嶋津隆文オフィシャルブログ

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やっと動き出す「国立駅周辺まちづくり計画」・・忘れてはならないこと、それは財源と情報公開

2007年08月29日 | Weblog

 来9月の市議会に「国立駅周辺まちづくり基本計画」の策定委託費が予算計上されることになりました。

来年3月までに議会報告したいとのことです。事実上は3~4ヶ月程度での超特急の作業となりましょう。南北道路の道路と広場の整備、南口公共施設用地の活用策、三角駅舎の復元など、どれひとつをとっても極めて困難な問題を抱えています。その困難さには二つあります。

第1は財源の確保という難題であり、第2は市民合意の難しさです。そういう点で、新市長がこの作業に、しかも期限を設けて手をつけようとすることは、評価してよいものと思います。

ちなみに前の上原市長が、幾度も市民提案を受けつつ計画策定を8年間逃げ続けたのは、この難題に巻き込まれて収拾がつかなくなり、自分のクリーンイメージが崩れていくことを避けたからだといわれます。この難題の大プロジェクトをわずか数ヶ月でこなさなくてはならないハメになったことを、新市長は誰に愚痴ればいいと考えているか聞きたいものです。


 さてこの基本計画のポイントは、駅周辺のポンチ絵を気楽に描くことではありません。それはもう、例の「森の駅」構想となって出ているのです。市民提案という形で市税を使い平成12年に「駅周辺プラン報告書」、16年に「駅周辺まちづくりに関する提案書」等で革新サイドの案として出されているのです。

しかし市が計画策定をするには、実現化できる財政面での裏づけが必要です。この財政スキームを示すということが第1のポイントです。とくに南口公共施設用地活用の財源確保(100億円近いともいわれる)に民間活力をどう使うのか、三角屋根の敷地の財源確保(20~30億円ともいわれる)にJRや東京都をどう説得するのか、それとも市単独やるのか、一番大事なおカネを明示することが不可欠だと考えます。それが市民議論の前提となる、本来の情報の公開というものだからです。


ところで、例えば東京都は三角屋根の曳き家騒動に関し、国立市に極めて強い不信感をもっています。一昨年夏に曳き家でやるので都から6000万円が欲しい、年が明けると上原市長は都に行き曳き家はもう止めます、5月になると都に報告せず曳き家案を議会提案するといった迷走を演じたのです。

JRでも同様です。遠くから吠えるだけで用地確保に関するまともなトップ交渉は一度も行っていないのです。普通、首長に交渉ごとが出来る能力がなければ部長たちが内々に進めるものです。それさえ革新・国立市は行わず、今日の都、JR、周辺自治体からの不信の構造を招いたのです。新市長の辛さは、この負の遺産をどこまで克服し財源確保のめどをつけられるかということです。

 もう一つのポイントは、市民合意です。国立駅周辺に散乱する放置自転車を吸収するにはスペースが要ります。駅に保育所が欲しいと言う親たちの要望もあります。市民の憩える施設のつくれとの声もあります。南口公共施設用地はそのための恰好の場所です。

しかしこうした幾つもの要望を受け止めるためには少ない容積のビルでは吸収できません。もし高いビルを建てるとすれば激しく反対する市民は少なくないでしょう。では何階までとするのか。あるいは三角屋根用地の財源を、このビルと切り離すとしたらどこで捻出するのか。
そういう点で、より丁寧で明確な計画案を示すことが求められます。利害の対立する層の複雑に入り組む国立の市民に、分かり易い情報(資料)の提供をすることが必要となるのです。これが第2のポイントです。

口先だけでない、都合のいい市民グループだけでない、本来の市民参加と市民合意というものが得られるか否か、厳しく問われることになります。それだけに、たたき台となるべき計画案は、何よりも曖昧なものであってはなりません。真の情報公開をしなくてはいけません。もちろんそれは、真摯に市民に問いかける、首長としての技量が問われることになるというものです。

 昨日までとはうって変わり、今日は朝からおやっとするような秋気が流れてきました。この秋の訪れを爽やかに受け止められるか、肌寒いと受け止めるのか、国立の新市政の力量が明らかになる季節が9月議会とともに始まるといえましょう。それにしてもコトここにまで至って、数字(財政)ヌキの計画案を出して市民を愚弄することのなきよう、くれぐれも強く釘をさしておくこととします。

財政の裏づけのない計画づくりであれば、発注する意味は全くありません。それにしてもここ数年、2度も3度も事実上発注して基礎資料が山ほどあるこの計画づくりに、850万円の予算計上というにはもうひとつの論議が必要ともいえましょう。

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「よそもの」という残酷な関所

2007年08月26日 | Weblog

蝉の声も微妙に秋の音色に変わってきました。暑い夏もやっとこれで終わるかなと思うのは、単なる期待感というものでしょうか。


昨夜は3回目の「くにたち政治経済研究会」があり、テーマが教育問題ということもあって自転車で駆けつけました。パネリストは重野和夫元教育委員長、松嶋寿延市議、国立一中PTAの小山信子会長の3人です。

文教都市国立というブランド地名と裏腹の、偏った教育風土の事例を説明され、改めて国立という街の特異性の根深さを味わいました。

国旗を立てた校長を土下座させた子供たちと父兄、教員。教室を組合活動の部屋として久しく占拠していた教員たち。その先生たちを断固守ると宣言したP連会長。ベルマークを集めようと提案したら企業を支援するものだからと否定した同じくP連の親たち。
地域ぐるみで子どもたちの防犯をとの親の呼びかけに、戦時中の国防婦人会だと水をかけた前女性市長。その結果が不登校児も多く、公立でなく私立の学校に入れようとする親の志向を生んだのではないか。

溢れ出すように並べられるいびつな事例に言葉を失いました。同じ「市民参加」や「民主教育」が語られながら、国立市のそれと他の自治体の意味合いとは明らかに異なることに気づかされます。
“プロ市民”といわれる国立の街に独特なグループの存在を、私たちは侮ってはいけないのです。


そんななか、新しい教育委員2人の9月市議会での承認の打診が市長から行われていると聞きました。
一人は公民館関係者で、もう一人は大学教師。国立の偏った教育風土を立て直せるバランスある人たちであるか十分論議して欲しいものです。
それはともあれ、この二人が国分寺市と横浜市の在住であることには目が行かざるを得ません。

何故なら先の市長選の際、対立する私への一番強いネガティブキャンペーンが「国分寺から来た『よそもの』に国立は任せられない!」というものであったからです。「よそもの」は関所で止める。国立には入れさせない。流動性を属性とするこの都市社会の中で何というアナクロニズムであることかと驚いたものでした。しかしその舌の根の乾かないうちに今回「よそもの」二人を推挙してきたのです。天に向かって唾を吐いた事態になったという外ありません。

もちろん「よそもの」だからということを理由に反対することは適切ではありません。しかし少なくとも、先の悪意に満ちた選挙キャンペーンが「ためにするもの」であり、今回の提案にあたっては、その経緯の「説明」と「陳謝」が審議の最低の前提条件であると考えます。議会もこれを曖昧にすることがあっては信頼を失います。


今夜は『蝉しぐれ』がテレビで放映されるようです。理不尽な理由の下で主人が割腹させられた一族の無念を扱った藤沢周平の名作です。夏が過ぎようとしているとはいえ、国立の街には心ある「蝉しぐれ」が響いて欲しいと思わずにはおれません。

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数値のない行政の無責任さ

2007年08月05日 | Weblog

梅雨明けの暑い中で季刊『観光』(日本観光協会)の編集をしながら、先般6月に閣議決定された「観光立国推進基本計画」を検証する機会を得ました。何よりも納得したのは、その計画に5つの基本目標が明示されていることでした。

1 訪日外国人旅行者を平成22年までに1000万人にする。
2 我が国の国際会議開催数を平成23年までに5割増やす。
3 国内観光での宿泊数を平成22年までにもう一泊増やし年間4泊とする。
4 日本人の海外旅行者数を平成22年までに2000万人とする。
5 国内での観光旅行消費額を平成22年度までに30兆円とする。

いつまでに、何を、どこまでやるか。観光行政の目標を、国土交通省はしっかりと数字を挙げて国会と国民に提示していたのです。行政担当者にとって、具体的な数値目標を上げることはシンドイものです。もし達成できなければ責任を追及されるからです。しかし国土交通省ははっきりと目標を明示し、自分たちの決意の程を提示しているのです。いや国交省だけではありません。いずれの自治体の長もその責任を明示するべく計画的な行政指針を公表するものなのです。

ふり返って我が国立市の、同じ6月の市議会での新市長による施政方針を聞いて驚きました。その長い方針の中で、なんと数字で規定された施策は皆無なのです。全国的にみても大変稀有な施政方針といえましょう。近々JRの新駅完成が予定されている国立駅周辺整備の全体計画を公式にいつ策定するのか。遅れている南部のまちづくりをいつまでに、どんな形で手をつけるのか。ピンチ宣言を出したままになっている財政改革をどんな形でいつまでにやるのか。触れられてはいないのです。なるほど平和、環境、福祉、教育、まちづくり、財政と課題は挙げ連ねられていました。しかし時間軸の設定と数値目標というものがどの分野にもないのです。

こんな楽な市政運営はありません。これではまちづくりが遅れようが財政改革が手付かずになろうが、責任の追及を免れていくからです。期限が限られるからこそ、職員は必死になるのです。市民は取り組みを監視できるのです。しかし財政改革に関する市議会の質問で新市長は、「財政ピンチの撤回は4年後になるか、8年後になるか、もっとかかるか分からない」と軽く応えていました。時間を軽視した行政運営は、行政コストすなわち市民の血税を軽視した行政運営であり、まさに市民への冒涜というほかありません。

そもそも行政計画を明確にしていくことは行政の基本です。それが何よりも一番大事な情報公開というものです。その基本となる営みを放棄して、市民参加も民主主義もありません。7月末に出席した「くにたち政治経済研究会」(政経研)でも、この新市政の無責任な姿勢が若い人たちから強く指弾されていました。当然の疑問と怒りといってよいのです。

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