギーを費やしながら、しかしいまだに何よりも先行すべき市としての「行政計画」をまとめずにいるのです。

その原因はなにか。それは一番重要なJRとの調整が出来ないことです。三角屋根の復元の用地にしても南口公共用地の活用にしても、JRを抜きにしては全くコトが進みません。通常、行政のノウハウを知るものなら、計画づくりの協議会に利害関係者たるJRを参加させるのは当然の手順です。しかし国立市は、JRを協議会のメンバーにもオブザーバーにも一度も参加させず、自分たちだけでまとめた案をJRに示しては門前払いされているのです。

きちっと声をかけず手もこまねいている国立市を無視し、JRが新駅作りをスケジュール通り進めていくのは当然です。ましてこの数年来の、三角駅舎移転に関する市の2転、3転ぶりに苦労したこともあり、JRの国立市への不信は極めて深いものがあるのです。JRが先行して工事を進めれば、後から追いかける国立市のプランを反映させることは極端に難しくなります。だからこそ10年も前から準備に騒いでいたはずなのに未だに市の計画は作れてないのです。

しかも経済不況は深刻で、市財政は今後一層の財政難が想定されます。それだけに自前のカネもなく、土地利用や費用負担でJRや国・東京都とまともに交渉する積極さもない国立市に、もはや三角屋根駅舎を復元する力などないというほかありません。

ちなみに国立市は、一昨日も「旧駅舎とまちづくり」などといった市民向け講演会を開いています。しかしこうしたイベントは、本気でJRに立ち向かえず、三角屋根復元の費用ねん出のチエもない国立市が、三角屋根の復元の幻想を市民に植え付け、責任追及の手を逃れるための苦し紛れのポーズではないかと思えてしまうのです。

新しくできた中央線高架上の、下り電車の走り行く姿を見ながら、改めて現市政の無力、無責任ぶりに失望しないわけにはいきません。「三角屋根ひとつ復元できずして、何の首長ぞ」といわざるを得ないのではないでしょうか。

 


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「甘粕正彦 乱心の荒野」に心乱される

2009年01月13日 | Weblog

松のとれた1月9日に母方の叔父が亡くなり、その葬儀に掛川にいってきました。往路の東京駅でふと思いつき、書店で「甘粕正彦 乱心の荒野」を買い込み新幹線に乗りました。以前から気になっていたノンフィクション作家佐野真一の著で、果たして読み始めるや確実に全身が熱くなるのをおぼえました。

テーマは戦前の暗黒史の象徴とされる甘粕正彦。加えて大杉栄、伊藤野枝、7歳の少年の3人を虐殺したとする通説を疑問視し、憲兵隊という組織を守るために責任を一身に背負った甘粕の、純粋にして屈折した姿を追うものでした。歴史のスゴさと筆力のスゴさに、ページをめくる手が震えたというものです。

佐野真一の手法は、徹底した取材を基礎に書き記すところに真骨頂があります。都知事石原慎太郎を扱った「てっぺん野郎」もそうでした。慎太郎の祖父が明治の頃にいたという愛媛の寒村や、父親の赴任先の樺太にまで足をのばしての歴史的記述には、人間石原慎太郎を浮かび上がらせる強烈な説得性がありました。

ところで掛川の葬儀後の精進落としの席で、私の隣には大正7年生まれの91歳のもう一人の叔父(母の弟)が座りました。聞いてみると叔父は、海軍兵学校を出てシベリア鉄道でベルリンに行き、日本大使館の武官として戦時中3年にわたって滞在し、敗戦後は米国に連行されて捕虜生活を送ったという特異な経験をもつことを知らされました。そういえば祖母(私にとっては曾祖母)は俳優加藤剛の御前崎の実家から嫁してきていたのです。

我が家と我が日本の歴史がここに座っている。自分にはそう思えました。叔父に尋ねておかねばいけないことが山のようあるのではないか。佐野真一ならずも、徹底したヒアリングをして、きちっと記憶として残しておかねばならない歴史がここにあるのではないか。

叔父は耳が遠くなっており、会話にたどたどしいものがありました。ひょっとしたらひどく大切なことに自分は怠ってきたのかもしれない。そんな焦りと慙愧の思いのなかで、49日の折には、必ずやヒアリングを行なうこととを心に決めたものでした。

「甘粕正彦 乱心の荒野」は、かように図らずも、平成の葬儀の場で私の心を大いに乱させることになったのです。甘粕大尉も佐野真一も、何ともコワイ存在という外ありません。


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居心地の悪いモンスターペアレント

2009年01月05日 | Weblog

新春のふるさと渥美の花街道風景 (1月1日本人撮影)

今回のブログは、シリーズものとして私が連載を続けている、月刊「地方財務」(ぎょうせい)1月号の「もうひとつの団塊世代論」の原稿です。いささか新春にはふさわしくない内容ですが、ともあれお読みください。

居心地の悪いモンスターペアレント・・・戦後民主主義の光と影と

目に余る孫(まご)子の動向
昨今テレビドラマで放映されたからでもあるまいが、今日もある自治体の知人に会うと、改めてこんな親たちの言動が話題となっていると教えられた。
「会社に遅れそうなので、オムツの交換は保育所でやってほしい」
「子どもと親の私の分、保育所で朝食を用意してもらいたい」
「来週は家族で軽井沢にいくので、運動会の日程を変更してほしい」
 言わずと知れた、モンスターペアレントのなげかわしい行動である。しゃべるだに憤慨する知人の顔つきとは別に、こうした話を耳にするたびに別の痛みが当方の胸を走るといわなくてはならない。かような若い親世代を発生させたのは自分たち年配層、とりわけ戦後民主主義の申し子として個性尊重、個人尊重の風潮を金科玉条としてきた団塊世代に起因するのではと思うからなのである。
 団塊世代の子どもたちは、全国で200万人といわれる。現在、ちょうど25歳~40歳までの年齢層の大半を占める。すなわち子育ての一番の当事者である。その当事者層のなかから、何とも身勝手なモンスターペアレントが生まれたのだ。
「こんな女に誰がした♪」。戦後、流行した哀歌「星の流れに」(作詞清水みのる)の一節である。敗戦で身一つとなった子女が、身体をひさぐ悲哀を唄ったもの。あのやるせなさと同質の思いを、戦後60年経った今日の社会風景の中に感ぜずにはおれないというものだ。

指弾されていた団塊世代の子育て
 そういえば、この1、2年前に団塊論ブームが流行っていたとき、50歳代前後の後続世代から激しい指弾を浴びていたことを思い出す。
由紀草一(「団塊の世代とは何だったか」)は団塊の世代を称して「過剰意味付け、リーダーシップなし、責任を取らない、被害者意識ばかり」と難じていた。三浦展(「団塊世代の戦後史」)は「自由放任という名の放ったらかしがフリーターを生んだ」と厳しく、また金子勝(「月光仮面の経済学」)は「団塊の世代が悪い。バブルを謳歌し、90年代にポストの独占とフリーターの大量発生をもたらした」とひときわ声を大にした。あげくに林信吾(「昔、革命的だったお父さんたちへ」)は「「亡国の世代、やりにげの世代」、そう呼ばれて消えていくのか!」と追い打ちを掛けていた。
 幸か不幸か昨今、年金や医療保険が大幅に圧縮されつつあり、団塊世代は「食い逃げ世代」との批判に該らなくなってきているようだ。しかし、子育てや教育観など社会倫理観の喪失の責任については、改めて彼らの指摘にウーンと頷いてしまう。いまの時代の子育ての混乱を招来した責任の一端は、やはり戦後民主主義の申し子とされる団塊世代にあると思えるからだ。

やはりどこか誤っていた団塊世代
それにしても今も忘れはしない風景がある。昭和20年代の後半に小学校に入って、まわりが実に生き生きしていたことだ。それは、苦い敗戦の後に来た米国式民主主義への期待感、あるいは平和憲法への憧憬が充満していたからに違いない。戦前が暗黒で不自由な時代であったこと、これからの未来が無限に明るい時代になることを、私たちは全身に教えられ育ってきた。平和と平等と個人主義のきらびやかさ。やがてどっぷりとその思想に浸り、権利を主張するようになった。
 しかし何事であれ、光のあたる部分があれば、影をなす部分がある。しかしその権利至上主義となりかねない戦後民主主義の、影の部分を振り返ることなく、団塊世代は大学紛争を広げ、そして就職していったのである。その後バブル期に中堅となった団塊世代はひたすら仕事を楽しみ、果たして定年までの30有余年の間、戦後と自らの歩みを顧みることなく今日に至った。そして気がつけば、わが子たちがモンスターペアレントとなっていたのである。この皮肉な因果に戸惑っているのが今日の大半の団塊世代の心情ではないだろうか。
それだけに私たちはモンスターペアレントとなった孫(まご)子の行動に居心地の悪さを感じないわけにはいかないのだ。そんな感覚は団塊世代に特有の「思い上がり」であり、「加害妄想」だと笑う人がいるかも知れない。しかしこの戦後民主主義の光と影を整理することは、「(団塊世代は)亡国の世代」と難じられないためにも行うべき、残された作業であるように思うのだがいかがだろうか。


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謹んで新春のお慶びを申し上げます

2009年01月01日 | Weblog

「敦盛と直実」 (須磨寺にて本人撮影)

以下の文面をしたため、新年の賀状といたしました。皆さま方にも、ご挨拶かたがたお目とおしいただければと思います。今年もよろしくおつきあい下さい。

謹んで新春のお慶びを申し上げます


昨秋、神戸での学会の帰途に須磨寺を訪ねる機会を得ました。一の谷の戦さの悲話で知られる平敦盛の青葉の笛を、この目で見たいと訪れたものです。現物は保存が悪く、痛々しい姿でした。しかし祖父十文字が横笛をたしなみ、名曲“青葉の笛”をよく奏でていただけに懐かしく、感慨はひとしおのものがありました。

人は加齢とともに不思議と“血”というものを意識し始めるようです。果して思い立ったのが、この笛好きの祖父の地域振興に尽くした姿を軸に、明治から昭和初期のふるさと渥美の行政の歴史をたどり、小冊として残す作業への着手でした。先祖とふるさとへ供養をしてみたい。そんな気負いを持ちながら、この一年は過ごしたいと思う丑年新春の朝なのです。

平成21年 元旦                      

嶋津隆文          


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