写真:「異臭の充満する女川町の一風景」本人撮影
6月24日(金)から3日間、石巻、女川、福島を訪れました。中小機構のメンバーによる被災地の調査に同行したものです。
3カ月以上たったこともあり、現地もそれなりに落ち着き始めているに違いない。そんな予想が、いかに外部の人間の身勝手なものであることを思い知らされました。どこから手をつけてよいか分からない瓦礫の山。塩害で真っ赤になり始めた木々、気が遠くなるほど強烈な腐敗臭。事態は形を変えてむしろ深刻になっていたのです。
地元の人たちは憤っていました。まちの再建や家の再築をしたくとも、防波堤の高さなどといった基本的な基準を国が決めない。避難している老人たちは、通帳におカネ(義援金)が記入されるだけで安心できるのに、まだ支払いはない。
ハエの飛び交う避難所の体育館の中で、力なく無表情に天井を見る幾つものまなざしを目の当たりにした時、ほとんど棄民に近い事態を生んでいる政府の責任というものを強烈に意識させられたものでした。
こんな話も聞きました。今次の東北の被害は、人災という点で戊辰戦争以来のものである。とくに福島原発に対する政府の混乱と姿勢はひどく、人災そのものではないかと。
戊辰戦争に負けた会津藩に対し、新政府(特に長州)は挙藩流罪として17000人もの会津(福島)人を下北半島に強制移住させ、多くの命を失わせました。徹底して抵抗した会津を極端に嫌悪したからです。
現政権が、東北の被災地に真剣に取り組まないのも、こうした歴史と無関係ではないのではないか。被災地には疑心暗鬼があるというのです。確かに菅直人なる首相は、紛れもなく長州出身。無策の国政が、かように100年の時空を超えての憎悪心まで呼び起こしているとしたら、「最小不幸の社会」などでなく、明らかに「最大不幸の社会」になっているという他ありません。