嶋津隆文オフィシャルブログ

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卒業式で首席となったベトナム女子留学生に学ぶ

2013年03月25日 | Weblog

写真: チャム学生(撮影 本人)

昨日、松蔭大学では卒業式が持たれました。その中の爽やかな話題を一つ取り上げます。

今年は日本とベトナムの友好年(外交樹立40周年)にあたります。その記念すべき本年に松蔭大学では、奇しくもベトナムから初めて迎えた留学生を、その成績優秀(全学トップ)の実績から、卒業式において学長表彰および学部総代に選出したのです。

ファン・タイ・ゴック・チャム。2011年にホーチミン市の国家大学(人文社会科学大学)から日本へ留学し、松蔭大学観光文化学部3年次へ編入しました。プロの通訳や観光ガイドになりたい、ベトナムと日本の関係がますます発展し親密になるように貢献したいとの希望を持っての入学でした。

その意志にたがわず、日本各地の観光の実態や振興策を学ぶ一方、富士登山や茶道など日本の風土や文化に親しみ、教員や他学生との信頼と友情を育みました。また東日本大震災後は被災地の福島へしばしば足を運び、フォー(ベトナム料理)やベトナムコーヒーなどでの慰問活動を重ねました。

入学当初、講義の日本語が30%しか分からなかったという彼女は、すべての講義をテープにとり、自宅に帰っては改めてそれを復習し続けてといいます。その頑張りには驚かされます。そかしそれにもかかわらず、彼女は被災地の人々の助けあって生きて行こうとする日本人の前向きな姿勢に感動したと常に語っていました。

すべてが前向きなのです。日本人がともすれば忘れかけている心意気といえましょう。


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『どこで、どう暮らすか日本人』を実践するか?

2013年03月18日 | Weblog

写真:「松江・宍道湖」

先日、国立駅近くの中華レストランで、私の田原市行きの壮行会として夕食の宴が持たれました。音頭を取ってくれたのは、国立市長選で私を支援してくれた多くの友人・知人の皆さんです。何とも有難いことです。

ただ少し違和感がありました。というのは、東京から去って行ってしまうのだという参加者の認識と、主軸は故郷田原に置くが活動の場は一つではないと考える私の思いに、隔たりがあったということです。

そこで私は、30年前に国連が主唱した国際居住年の一環として実施された朝日新聞主催(建設省後援)の懸賞論文で、一席になった私自身の論文の一節を披露しました。

「この村出身者で東京へ行った者が、最近60を超えて島根に戻ってきた。しかし先祖からの家屋敷があるこの村には帰らず、松江に家を建てて暮らし始めたのだ。もっとも時折村に来ては、墓参りをしたり野菜を作ったりしている。東京へは仕事のこともあって、今でも月に1、2回は上京するようだ。銀座で都会の友人と飲むのがやはり面白いらしい」。

この島根で耳にした話しを基に、これからの日本人は、人生後半は故郷に近い街に居を構え、そして時どき村と東京に出かける。そうした土着と漂流のライフスタイルを選択するようになる。すなわち「住み広がっていく」行動形態をとるだろうと予想したものです。

このテーマは多くに人の関心を呼び、TBSブリタニカから出版の話しが持ち込まれ、そうして私の処女作『どこで、どう暮らすか日本人』が生まれました。そして今、まさにこの予想を実践しようとしている自分に気づき、苦笑するというものです。もっとも東京生まれの東京育ちが多い国立の仲間には、些か分かりにくい感覚であったかもしれません。


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私の前に坐った反対同盟事務局長と運輸省事務次官

2013年03月09日 | Weblog

写真: 成田空港全景(NAA提供)

一昨日の3月7日、平河町の割烹「はまなす亭」で私の「成田の大地と渥美の空と―評伝・山本雄二郎」の出版会記念会が持たれました。メンバーは10人。しかしその場で、何とも不思議な光景に出合いました。成田の関係者が集まる中、私の前に偶然にも石毛博道さんとその横に黒野匡彦さんが坐られたのです。

驚きました。実は私は上記の本の「あとがき」に、こう記述していたからです。

「山本雄二郎先輩の一周忌があったのは、平成22年11月末の寒い日でした。東京は神楽坂の割烹『加賀』でのことです。
忘れもしません。渥美から上京してきた菩提寺の住職が読経を終え、懇談に入った時のことです。何気なく坐った私の席の前には、元反対同盟の石毛博道さんと相川勝重芝山町長がおり、しかもその隣に国交省元事務次官の黒野匡彦さんが腰をおろしていたのです。
 まぎれもない「呉越同舟」の光景に、小さく体が震えたものです。あの流血の成田と言われた闘争が半世紀過ぎ、その当事者がこうした「畳でサシツササレツお酒を酌み交わす」形で集まっていると。」

 何と云うことでしょう、この「あとがき」で書いた2年半前と全く同じ光景が、奇しくも設定されたというのです。柄にもなく私は運命的なものを感じました。ああきっと私のこの著書は、偶然が必然となるような、しっかりとした手ごたえを社会が示すものになる。そんな示唆を強く確信したものでした。…いやいや、これはちょっと身勝手でしょうか(笑)。


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2年を掛け『成田の大地と渥美の空と』を出版

2013年03月02日 | Weblog

日本の空港の地域紛争での稀有な行司役と称された山本雄二郎。成田闘争の仲介人の一人として、渥美半島の自然で育った山本は、20数年にわたり泥臭く反対派と語りあう。そして、空港と地域との「共生」という理念を抱いて臨み、遂には和解へと導く。行政が陥りやすい失敗とそれを避ける心構えとは何か。住民との利害対立の解決に大切な姿勢とは何か。現代日本人が忘れかけている”こだわる”という心とは何かを問う人物評伝。

下記よりお申込み頂けます。

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田原市の教育長に就任することとなりました。

2013年03月01日 | Weblog

写真:「伊良湖岬(折戸裕美)」

ふるさと田原市の市議会で、本会議初日となった昨日、私の教育長人事についての同意がなされました。一か月後の4月1日からの就任となります。大学の方は身分を専任教授から客員教授に切り替え、軸足をどっぷり田原市におく、これからの生活が始まります。

それにしても故郷とは不思議なものです。大学で上京してから、半世紀近く東京住まいをしているはずなのに、故郷はいつも、しかも強烈な磁力をもって傍にいたといえます。

田原の市長から私に声が掛かかったのは少し前のことです。若い世代と故郷にためにこれまでのストックを発揮してみてはどうかと。暫く考え、そして私は帰郷を決意します。

招かれるというシチュエーションは幾つになっても人の心を鼓舞するようです。ましてその地が自らの育った故郷と云うステージなのです。迷うこと自体、おこがましかったかもしれません。

ひょっとしたらご先祖が招いてくれたのかもしれない。最近になってそう思いつくと、間違いなく、小さくないみなぎりが湧いてくる感があります。


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