嶋津隆文オフィシャルブログ

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Xマスイブは前夜ではなくXマスの当日である

2015年12月24日 | Weblog

【国立駅前】

国立駅に立ち並ぶこの季節のイルミネーションはなかなかの圧巻です。国立の友人たちが、汗を流しながら今年も飾り付けを行ったと思うと、改めてこの風景に愛着がわくというものです。

ところで言うまでもなくXマスの12月25はユダヤ人イエス・キリストの生誕日。そして24日はXマスイブ。しかしいつもこの日になると思うのです。イブを「前夜」と訳したのは軽率ではなかったかと。

カトリック(グレゴリオ)暦ではたしかに24日の夜は24日です。しかしユダヤ暦では日没をもって日付は変り、この日没から一日が始まります。即ちXマスの25日でいえば、イブは既に25日なのです。イブは決して「前夜」などではなく「当夜」なのです。

そういえば今年は1Sのテロやシリア難民の民族移動が辛いニュースとして幾度も流れました。しかし中東のことはどうしても理解が困難です。それは一つにイスラムことが欧米のキリスト文化を通じて伝えられるからではないでしょうか。

Xマスイブを「前夜」とするグレゴリー暦は、16世紀にローマ教皇グレゴリオ13世が制定したもの。このことを考えると、世界のことはどこかでキリスト教文化のプリズムが入っていると思わざるをえません。

それだけに私たちが中東への理解を欲しようとも、そことの直接的な接触や情報の吸収が出来ない限界を、強く痛感させられるというものです。来年もまたイスラムテロのニュースが鎮静化の展望のないままに流れることでしょう。そう考えると国立のXマス・イルミネーションも、また暗く見え始めてしまうというものです。


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やはり近くて遠い国なのかと思わせる韓国司法制度

2015年12月21日 | Weblog

【韓国憲法裁判所】

ブログの原稿アップが半月もできませんでした。東京法令出版社への「廃校活用」の原稿の締切りが正月明けに設定され、死に物狂いでパソコンに向かっているからです。

弁解はさておき、昨日、産経新聞の支局長に無罪判決が言い渡されました。そもそも無理筋の検察起訴であっただけに当然の結果だと当事者も世間も受け止めているようです。

しかし大いに驚かされたことがありました。裁判所が判決前に、韓国外務省が裁判所に提出した「善処を求める」という文書を読み上げたのです。異様です。産経の記者は有罪だけれどこの韓国外務省の意向を受け、その温情で無罪にする。そういう構図になってしまったのです。

司法制度が日本とは違うので簡単な比較はできません。しかし検察の起訴の奔放さや、行政の司法への介入の安易さ、逆に司法の行政等への介入の容易さをこうして頻繁に見せられると、一体韓国の国家制度はどうなっているんだと警戒してしまいます。

そういえば韓国の憲法裁判所は4年前、「慰安婦が賠償請求を得られる様に政府が行動しないのは憲法違反」との判決を出しました。この判決で外交的に両国で決着ついているはずの慰安婦問題の火に油が注がれました。

その点、日本の司法は抑制的です。一昨日の夫婦別姓を合憲だとした判決も、「別姓を選択できる制度の是非は国会で判断すべきだ」と示します。三権分立のバランスの維持は国家機構の基本と認識しているからでしょう。

思い出すのは20年ほど前に、当時の鈴木俊一都知事と青瓦台で金泳三大統領と会った折のことです。大統領はこう言います。「残念なことに韓国と日本は近くて遠い関係にある。これからは近くて近い国にならなくてはいけません」と。

しかし、こと司法制度による混乱ぶりを見る限り、韓国は「近くて遠い国」であるとの思いをぬぐい去ることはできません。


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スーチーさん、朱建栄さん、京都大学矢野暢教授

2015年12月04日 | Weblog

往時のスーチー女史

アウンサン・スーチーさんは時の人です。彼女の率いるNLDが選挙で圧勝し「大統領の上」になるとのことです。そのニュースで見る度に、京大東南アジア研究センターに留学した彼女の姿を想起します。いやセンター長で、彼女の恩師おいわれた矢野暢(とおる)教授を想い起こしてしまいます。

矢野教授はすぐれた政治学者で、またスウェーデン王立科学アカデミー会員でもありました。当時(1980年後半)、教授はNIRA(総合研究開発機構)の理事の職にあって私の上司でもありました。私の処女出版「どこでどう暮らすか、日本人」の出版記念パーティの折には教授が呼びかけ人代表でした。

しかし極めて激しい性格で、また率直に言って権威主義的で野心家でした。ある時、こう発言して私たちを驚かせたものです。「昔、京都には公家がいて京都の文化と権威を維持していた。その公家のいなくなった現代、京都の文化と権威を維持するのは京大教授である」と。

ほどなくして「キャンパス・セクハラ」の告発を受け、京大を辞します。東福寺に身を隠すものの、マスコミに追い立てられるようにして日本を離れ、ウィーンで客死するのです。63歳。その性格通りの激しい人生でした。

しかし矢野教授の凄さはその政治的、国際的な判断力です。スーチーさんを京大に連れてきたのも彼。そして前後して上海で発見した朱建栄さん(東洋学園大教授、今をときめく中国研究学者)を京大に連れてきたのも彼なのです。ちなみに朱さんと私はNIRAで席を並べることになります。

同時期に、同じ矢野教授に薫陶を受けたことスーチーさん、朱建栄さん、そして不肖私。NIRAを通じてのそんな奇縁の存在を楽しみながらも、20年たった矢野教授の死と功罪を改めて想い起こす、昨今のスーチーさん騒動というものです。


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