嶋津隆文オフィシャルブログ

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いつも3月30日が来ると苦く懐かしく思い出す歌

2015年03月31日 | Weblog

“フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
3月30日の日曜日 パリの朝に燃えた いのちひとつフランシーヌ”

今から半世紀前の1969年発売された、新谷のり子さんの反戦歌。当時の学生達なら誰もが無意識に口にしたものです。もちろん私もその一人でした。

明日の3月31日で田原市教育委員会の教育長の職を辞します。それだけのことですが、フランシーヌの歌がふと口端に登る昨日今日なのです。要するに別れが苦く、さびしいのでしょうか。

もっとも4月からは田原市博物館の特別顧問として、週の前半は田原で生活することとなります。同時に愛知大学の三遠南信州研究センター(地域政策学部)にも所属し、講座1コマと調査研究活動も行う予定です。

そして週の後半は、厚木の松蔭大学で「地域行政」と「都市経営」の講座2コマを担当する生活となります。毎週、東京と愛知を往復することとなり、それなりの慌しい日々に挑むことになるわけです。

年齢的にいつまでこうした生活が可能でしょうか。ある朝に燃えつきてしまうこともあって不思議ではないかな。そう無用心なことを呟く3月30日の朝というものです。


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高橋和巳『邪宗門』の杉浦明平への寄贈サイン本

2015年03月29日 | Weblog

ちょっとした、しかし大きな発見でした。

渥美図書館での「杉浦明平とスローライフ」をテーマにした先日の集いの帰り寄った杉浦明平寄贈図書。そこでふと手にした一冊は高橋和巳の名著『邪宗門』です。

すると何とその裏表紙に、高橋和巳の明平さん宛の寄贈サインが書かれているではありませんか。「大発見!」と思わず声を上げたものでした。大本教を素材にしたあの重厚な著者の高橋和巳が、郷土の杉浦明平に敬意を表してサイン本を送っていたのです(写真)。

それにしても高橋和巳が39歳で逝って今年で44年。京大で紛争時に学生側を支持して辞職。主著に『悲の器』『我が心は石にあらず』『憂鬱なる党派』。「苦悩教の始祖」と呼ばれながらも、その圧倒的な知性に、私を含め当時の多くの学生がまさに「うちにのめされた」ものでした。

はじめてみる高橋和巳の直筆は、大きく、きちっとした、まるで高校生のペン字教室のような筆跡であり、いかにも彼の生真面目さが表れているものと納得したものです。 

さていよいよこの3月末で教育長の職を辞し、大学の教員生活に戻ります。高橋和巳の直筆本の出会いは、そんな自分へのはなむけかな、と小さく歓んでみる次第です。


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雨の中、御前崎の中部電力浜岡原子力発電所を訪ねる

2015年03月23日 | Weblog

【中電HP】

先週末にFJK(NPOフォーラム自治研究)のメンバー10人と御前崎の中部電力浜岡原子力発電所を訪ねました。生憎の雨模様の中ではありましたが、中電広報課長らの4時間近い案内を受け、その後に意見交換の場を持ちました。

約50万坪の広大な敷地に1号機から5号機までが海岸にそって並びます。1号機、2号機は廃炉が決まっており、残り3つが原子力規制委員会などの審査を受けつつ再稼働を待っている現状です。

私たちが関心を持ったのは一つに再稼働に対する地元合意のあり方についてです。中電が安全協定を結ぶのが直接周辺の御前崎、牧之原、掛川、菊川の4市。さらに周辺の5市2町とも情報連絡会を設けています。そして静岡県が存在します。ではそのうちのどの自治体の同意が再稼働に不可欠なのでしょうか。

今月初め、九州の川内原発の再稼働には地元の県と市(薩摩川内市)の2つの地元自治体の合意でよいと鹿児島県知事は明言しました。物事の決めねばならない事態の下で、それは一つの判断と言ってよいようです。

とかく昨今は、こうした事態の場合、その合意の自治体(住民)を限りなく拡大する傾向にあるようです。対象を「無限」にしてしまうような、民主主義至上主義といった風潮はやはり問題とすべきでしょう。

そういえば浜岡の防波壁は東海地震の懸念から、福島第一事故の教訓で海抜12mとされました。しかし翌年には18mまで引き上げられ、最近になりもう4mアップされ、現在22 mの高さの工事を行っています。バベルの塔のように限りなく天空を目指すこととなります。

「想定外」という言葉の恐怖は確かに理屈を超えていきます。想定外の津波のための「無限」の壁の高さ。想定外の放射能の影響のための「無限」のエリア拡大。昨今の原発を巡る議論がしんどいのは、この絶望的な「無限」への無力感のせいでしょうか。

しかし風潮だけに翻弄されず、他人任せばかりにせず、客観的な数値などを把握し、自らの責任ではっきりと線引きをすることもこれからの地方自治体には必要となってきているといってよいのです。


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私のとっての杉浦明平さんをちょっとマジに語る

2015年03月18日 | Weblog

【田原市博物館ポスター】

杉浦明平((大正2年~平成13年)。渥美半島が生んだ作家であり戦後知性の一人です。この郷土の先人を語る集いが15日の日曜に渥美図書館でもたれました。参加者は60人ほどで立ち見が出る盛況でした。

テーマは「明平さんとスローライフ」。パネリストは同志社大の井口貢教授、別所興一前愛大教授、そして教育長の私の3人。そこで私はこんな話をしました。

「明平さんは近所の大存在。それだけに物心の付いた高校時代から渥美に稀有な知性(東大、作家)として憧憬の対象であった一方、地元の人々の欲望を容赦なく実名で描く人として強い反発も抱いたもの」。

「この反発が50年間も私のトラウマになった。30代後半に「どこで、どう暮らすか日本人」を執筆した時も、60代になって「伊良湖岬村長物語」や「成田の大地と渥美の空と」で渥美半島の近現代史を書いた時も、明平さんの攻撃姿勢とどう異ならせるか、常に大きな壁として意識させられた」。

「それにしても明平さんは基本的にはアグレッシブであり、「スローライフ」=田舎暮らし=好々爺の明平さんという田舎幻想に収斂するのは間違い。退屈を拒否し、生涯に及んで挑戦をし続けたのが杉浦明平ではないか」。

しかしこうしたちょっと気負った発言に、思わぬ反論がフロアから出たのです。「いえいえ違います」と口火を切ったのは明平さんの長女のミナさんです。「父は晩年、野菜作りをひたすら愉しんでいただけですよ」。

得てして人物評価というものは、その人の思い込みによって展開されるものかも知れません。しかし読者は作家の現実像は知りえないだけに、書かれたものだけで勝負されるのが宿命です。文は強いものでもあり、また怖いものでもあるのです。


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自然葬はやはり下火になってしまうもののようです

2015年03月09日 | Weblog

【赤羽根海岸】

渥美半島の太平洋側はサーフィンのメッカです。とくに赤羽根海岸は世界大会も開かれるスポット。その海岸で数年前に散骨の募集が行われたことがありました。故人を大海原の自然に帰そうとのニーズに応じようとしたようです。

しかしいつのまにかその散骨の募集がなくなりました。不思議に思っていた折、先日の東京でのセミナー「永代供養墓の選び方」で、その講師から最近の自然葬が下火になっている事情を知らされました。

たしかに「自然葬」という言葉自体の響きのよさで一時はイメージが一人歩きして、それなりのブームになっていったようです。「土に還る」「千の風に乗って」というイメージは大いに魅力的だったのでしょう。

しかし問題は当初から指摘されてもいました。
「自宅の庭に撒かれたとしたら、周辺住民の感情としては抵抗がある」。「海でも海水浴場や魚の養殖地付近に撒かれては困ります」。
そうした声は実は以前からもあったようです。

それがとくに経験を重ねるうちに、最近になって別の観点からも困惑が高まってきたというのです。「散骨してしまうともう骨は戻ってこず、将来手を合わせようと思い始めても、そうした処がない」、「業者に委託すると最低でも20万円くらいの費用がかかってしまう」などというものです。

死というものは、どうしても美しいイメージのままでは残らないようです。社会的にも肉体的にも、なかなかのやっかいものであるのです。


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教育長辞任は何故か、この2年の総括を問われて

2015年03月05日 | Weblog

【2月9日堀切小】

【3月2日議場】

市議会で教育長の職を3月で辞すことを表明しました。その理由と在職2年間の総括を市議会の代表質問で求められました。その答弁は以下です。

(問)「新教育委員会制度」がこの4月から始まる。これを機に残り6ヶ月を残して退任すると教育長は表明された。仕事をやり遂げての退任表明ではないように受け止めているが、教育長には教育長としての考えがあっての決断でしょう。そこで在任2年間の総括を伺う。

(答)私が任期を残して教育長の職を辞す理由を2つほど申し上げます。
ひとつは教育委員会の制度改革が行われ、この4月から新しい制度が始まることであります。他の自治体はいざ知らず、この改革は、首長と教育長との新たな関係構築を求める歴史的な改革と捉えており、そうであれば「新しい酒は新しい革袋に」との喩えに従うべきと私は考えました。

もうひとつはこの間進めてきた学校改革が一定の目途を得たということであります。岬3小学校の閉校式が行われ新設小への期待が語られました。田原市の27校の全体配置計画も提示いたしました。学校再編のレールは敷かれ、私の改革担当としての役割は果たしたものと考えます。また教育改革全体にわたる「緊急改革プラン」も昨年策定し、いま出せる改革の基本はその大半を方向づけたものと自負しております。

先般、商工会のある役員さんから、「教育長、嵐のように来て、嵐のように去っていくんだね」と言われました。それは何ともうれしい言葉でありました。一昨年来、学校統合に関し40回も50回も半島内を駆け巡って話合いの場を重ねてきました。そうした姿勢を評価いただいたものと率直に歓んでおります。

それにしても学校再編を進めるなかで実感したことは、子どもの減少は即ち地域の衰退であることが明確になってきたことです。いわばこの渥美半島には2つの国が生じているのです。人口が減る太平洋沿岸、そして渥美、野田といった地域と、人口が増えている田原の市街地周辺の地域の2つであります。この2つの国を真に1つの国として発展させていくこと、このことがこれからの田原の課題であろうと考えております。

…こう答弁した後、4月からは大学人として、渥美半島の歴史文化や観光資源の発掘と田原市の全国発信に尽力していきたい旨、申し上げました。


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