嶋津隆文オフィシャルブログ

嶋津隆文オフィシャルブログ

大混乱している民主党政権の「官僚」運営

2011年08月26日 | Weblog
写真:「福島原発とその周辺地域」

昨夜、納涼会があり、皇居の緑が眼下に広がるホテルで親しい霞が関の面々と会いました。民主党の代表選の直前です。政局の動きに話しが行くのは当然です。

そんな中で現政権の、震災対策などを巡る一連の対応に憤懣なるかたない国の役人諸兄の発言があり、同情を禁じ得ませんでした。

例えばこうです。原発事故の福島で、住民移送のバス1000台の調達指示が官邸から来ました。しかしどこからどこへ運ぶのか、2カ月近くも決まらなかったというのです。その間、運転手への放射能対策もなく、ある運転手など除染指示を待ち、バスの中で一人で一か月も暮らす羽目になりました。さらにその費用負担も政府か東電かで、またまた数カ月もかかったというのです。

一事が万事で、およそロジスティックスの理解がない官邸に誰もが辟易していると嘆くのです。ただただ役人を嫌い排除した菅首相。組織と人材を使うというリーダーとしての当たり前の姿勢はなく、その結果が東北の大混乱だと言うのです。

「年とったバカは若いバカより始末が悪い」。仏のモラリストのラ・ロシューコーの警句を吐き捨てるように口にした男もいました。彼は特に、昨今の霞が関が頽廃し、“密告社会”化していることを身を持って味わわされ、それだけに怒り心頭というものでした。

菅首相の交代は心ある官僚たちの切望するところです。しかし新首相になっても民主党政権という枠は変わりません。またまた同じ混乱が生じてしまうのかと、霞が関は今、疲弊し切っているといえるようです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終戦時に昭和天皇が皇太子にあてた一通の手紙

2011年08月20日 | Weblog

写真:お濠の水面はいつも穏やかである

8月15日が過ぎると、お盆とともに戦争もすーっと姿を消してしまうようです。昭和20年もこんな夏であったかもしれません。

しかし終戦直後の9月9日、昭和天皇は疎開先の皇太子にあて次のような手紙をしたためています。連合国による処分を覚悟していた天皇が、このように状況を冷静に吐露していたことに驚かされます。

敗因について一言いわしてくれ
わが国人が あまりにも皇国を信じ過ぎて
英米をあなどったことである。
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて
科学を忘れたことである。

明治天皇の時には 山県 大山 山本等のごとき
陸海軍の名将があったが 今度の時は
あたかも第1次世界大戦の独国の如く
軍人がバッコして大局を考えず 
進むをしって 退くことを知らなかったからです。

手紙の発見は昭和61年と言われます。恥ずかしながら最近になってこの事実を知ったものです。私自身の備忘録としてこのブログに載録します。

歴史と制度の中で身動きの取れなかった昭和天皇。しかし責任者としての苦渋と悔悟の念が、しみじみ伝わってくる手紙といってよいでしょう。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終戦の日に改めて思う「戦争責任」ということ

2011年08月15日 | Weblog

写真:「九段坂からみる靖国神社」

今日はいうまでもなく終戦記念日です。朝から暑く、蝉の声も響き、今にも玉音放送が聞こえてきそうです。

それにしても昨今、強く不快に思うことがあります。広島、長崎での原爆慰霊式での市長スピーチです。なぜ一度も、この悲惨な30万人もの非戦闘員を殺す攻撃を行った、当の米国政府の責任を問うとの抗議を明言せずに来たものかと。

昭和20年の夏、制海権も制空権も壊滅していた日本に対して、原爆投下を行う必要などなかったのです。それを敢えて実行したのは、原爆の威力の実証、即ち人体実験とも言うべき開発兵器の影響力を、米国が把握したかったからに他なりません。

かくいう日本も、自らの戦争責任について曖昧にしたまま今日に至っています。極東裁判という戦勝国の演出ではなく、自らの努力による追求を怠ったのです。1億総懺悔などと言う、きわめて都合のいい風潮の中で、リーダー達の責任を不問にしました。このことが日本人の無責任体質を引きずる所以になったと考えるのです。

広島、長崎市長のスピーチを不快に思うのは、そうした日本人の、歴史に対する甘さを感じ取るからに他なりません。これでは英霊たちも、凡そ浮かばれないというものです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

友人の出版した米国経済の著作にちょっと感動

2011年08月11日 | Weblog

写真:「ニューヨークウォール街」

米国債の格付けが下がったことで、昨日今日、経済の混乱が始まっています。何とも気がかりです。そんな中で、友人が米国経済とNYの研究書を出版し、それについての私の書評が「地方財務」8月号に載りました。
ご覧ください。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北原派「団結小屋」撤去と山本雄二郎追悼集

2011年08月07日 | Weblog

写真:成田にこの夏開設した「空と大地の歴史館」

 

「今思うと、日本で内戦があったのではないかと思うような激しい闘争があったわけです」(山本雄二郎講演録 2006年2月15日)。

そう語られる成田・三里塚闘争は、戦後史の中でもっとも悲惨な戦いであり、当時学生であった私たち世代にとって、いつまでも胸に刺さり続けた出来事でした。それだけに、この「内戦」をいったい誰が、どんな形で収束させていくのかと、常に息苦しく見つめてきたものでした。

その収束作業を20年近く担い続け、そのことで昨年、命を燃えつくすように逝った人物が、何ということでしょう、私のすぐ傍におられたのです。山本雄二郎先輩。元産経新聞記者、高千穂大学教授。同じ渥美半島の地に生まれ、同じ早稲田の学部に学び、そして奇しくも同じ誕生日(7月13日)という関係でした。

山本先輩の業績に感謝したいと、この春から反対同盟(熱田派)のメンバーや国交省OBの人ら有志数十人で「山本雄二郎追悼集」を作る作業に入っています。編集長もどきを私が担当しています。

そんななか、成田で昨日(6日)、反対同盟(北原派)の拠点「天神峰団結小屋」が撤去されたとニュースに流れました。話し合い路線を拒否し、あくまで「実力闘争で闘う」とする北原派とニューレフト。

大勢は山本先輩らの努力によって何とか収束がなされているのに、他方でまだまだこうした息苦しい光景が現地には残っているのです。地域主義路線に立つのか、政治革命主義に立つのか。しかしこの違いが、地域の人々の生活に決定的な差異をもたらしていることを、もう十分知ってもよい時期のはずです。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満州、満鉄、関東軍・・・8月は歴史を近づけます

2011年08月04日 | Weblog

写真:「大連に今も残る満鉄の本社ビル」

暦が8月に変わったというのに不思議な涼しさが続きます。そんななか、昨日ふと立寄った書店で、月刊誌『歴史読本』が目にとまりました。「関東軍全史―満州事変80年」というサブタイトルに、ためらうことなくそれを買い上げました。

いつの頃からでしょうか、満州や関東軍、満鉄といった近現代史の語彙に、コトの外、興味を持ち始めたのは。恐らく極悪の関東軍、中国略奪の満鉄といった、極端に一面を肥大化された歴史観に、違和感を持ち始めたここ10年ほどでしょうか。

その満州に、私の遠戚の一人が終戦の時まで満州開拓公社の理事をやっていました。花井修二という人物です。「開拓地の営農は、その土地伝来の古い型に則るのが一番穏便だと思う。畑の耕作は満農に会得し、田は朝鮮農に学ぶのが順序だ」。こう主張して部下や地元民の信頼を得ていたと記録に残ります。

先般、その修二の兄嫁の花井喜久子から思いもよらぬことを聞かされました。それは何と、花井修二は憲兵大尉であった甘粕正彦(満映理事長)と懇意にしており、甘粕は服毒自殺する前日、一人で修二に会いに来たと言うのです。昭和20年8月19日のことになります。

胸が高鳴りました。昭和の歴史がまさにこの伯母に住んでいると。満州の大地に展開された昭和史を生に語れる人がいたのです。それだけに、伯父修二が生きていれば、甘粕との交流を含め、山ほど聞きたいことがあったのにと実に歯がゆく思ったものでした。

時は戻りません。つまらないものです。
それにしても8月という月は、歴史を思い切り近づけるもののようです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする