嶋津隆文オフィシャルブログ

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成田闘争「歴史館 の山本雄二郎コーナー訪問

2011年09月24日 | Weblog

写真:33年前、学生が乱入した管制塔(本人撮影)

台風一過の9月22日、成田空港に隣接する「成田空港 空と大地の歴史館」を訪れました。展示されている「山本雄二郎コーナー」を山本夫人にお見せしたいとの空港側の配慮に便乗し、夫人に同行しての訪問でした。

「今思うと、日本で内戦があったのではないかと思うような激しい闘争があったわけです」(山本雄二郎講演会(2006年2月15日))。

そう語られる成田闘争は、間違いなく戦後史の中でもっとも悲惨な戦いであり、当時学生であった私にとって、いつまでも胸に刺さり続けた出来事でした。それだけにこの「内戦」を誰がどんな形で収束していくのか、常に息苦しく見つめてきたものです。

国と農民とでこじれにこじれた成田闘争。その歩みより作業を20年近く担い続け、そのことで昨年、命を燃えつくすような形で逝った人物。それが、山本雄二郎高千穂大教授、成田空港地域共生会議代表でした。しかもその人は、何ということでしょう、同じ渥美半島に生まれ、同じ大学の学部に学ぶなど、私のすぐ傍におられたのです。

そんなこともあって空港関係者は、私たちを歴史館だけでなく、成田闘争の様々な跡地にも案内してくれました。学生が乱入した管制塔や多くの死者を出した東峰十字路等などです。

重い成田の歴史が凝縮されたこれらの地に身を置けば置くほど、山本先輩の壮絶な取組みぶりが想起され、改めて頭が下がったというものでした。

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関東軍による満州事変、あれから80年

2011年09月20日 | Weblog
写真:「瀋陽(奉天)の9・18博物館」

昭和6(1931)年9月18日は満州事変の始まった日です。あれから80年。現地の9・18歴史博物館で記念式典が行われたのは当然としても、日本でも人物往来社の『歴史読本』が「満州事変80周年」特集号を出すなど、満州の歴史はいつまでもくすぶり続けています。

何年か前に満州の地を旅する機会がありました。瀋陽(奉天)につくと私は、ほとんど義務感に駆られるような思いで、市郊外の爆破の現地・柳条湖に向かったものです。しかし人影の少ないなかで、突然に目に入ってきた建物の巨大さとそこに書かれた文字の大きさに驚かされました。

  新築されていた歴史博物館と「勿忘“九.一八” 江澤民」の文字。

爆破事件から半世紀以上たっているにもかかわらず、100億円近い巨額費をかけ1991年に建設されていたのです。当時江澤民主席は、天安門事件で国際的に経済制裁を受け、他方でソ連などの共産主義諸国が崩壊していく中で、国家体制を維持する手段として反日教育を徹底したと言われます。その意図が露骨にみえるこの刻み文字に、私は何よりも強く違和感を持ったものでした。

そういえば最近、毎年9月18日の瀋陽では、爆破工作が行われた夜10時を機に、市内を走るすべてのバスや車が一斉に警笛をならし、日本への抗議の意を確認し合っているとも聞きました。江澤民の執拗な反日教育の成果は、中国の中にしっかりしみ込んでしまっているようです。

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「朝夕涼しくなってきましたね」の挨拶に心和む

2011年09月13日 | Weblog
写真:「ススキ」
秋の七草のひとつ

今夜(9月12日)は中秋の名月です。夜空は澄みきって、輝く満月に年に一度の大舞台を与えています。

わずか10日間とはいえ日本を離れ、ニューヨークの摩天楼や溢れる英語に覆い包まれると、無性に日本語に愛着を感じてしまうと言うものです。

そんななか、今日は早速に中野区で個人情報の審議会がありました。夏休みを挟んで久しぶりに顔を合わせる委員の人たちです。交わされる会話は、誰しも季節の移ろいを込めたものとなるもの当然と言えば当然です。

「朝夕涼しくなってきましたね」
「今夜は中秋の名月ですよ」
「秋の風を感じますね」

しかしこの、当たり前のような日本の季節の挨拶も、帰国したばかりの耳には特別に新鮮に響き、ホッと心が和んだものです。日本はとてもいい国です。

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あのメリルストリープとNYで『恋におちて』

2011年09月09日 | Weblog
写真:「舞台となったグランドセントラル駅」

ニューヨーク市の郊外の駅、Dobbs Ferry(ドブスフェリー)からグランドセントラル駅を通り、ダウンタウンのNY市役所まで通勤していた私にとって、映画『恋におちて』(原作名“Falling in Love”)は忘れられない作品です。いうまでもなく、両駅を行きかう電車の中で、メリルストリープとロバートデニーロが恋に落ちる、1984年の作品です。

NYに赴任したころ、当然のことながら色々な人を新しく紹介されます。その時、「NYはどこにお住まいですか?」とよく聞かれました。「ハドソン線のドブスフェリーです」と最初答えていたのですが、ある時「あっ、映画の舞台になったところね」と言われ、ハッと思いついたのです。

それ以後「どこにお住まいですか」と問われると、必ずこう答えることにしたのです。「ドブスフェリーです」。そしてさらに付け加えるのです。「私が何故、ドブスフェリーに住んだかわかりますか?」。「それは、… I want “Falling in Love” with Meryl Streep.」

この一言は大いにウケることになり、それからしばらくの間は、このやりとりで米国人の紹介の場面を切り抜けることに成功したというものです。

そんな思い出に浸りながら、今回もグランドセントラル駅界隈を散策し、そしてくだんのドブスフェリー駅にも足を運びました。

ゆったりと広がるハドソン川の川面を懐かしく見ながら、やがて車内アナウンスの流れることに気付きます。

Dobbs Ferry will be next.

あれから20年余。映画と二重写しとなる、この社内放送を耳に快く聞きながら、しみじみと長い歳月のたったことを味わい知らされるというものでした。

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グランドゼロの地で10年目に思う9.11テロ

2011年09月06日 | Weblog
写真:「グランドゼロに立ち始めた高層ビル」本人撮影

ワールドトレードセンター。私の勤めていたNY市役所からわずか2ブロック、300mしか離れていませんでした。それだけに東京から来客があれば、その最上階のトップ・オブ・ザワールドに案内し、しばしば食事を楽しんでいたものでした。

しかし言うまでもなく、2001年の9月11日、アルカイダによる飛行機テロでともに崩壊し、3000人余の命が奪われます。

忘れもしません、あの翌日。東京にいた私のところへ、NYの知人の女性から泣きながらの電話が入りました。「ロッシーさんが死んだよ。奥さんも亡くなったよ。嶋津さん、あの部署にいたトムもその同僚もみな姿が無くなったの」。

後日、ビル倒壊の直前に、ドス、ドスという音が辺り一帯で聞こえたという話を聞きました。それは高層の窓を割って飛び降りた人たちが、地上にたたきつけられた際の音だったというのです。その音の幾つかが、私の友人たちであったかも知れない。そんないたたまれない想像に苦しんだものでした。

それだけにNYにはできるだけ早く来たい。なるべく早く亡くなった友人に会わなくてはいけない。そう思い続けていたものです。一昨日、その痛々しくも懐かしいビル跡に、やっと訪れる機会を得たのです。

しかし凛としてそびえていたあの美しいビルは消え去って、代わりに馴染まないビルが姿を現していました。工事現場ではトラックがあわただしく出入りし、その無機質な風景に、とても哀悼を祈る状況にはありませんでした。

もっとも有機質な世界であるはずの宗教世界が、もっとも無機質な世界を生んでいる。イスラムとユダヤ・キリスト。その対立の現実に、慄然とするばかりのグランドゼロの風景でした。

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畏友山本繁太郎さんの早期の国政参加を祈る

2011年09月01日 | Weblog
写真:選挙事務所で山本繁太郎さんと

山口県の柳井市は金魚と白壁のまちで有名です。そこに私の畏友山本繁太郎さんが国政に立つべく奮闘していることもあり、表敬訪問しました。

地元の柳井高校から東大法学部、国交省に入省。住宅局長や地域活性化事務局長を経て、平成20年の山口2区の補選に出馬します。しかし落選。ついで21年に行われた衆院選に出馬するも民主旋風に中で惜敗。いま、改めて捲土重来を期して奮闘しているのです。

柳井駅に着くと大きく手を振って迎えてくれました。そして白壁のまちを歩き、ソフトクリームを買い、柳井のまちなみを楽しそうに案内してくれたのです。そればかりではありません。選挙事務所でスタッフを紹介し、さらには車で錦帯橋へ向かい、宇野千代の旧宅へも同行してくれる気遣いでした。

霞が関の頃から彼はその気さくさで、皆におおいに好かれていました。その気風は少しも変わらず、凡そ選挙の票にならない私を一日、歓待してくれたのです。

しかし東京ではちょうどその折り民主党選挙の最中でした。支持率最低の菅政権が野田政権に代わることで民主党の延命が図られようとしていたのです。これで解散総選挙は当面消えました。このことは、山本繁太郎さんの戦いがもうしばらく続くということに他なりません。

民主党は国政を迷走させているだけでなく、前向きで優秀な人物をいつまでも表舞台に登らせない事態を生んでいるのです。まことにもって日本は最小不幸ならず、最大不幸の国になってしまっているようです。



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