嶋津隆文オフィシャルブログ

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時が過ぎていくということ・・国立新市政の昨今に想う

2007年12月29日 | Weblog

一年が過ぎようとしています。時間はいろいろなことを忘れさせます。それは人々が生活する上できっと良い知恵でしょう。それにしても、愉しみもさることながら、怒りや憎悪も持続することはなかなか難しいものです。

何年か前、イスラエルは死海のほとりにあるマサダの砦を訪れたことがあります。ユダヤ王国がローマ軍によって滅ぼされ、それ以後ユダヤ人たちは世界の各地に散っていくことになった歴史的な場所です。紀元前73年のことです。

そのことを一緒に説明してくれたユダヤ人の友人ナンシー・リー女史は、しかし単なる説明者ではありませんでした。そのマサダの滅亡がいかに民族にとって悔しいものであったか、自分たちにとって辛い事件であったか、涙を浮かべて語るのです。2000年前は歴史ではなく、彼女たちにとってはほんの昨日の出来事なのです。

時空を超えて怒りや憎悪を持続するエネルギーに大いに驚きつつも、他方で民族独特の「しつこさ」に少々辟易したものでした。こうした性向は日本人にはないようです。しかし忘れないという作業も時には必要ではないでしょうか。

春の国立市長選から8ヶ月。既に過去のものになってきているような気がします。しかしこうして年の瀬を迎える昨今となれば、やはりケジメとして記しておかねばならないことが一つ二つあると考えています。それは、昨今の国立の政治動向と保革それぞれの問題点です。

国立の町は、久しいこと大きく偏ってきていました。まちづくりはしない、国旗には背を向けるといった姿勢を重ね、そうした革新の思想至上主義の中で、駅周辺整備も学校教育も混乱を招きました。新市長は4月の選挙後、前上原市長路線を継ぐとしながら思想至上主義を踏襲せず、一定のまちづくりも進める現実路線を選択したように見えます。国旗掲揚も認めました。そんななかで保守系会派では、様子見という穏やかな姿勢をとり始めています。この事態から、何を掴みとることが出来るのでしょう。

まず革新内部ですが、このまま無風でいくことはありえないと予想されることです。例えばまちづくりです。富士見通りのマンション建設で住民は9階以下にすることを求めました。駅周辺の例えば公共駐車場の跡地利用に、現在の高さ以上の建物は建てさせないとの意見もあります。しかし図書館や保育施設にはスペースが要ります。建設資金には高層化が避けられません。まちづくりで、どこで折り合いをつけるのか、3-4-10号のガード下道路でさえ不要という議員を抱える革新内部の意見調整は困難なのです。対立の顕在化、すなわち支持基盤の脆弱化は不可避です。

他方で保守の姿勢は、一見大人びて見えるものの、無気力の感が否定できないことです。発言がコロコロ変わり、そのことに痛痒を感じない市長には攻めあぐねてしまう。それなりにまちづくりに前向きではないか。そうした曖昧なスタンスのなかで矛を収めているといいます。しかし座して時間を過ごすのは危険です。少なくとも常に言質をとっておくことをしなくてはいけません。「言葉が風船のように軽い」一介の市長であれ、言葉は政治家の生命のはずだからです。

要は保守系の今日の曖昧さは、政権をとるというハッキリとした姿勢と戦略を持たないところに起因するように思えるのです。国立の町を偏らせている市政を変える。そのために革新市長の攻略の視点を長期的に、しかも個人でなく組織としてつくっていくこと。そうしたことが必要なのです。散発的な質問や様子見の姿勢の中からは、この国立での政権交代は困難でしょう。

怒りを持続することは大変です。しかしコト政治に関する限り、正当な怒りはどこまでも持続すべきではないでしょうか。

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今日の学校をダメにしたのは団塊世代ではないか

2007年12月16日 | Weblog

昨日、一冊の本が送られてきました。大学のサークルの先輩である作家石井竜生さんからのものでした。『先生の集団逃亡が始まった』(清流出版 1900)。オール読物新人賞を学生の頃に受賞した先輩は、その後都内の公立学校の用務員として過ごし、公教育の現場を目の当たりに見つめてきた人です。 

都の教育委員会が平成17年度に予測していた公立小学校の退職予定者が1000人程度。しかし実際に退職したのは5割も多い1560人。この内の890人が60歳前の勧奨退職者であり、しかも校長の早期退職が24人もいたことに仰天したというのです。こうした教育界のひどい内部崩壊の実態が、先輩をしてこの著書の執筆に走らせた動機でした。

イチャモン親、モンスター親といわれるトンデモナイ親子たちの存在は夙に指摘されてきているところです。そういえば国立にもそんな親が多くいると、最近会った教頭さんがため息をついておりました。暴れる子供を注意すると、その親が怒鳴り込んでくるのです。

他方で、とち狂った獣のような無法・非道の連中に、教師はそれを押しのける知力と気力をもたず、なすすべもなく背を向けてしまうのです。その結果が、今日の集団退職に追い込まれている事態を招いているのではないか。そう石井先輩はいうのです。

しかし考えてもみれば、そうした若い親の大半を育てたのは、われわれ団塊の世代ではなかったでしょうか。風が吹けば桶屋が儲かるの例えではありませんが、「ダメな小学生→問題はその小学生を育てたダメな若い親→さらに問題はそのダメな若い親を育てた親=団塊の世代」という世代間の教育の連鎖があるのではないでしょうか。それは否定できない気がします。

団塊の世代は、戦後の新憲法と新教育基本法のもとに、個人の権利と無限の自由を至上のものとして教育されてきました。痛々しい戦争の直後であっただけに、反国家、反権力の風潮は社会の摂理であるかのような風潮がありました。確かに、極めて開放的な雰囲気の中で、われわれ団塊世代の多くは成長してきたように記憶します。それだけに団塊の世代は、戦後民主主義の象徴と言ってもよいでしょう。

しかしその戦後民主主義の輝いていた「権利」あるいは「自由」といったものが、いつの頃から変質して「我儘」あるいは「放縦」と同義になり、「公(世間様)の否定・軽視」という事態を生んだといえるのです。それを助長したのが、団塊世代の戦後民主主義ファンダメンタリズム(原理主義)ではないかと思うのです。

卒業式に日の丸を立てようとした校長を、謝れと土下座させた小学生たちの国立2小事件というものが数年前にありました。「職員会議で決まったことを否定する権利が校長先生にはあるのか」と詰め寄った小学6年生。その小学生をそそのかした組合の教員たち。その教員の多くは、紛れもなく団塊の世代でした。

いやもっといえば、東京都の公立学校の弊害を生んでいるのが教員組合であり、その活動家の多くが団塊世代なのです。あと数年もすれば、公教育の現場は穏やかになる。そう期待する都の教育委員会のメンバーは少なくありません。団塊の世代が職場から確実にいなくなるからというのです。

いやいや、耳が痛いことです。しかし他人様からあれこれ言われる前に、私たち団塊世代は自らの中で、ちょっと振り返ってみることが必要ではないでしょうか。おりしも退職期です。ゆっくりと戦後の日本と自らの歩みを省みて、どこでどう曲がってしまったのか「総括」し、それに見合った「オトシマエ」をつけるべき季節に来ていると思うのですがいかがでしょうか。

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嚶鳴社(おうめいしゃ)になるか、「くにたち研究会」

2007年12月07日 | Weblog

「くにたち政治経済研究会」ができてちょうど半年となりました。春の地方選挙の国立での混乱を目の当たりにして、このままの街ではいけないと、青年会議所や商工会の若手メンバーが軸となって発足した勉強会です。この間、国立駅周辺の街づくりの停滞、国立の教育問題、改善されない市財政といったテーマで、月一回のペースでもたれてきました。

その研究会の忘年会が、昨夜ありました。次々に発言する20数人のメンバーの言葉を耳にしながら改めて納得することは、彼らが前向きで、しかも大変柔軟な姿勢をもっているということでした。すみよいまちづくりを進めるため、より多くの知識を吸収したい、そのためには政治的な保革など問わず広く講師としても呼びたいという積極さと心広さがあったのです。それは何とも新鮮なものでした。

幕末の長州藩に周布政之助(すふまさのすけ)という人物がいます。富国強兵を目標に藩政改革を推進した村田清風の跡を継ぎ、革新的政治家として藩内外の志士を指導し、難局に対処した男です。蛤御門の変のあと自刃しますが、注目すべきは、彼が萩の仲間で嚶鳴社というグループを発足させたことです。

この結社が、幕末の回天をもたらし大きなコアになっていきました。メンバーには桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、志道聞多(井上馨)、伊藤博文らといった萩藩の多くの若手が集い、やがて尊王攘夷派、倒幕派となって長州と日本を変えていくことになるのです。

嚶鳴とは鳥が仲間を求めて鳴き交うという意味で、志(こころざし)を同じくする者たちが、国の未来を大いに語り合おうといったところから名づけられました。しかしその勉強会は、語り合うだけでなく実践として実を結び、明治維新への流れをつくる改革のエネルギーとなっていったのです。

昨夜の忘年会で代表の一人が、この硬直した国立の街を変えていくには「青臭く、泥臭くやっていくしかない」と決意を述べていました。地味な研究会が、しかし確実に地域を変えていくに違いないことを予感させる言葉ではなかったかと感じ入ったものです。

まさに「くにたち政治経済研究会」は、この国立のまちの嚶鳴社になるのではないか。そう期待感を膨らませるものであり、若手がくり出していった2次会には参加しなかったものの、心楽しく、ひとり鼻歌まじりに夜道の帰宅を急いだ次第です。

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人生の「林住期」をどう過ごすかということ

2007年12月05日 | Weblog

突然に「林住期」をどう過ごすかなどと、大上段に構えたことを口にしてしまったのは外でもありません。私のもっとも尊敬した職場の先輩・下河原忠夫氏の命日であった昨晩、市ヶ谷の霊前にお焼香をあげに行き、写真とは言いながら久方ぶりに先輩に対面したからなのです。

インド(ヒンズー教)では人生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」に4分しています。生まれてから、師について学ぶ時期、家庭をもって子供を育てる時期、俗世に関わりつつも森に隠遁する時期、そして俗世を離れ巡礼をする時期というものです。定年後はまさに、林住期にあたるというべきでしょう。

その定年後の時期に、尊敬していた下河原先輩は著作の執筆と次世代の育成の作業に全力を傾けて過ごしました。何と20年近く前に、行政における情報公開の重要性に着眼し、各国の情報公開制度の解説を含めた大著(A4 440ページ)を書き上げました。のみならず、自宅と数百万円の資金を提供し、若い後輩たちの、地方自治研究のための私塾(シンクタンク)を運営したのです。それも、長いこと病身を忍ながらのことなのです。

昨今、私は長州の幕末の経世家・村田清風の伝記をとりまとめています。激しい反発の中、財政困窮の長州藩の財政改革をなした清風。彼は、第一線を退いた60歳の頃からふるさと三隅に帰ります。そして、それからの余生を、溢れんばかりの勢いでもって憂国の著と政経の著を書き記すことに費やすのです。

そればかりではありません。私塾・尊聖堂を開き、多くの近隣の子弟を集めて人材教育に残りの人生のエネルギーを注いで逝ったのです。山県大華は清風の私塾による三隅の地の、勉学の気運の高まりを見て、「上卿大夫より下衆庶子弟に到る迄 文を学び武を習わざるはなし」と称賛させたほどです。そこに回天維新の兆しがあったのです。

志(こころざし)ある人たちは、どうしてこれほどに似かよった人生を歩むものなのでしょう。翻ってわれとわが身を思うとき、既に「林住期」の足の掛かった時期に到りながら、この身の置きどころのなさには何とも戸惑うばかりなのです。せめて人生は90年時代になったと称して、未だ「林住期」に届いていないと呟くことで、今しばらくの心の準備時間を求める昨今といってよいようです。

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