嶋津隆文オフィシャルブログ

嶋津隆文オフィシャルブログ

M.ウェーバーと上原前市長と市会議員と

2008年08月24日 | Weblog

「国立市の話しは程々にしてほしい。読んでいると気持ちがクラクなるじゃあないですか」。時おりブログに、そんなクレームもある国立の一件ですが(笑)、しかし今日はやはり直接傍聴した立場からきちっと書きとめなくてはいけないと思っています。

8月22日に明和マンション訴訟に関する国立市議会の、調査特別委員会がもたれました。石原一子補助参加人らが勝手に最高裁へ上告したといわれていたことが、実は上原公子市長が委任状依頼をするなど、事前に共謀していたことが前回判明しました。その驚きの経緯をふまえ、結果的に遅延利息金など3124万円を市が支払うことになった責任問題が争点の委員会です。当の上原前市長が呼び出されました。

ここでは幾つもの問題点の中から、特に2つ取り上げます。一つは関係者に「政治は結果責任」という視点が著しく欠落していること、二つは市議会と首長という地方自治の二元主義が崩落させられているということの2点です。

ワイマール憲法を起草したM・ウェーバーは、「政治は結果責任である」と指摘しています。この3月の最高裁で国立市の敗訴が確定したとき、前市長は「国立市と市民におわびいたします」という文書を議会に出しました。ところが、22日の答弁では、「あれはいわば脅迫されてやったこと、市民に謝るつもりなどありません」という発言でした。会場にはどよめきが走りました。

敗訴し、市民に多くの巨額の賠償金負担をかける一方、電気やガスを止めると明和マンションの住民を脅かし続けた行為の責任をいささかも感じてはいないということです。裁判所の判決は、上原市長の不法行為性を具体的に認定しています。また最高裁への上告は遅延金を膨張させているのです。その結果としての賠償金と遅延金の支払いは、政治家であろうとした者のせめてもの責任と考えるのが、ウェーバーならずとも世の理というものでしょう。

二つ目の大きな問題は、市議会が上告を否決していたにも関わらず、補助参加人が上告できるという条文を奇貨として上告につき進んだことです。「市民が上告してくれるというのは、(労力として)大変なことです」。これが議会の決定を無視し補助参加人と連動した上原市長の理由です。仲間の市民運動家5人の行為を、国立市議会の全体の意思より優先させるというものです。

憲法92条を常に枕詞として唱えていた前市長。その人物が、憲法での地方自治の基本たる、議会と首長のチェック&バランス規定を堂々と崩すという選択を行ったのです。にも拘らず上原前市長は、「上告の取り下げを改めて決議しない議会にこそ責任がある」と答弁で叫びました。会場は、一瞬茫然としました。既に市議会は市長の上告案を本会議で否決しているのに、何を責任転嫁をするのかという驚きと反発です。

それにしても傍聴していてもう一つ感じたことは、多くの議員諸兄の発言がとかく散漫な様でした。ここまで市議会の存在を愚弄されながら、ここまで市民が負担を強いられながら、ここまで無責任さを開き直られながら、なぜ前市長の強弁に振り回されるのかと思ったものです。国立という市の議会の、組織的な努力不足をつくづく感じないわけにはいきません。地方自治が危ういのです。

そんな苦さを抱きながら翌日の土曜日は、群馬県の日航事故の上野村「慰霊の園」へ向かいました。そして一度は訪れねばとしていた、この事故に村を挙げて挺身した黒澤丈夫前村長を表敬訪問しました。評判どおりの信念の人であり、村人ならず他者への貢献も怠らない首長としての、気迫ある話しに感動を覚えたものです。それだけに、他市からの転居さえ拒もうとした排他的な国立の為政者には、ぜひ聞かせたい言葉だと感じた次第でした。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“私もあなたの数多くの作品の一つです”

2008年08月21日 | Weblog

朝夕に思わぬ涼しさを感じるようなった昨日今日、そのせいか、タモリの8月7日に行った、赤塚不二夫の葬儀での弔辞の一節をすがすがしく思い出しています。
「赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の一つです。合掌。」

ホンモノの人たちの一言は、時に感動を与えるものです。自分のもつ思いをどう言葉として表わすか、それが感謝であれ哀悼であれ、人はあれこれと悩むもの。言葉だけで飾ろうと思うと、どうしようもなく軽薄な感じとなることは、多くの人は常に味わっていることでしょう。しかしタモリの弔辞の言葉は、恩人赤塚不二夫への深い感謝の思いを、まさに芸人という表現者の才を通じて、心から発せられている形で表明していました。

ホンモノの人たちの一言。何とも感動的なものです。そういえば、宮崎駿の言葉にも何とも深いものがあったと、以前ジブリの美術館のオープニングの時、家人とともに館内を案内してもらった時のことを思い出しました。
「“猫バス”はどこまでも柔らかくなくてはいけません。」

それはこういうことです。以前東京都は多摩モノレールを開設するにあたって、車体全体を包むデザインとしてアニメ「となりのトトロ」のキャラクターである“猫バス”を使用しようと考えました。そこで、宮崎監督のオフィスにお願いに行ったのです。しかし返事ははっきりと“NO”でした。

「先生、その節は同僚たちがご無理なお願いに上がり、お手数をおかけしました。」
そう、申し上げると、宮崎監督はこう返事をしたのです。
「“猫バス”はどこまでも柔らかくなくてはいけません。金属製の車体では、どう工夫しても、その柔らかさのイメージを維持することはできないでしょう。子供たちは、“猫バス”に限りない柔らかさを期待しているのです。」

そういえば当時、宮崎監督に直接接触した同僚が、使用の申込みを断られたにもかかわらず、監督の自らの作品に対する思い入れと責任の深さに、とても納得して帰路についたと興奮していたことを思い出しました。

秋風の雰囲気をふと感じるなかで、こんなすがすがしいエピソードを思い出しながら、原稿執筆に専念する昨今です。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

故郷の海浜に戦跡と「椰子の実」を探す

2008年08月14日 | Weblog

お盆の声を聞くと幾つになっても故郷に帰らねばと思うものです。しかも齢を加えるに従い、その思いは義務感でなく素直な自然の感情になっていくようです。それかどうか、この8月に入って既に2度ほど愛知県の伊良湖岬に帰郷しました。直接的には、祖父の社会活動を記録にとどめる作業をしようと思い立ち、菩提寺や市の資料の調査に入り始めたためでした。

その作業もあって、子どものころには凡そ気づかなかった歴史的事柄を幾つも知り、冷房の効かない資料室の片隅で、興奮しながら資料をひもといたものでした。特にその中で、この渥美半島が米国との関係で大きな位置を占めていることを改めて知らされました。それはこういう事です。

一つは幕末です。ペルリの米国艦隊が実は渥美半島の沖にも姿を現していることです。江戸へ急報されるとともに、地元田原藩は急遽この地に砲台を設置し艦隊に対峙しているのです。田原藩の家老渡邉崋山が、幕府の海防方針を批判し安政の大獄で死を選ぶ何年か前の事件です。

もう一つは太平洋戦争の末期でのことです。大本営はこの渥美半島に米軍が上陸すると想定しました。名古屋の工業地帯と浜松の航空隊基地への攻撃に、この海岸線が利用されることを警戒したのです。そこで本土水際作戦の重要地点として、この地に砲台等を整備し戦闘員の増員配置を行っているのです。

そして三つめは朝鮮戦争時のことです。米軍は朝鮮で使用する大砲の射撃実験場として伊良湖岬を選定しようとしたのです。地元の反対運動でこれは阻止されました。その結果、米軍射撃場は石川県の内灘へ変更され、かの地で同様の激しい闘争が展開されたことは多くの人の記憶に残っていることでしょう。

島崎藤村の「椰子の実」で名高いこの伊良湖岬の海岸。しかしここは、旅情をかもし出す舞台として最右翼の地である一方、幾たびか他ならぬ米国との戦いの舞台ともなっているというのです。帰省していたこの数日、そんな歴史を複雑に思い併せながら、漂着する椰子の実を探して伊良湖の浜を散策したものでした。

さて、そのときの気持ちを少しでも知ってもらうため、“海の日の沈むを見れば たぎり落つ異郷の涙”と藤村のうたった伊良湖岬の、まさにその夕日の写真を今回掲載しておくことといたしましょう。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ふるさとは遠きにありて」を選んだ団塊世代(2)

2008年08月06日 | Weblog

 

「ふるさとは遠きにありて」を選んだ団塊世代(2)

(月刊「地方財務」(ぎょうせい)8月号・【シリーズ】もう一つの団塊世代論②より転載)

 (前号ブログ続き)

「帰りたいのに帰れない」背景は

第一の要因は、依然として続くムラの土着的な生活規範である。すっかり都会の合理的生活に慣れた人間にとって、故郷とは言えプライバシーのない生活には違和感をもつ。既に価値観を異にし始めた幼なじみ達の、過激な私生活介入劇に耐えられる人は少ない。

 第二は、のんびりライフと言われながら田舎ではヘンにカネの流れが大きいことだ。地元の旅行会、老人会、冠婚葬祭などの出費は月10万円だともいわれる。年金がまともに支払われるか不明になった老後生活で、団塊世代がUターンに二の足を踏み始めるのも頷ける。

第三は、親兄弟との相克である。老後の親を誰が面倒見るか。田舎に戻れば、曖昧にしてきた親の介護と兄弟姉妹での相続トラブルの種はすぐにでも顕在化する。団塊世代が帰郷に躊躇し、本格的に警戒し始めたとしても不思議はない。

そして第四のネックに妻たちの現実的な在都傾向がある。女性の多くは都会を離れたがらない。しまね定住財団の求職希望の性別比で男性83.3%で女性16.7%という大差が、何よりも男のロマン主義と女のリアリズムのギャップを浮かび上がらせている。

さらに地元では「Uターンで戻ってきても5~6年で65歳。すぐ手のかかる老人だ」との冷ややかな声もある。

ことほど左様の人生風景なのである。結論を言おう。地方行政にあって、団塊世代に期待をかけることは止めた方がよい。Uターンを考えるなら、むしろ若手の20代、30代に照準をあわせるのが効果的であり、正しい姿勢というべきなのである。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ふるさとは遠きにありて」を選んだ団塊世代(1)

2008年08月06日 | Weblog

 

「ふるさとは遠きにありて」を選んだ団塊世代(1)

(月刊「地方財務」(ぎょうせい)8月号・【シリーズ】もう一つの団塊世代論②より転載)

期待ふくらむUターンだったが

島根県は人口があと数年で70万人を切るといわれる。高齢者率も全国一高い。それだけに人口増加策はもっとも大切なテーマとなっている。それ故都会に出た大量の団塊世代の退職期を迎え、ふるさと島根へのUターンに大きな期待を抱いたとしても不思議はない。平成17年に島根県知事は県出身の団塊人2000人にアンケートとラブコールを行った。すると何と、「迷っている」人を含めUターンしてもよいと答えた人が25%の500人余に上ったのである。

ふるさと回帰のこうした気運は、島根に限らず各地の調査でも示された。国も当時、農水省が50代の42%が将来田舎暮らしを希望しているとの調査報告を出した。果して全国の各自治体は、一斉にUターン団塊世代の確保策に奔走し始めたのである。財政の厳しいなかで工面し、空き家活用や農業体験事業、団塊世代の起業支援や就職あっせん事業などに着手したのだ。

【Uターン希望アンケート・島根県】(平成17年7月実施)
・早急にUターンを考えている  44件   2.2%
・いずれUターンしたい    113件   5.7%
・定年後にはUターンしたい  127件   6.3%
・迷っている         221件   11.1%
・現在のところ考えていない 1342件   67.1%
・その他・不明        153件   7.7%

昨日と変わらず都会暮らしを選ぶ団塊

あれから3年。果たして島根県への団塊世代のUターンはどんな事態となったであろうか。先日、当の島根県(しまね定住財団)に聞いてみた。するとU、Iターンの求職登録者は576人。その内訳をみると、先のアンケート当時のイメージと著しく異なっていた。すなわち団塊の世代(59~61歳)はわずか4%前後と推測され、逆に20代、30代という若手の層が回帰希望の67.1%を占めたのである。

考えてもみれば、団塊世代のふるさとフィーバーには、自他ともに勝手な思い入れがあったようだ。いわく、これからの時代は都会より田舎のスローライフが好まれる。ふるさとは山も友も両手を広げて歓迎してくれる。老いた親も泣いて喜ぶ。物価も安い。全共闘世代には地域活動の可能性が無限だ。しかし現実はそうではなかった。「ふるさとは遠き」に置き、今まで通り都会暮らしを選択する外ない幾つもの要因が存在したのである。

【UIターン希望者の求職登録者数・しまね定住財団】(平成20年3月現在)
(年代別)10代       0人   0.0%
            20代    169人     29.3%
       30代    212人     36.8%
             40代      94人   16.3%
             50代      79人   13.7%
             60代以上  22人    3.8%
(性 別) 男性        480人  83.3%
             女性    96人  16.7%


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする