嶋津隆文オフィシャルブログ

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芸者ワルツがいい、異国の丘がいい

2008年06月30日 | Weblog

時のたつのは早いものです。今年も今日で半年が終わります。しかしこの間で自分は大学や地域に何を残せたのか、走ってばかりで殆ど果実を作れない空回りの生活に苦笑する昨今です。

いつぞや昔、余暇開発センターに行ったところ担当者が目を真っ赤にしていました。いわく「いやあ報告書の取りまとめで、今朝まで徹夜したものだから」と。その弁解を聞いて笑い転げたものでした。余暇創出を目的とするセンターが夜を徹しての仕事をするというのですから。でも常に周囲から何かを求められているような切迫感下での今の自分の生活であれば、そうした仕事振りを笑うことなど出来ません。

老子はかつて無為自然を説きました。人為を廃し自然であることが道に通じると諭したといいます。競い合って不幸になろうとしているのが近代化であり、昨今の文明志向とも揶揄されるだけに、こうした無為の主張は新鮮です。

しかし社会に組み込まれた現代の窮屈な日常のなかで、せいぜいやれる無為の癒しは、ひとり悠然と!音楽を聴くことくらいでしょうか。そう思って、例えば厚木の大学キャンパスに向かう車の中で朝聴くCDといえば、時空を越えての極めて懐かしいドメスティックな曲なのです。何を隠そう神楽坂はん子であり、東海林太郎であり、岡晴夫といった面々なのです。

役人の現役の頃、姉妹都市交流や国連との打ち合わせで繁く海外に出かけることがありました。長い交渉を終えて帰国する飛行機の中で、乾いた気持ちを何が一番癒すかといえば、何のことはない、ヘッドホンから流れてくる日本のメロディでした。

そうなのです。演歌にしろ、三味線の音色にしろ、かつての日本的な響きが何とも貴重になってきているのです。いやいや耳や目だけではありません。思想そのものもどんどん日本帰りしていることに気づきます。加齢のなせる業か、DNAの所以か、それとも西洋思想を皮相的に日本社会に貼り付けようとしてきた社会の薄さの故かも知れません。

そんなこんなの雑念に少し煩わされながらも昨日今日、芸者ワルツをハミングし異国の丘に涙して時を過ごす、小さな癒しの幸せを味わう初夏の夕方です。

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ドナルド・キーンと崋山と故郷と

2008年06月27日 | Weblog

今日は閑話休題です。

半年ほどまえ有楽町で人を待っていると、前をドナルド・キーン名誉教授(コロンビア大学)が通り過ぎていきました。「あっ、先生」と声を掛けたものの、雑踏の中に足早に消えてしまいました。以前から仕事を通じ存じていましたが、何よりも故郷の偉人『渡辺崋山』(新潮社)を最近執筆したことを知らされていただけに、思わず声をかけた次第です。

渥美半島の田原藩家老の家に生まれた渡辺崋山。しかし家計はきわめて貧しく、弟たちを寺男や女中に出す一方、主君を思い日本の未来を案じて開国を唱え、やがて蛮社の獄で命を絶ちました。一方で画家としての有能さを発揮し、とくに国宝となっている「鷹見泉石像」など人物像に多くの逸品を残したことで有名です。

それだけに郷土田原(渥美)では偉人と称せられ、ふるさとの小学校の学芸会では「崋山劇」なるものが毎年6年生によって演じられました。弟を遠くの寺に出す雪の日に、崋山が板橋まで送って分かれる涙の舞台「板橋の別れ」です。一節を載せてみましょう。

ああ懐かしき弟よ 歳まだ幼き身ながらに 
親を離れて今日限り 人の情けにはぐれ鳥♪
別れ行く このひと時を板橋や 情け容赦も 粉雪の
風に狂いて ひひ留まり 音に響きて 頬を打つ♪

こう唄い出してから、その後は敢然として意を決して生き、そして死んでいった崋山の生涯を紹介し、最後に次の歌詞で締めくくるというミュージカルなのです。

是にや誓いし 言の葉は あずさの弓の射る的に 違わず 国に身をささげ
人の鑑(かがみ)と後の世に 偉人崋山と唄われぬ 偉人崋山と唄われぬ♪

何と小学生で暗誦し、50年たってもその歌詞が記憶に残っているのですから、崋山は私にとっては細胞の中にしみこんでいる存在と言ってよいのです。そしてこの渡辺崋山を、大作『明治天皇』(角川書店)を執筆後のドナルド・キーン教授が着眼し、先般上梓されたのです。開国を叫んで弾圧された崋山を、米国人が150年たって内外に知らしめようとするのですから胸踊るというものです。

それにしてもそのことが我がことのように喜べる自分に戸惑わないわけにはいきません。思うに人というのは、加齢とともに確実に過去への関心が確実に高まるようです。しかもその過去は、地縁と地縁の二つのえにしを追いながらの探究の対象となるものと思われます。自分の過去を、祖先や日本といった血の筋とともに、ふるさとと言う地の縁で見極めたいという欲求。それは知的な欲望と言うより、血(地)をつなぐと言う意味でむしろ性的な欲望に近いものかも知れません。

ドナルド・キーン教授との有楽町での偶然の触れあいは、おりしも私自身の体内に生じてきた祖先帰りの欲望が沸き始めた時に符合するだけに、不思議な力を与えられたような気になっているのです。還暦とはこういうものかも知れません。祖先や故郷の足跡を追うべき時期に来たとの、劇的な予兆ではないかと思えてくるのです。

そういえばこの一年取り組んできた長州藩の村田清風ら、幕末の経世家たちを扱った書の出版(『歴史に学ぶ地域再生』(吉備人出版))がこの8月と決まりました。こんなことも弾みとなって、幕末からの我が家と我がふるさと田原(渥美)の歴史をたどる作業を改めて決意する、齢60を越えたこのごろなのです。

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「森の里」とは「毛利の里」だという衝撃

2008年06月16日 | Weblog

「旅は、万の書籍にもすぐるのではないか」と先のブログ(6月5日付)に書きました。実は幕末の長州(毛利)藩の形跡を辿っての山口の旅は、古文書と源氏ホタルによって感動させてくれただけでなく、何ともう一つの衝撃的な出会いを私に与えてくれていたのです。

それはこういうことです。

大雨の6月4日、毛利藩が開作した三田尻の塩田跡をめぐってから、防府市の毛利博物館に足を向けました。この館は明治になって井上馨が、藩主毛利家のために建てさせた大邸宅を資料館としたところです。そこで毛利家の年表を見ていてオヤと思いました。中国地方とばかりに考えていた毛利家の発祥の地が、相模の国毛利の庄だと記されていたのです。

副館長に訪ねると、「そうですね、確か神奈川県の厚木のあたりだと聞いています」というではないですか。驚きました。東京に帰って早速に調べてみると、何とこの毛利の庄(森の庄)とは、わが松蔭大学のすぐ界隈であったのです。厚木市古沢。私の研究室から首を出せば見えるほど近くの三島神社にその旨を刻んだ碑も建てられていました。

自分の不明を恥ずかしく思うよりも、この史実を知らされたことに声を出して興奮してしまいました。13世紀の鎌倉時代、頼朝に信頼の厚かった大江広元が荘園として受け、その4男季光(すえみつ)がこの地名の毛利の姓を名乗ったのが始まりというのです。やがて越後、そして広島に移って、その後毛利家の繁栄は築かれたのです。

改めて聞き歩いてみると、近所に毛利姓の家もあり、毛利台小学校なる学校名も存在し、何よりも松陰大学を含むこの県の研究開発エリアの地域名「森の里」も、そもそもは「毛利の里」から出たものであるとも教えられました。ワクワクするような話です。

こうなると、研究活動のインセンティブが違ってくるというものです。松蔭大学という名称と建学理念からして毛利藩の吉田松陰と結びつき、私の研究テーマである村田清風にしてもまさに長州藩家老であり、かてて加えて所在する地域の歴史そのものが毛利藩と結びつくというのですから。

この二重三重の縁に夢は広がります。松蔭大学と山口の研究者たちとの研究交流も考えられ、厚木市と山口の自治体との市民交流も考えられるというものです。観光振興の上でも二つの地元に大いに有効な資源といえましょう。山口が源氏ホタルなら厚木は平家ホタルを飛ばそうか等との軽口も出てこようというものです。

梅雨時に気持ちが塞ぎそうになる昨日今日です。しかしちょっと楽しいエピソードとして、今日はこんなブログを記しておくことといたします。

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山口で古文書遭遇とホタル群舞に感動する

2008年06月05日 | Weblog

6月の声を聞けば梅雨を心配するところです。しかし6月1日から3日間、その雨模様の不安定な中を藩都山口から始まり、防府(三田尻)、光(室積)、柳井、岩国、広島という長州藩の歴史跡を巡ってきました。とくに瀬戸内沿岸は長州藩の幕末の開作地が広がり、窮乏する藩財政を何とか持ちこたえさせた交易港や塩田地であっただけに、興味の尽きない旅となりました。

それはともあれ、とくに山口で感動した二つのことをここでは触れておきたいものです。一つは藩の検地の際に作られた土地台帳の現物に遭遇したことです。もう一つはこの古都で群舞するホタルに包まれたことです。

一つ目の感動の土地台帳は、長州藩の宝暦の改革で作成された、他藩に類をみない小村帳、小村地図という精緻な書類で、長州藩に4万石の増収をもたらしたといわれるものです。往時としては格段に高い行政水準を示すもので、長州藩の家老村田清風を研究していて、どうしても実物をみたいと考えていたシロモノでした。それだけに山口県庁の展示館での予期せぬ遭遇に大いに感動し、またその感動ぶりに自分も研究者の端くれになったものと少々感慨にふけることができたのです。

二つ目の感動のホタルは、市の中央を流れる一の坂川での夜の出来事でした。この一の坂川は、かつて大内広世が室町の初期に山口を西の京とすることを目して、賀茂川に似せて作ったものです。そのほとりには整然と桜が植えられ、清流が走る構造を活用して、戦後市民が源氏ホタルの育成を図り始めたのです。はたして今日、この川はわずか10日の命しかないホタルの優美な舞を思い切り味わう舞台として、まちを挙げて演出されているのです。しかし、蛍をみることなく過ごしたここ20年近い月日が憎まれるほど、その舞いの幻想性には息をのみました。

犬も歩けば棒にあたる。場違いながら、こんな言葉をふと口にしたくなるような、そんな興奮を覚えながら、小村帳と源氏ホタルに見入って過ごした山口の旅であったのです。

それにしても、現場を見る、現地を見るとの作業というものが、どんなに想像力を高め、他方で思考の曖昧さを収束させてくれるものかと、思い至らない訳にはいきません。空想していただけの北前船のにぎわいを室積で、塩田の活気を三田尻で、毛利家の威光を防府のまちで、それぞれくっきりと整理させられたというものです。

旅は、万の書籍にも勝るといってよいかも知れません。

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