【内藤陽介ブログより】
日本のボタニカルアートの父といわれる植物画家の太田洋愛(明治43年~昭和63年)は田原市の出身です。理科教科書の植物挿絵の80%は彼が描いたとも言われます。その郷土の先人の生涯を整理する作業を進める中で、こんな一文に出会いました。
「郵便学者・内藤陽介のブログ」からです。郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を提唱し研究・著作活動を続けている人物。切手などに関するその膨大な著作には驚かされますが、そのなかにこう記述されているのです。
「太田と満洲国の郵政との関係は、1940年の溥儀訪日の記念切手の原画を手がけたことから始まります」。
「太田の手がけた原画は、1935年の溥儀の最初の訪日時に、つがいの鶴がお召艦“比叡”上空に飛来したことをとらえ、溥儀が「禽獣にいたるまで日満両国の親善を喜ぶものにして、天地の気と人と物と自ずから相通ずるものあり」と発言したというエピソードにちなむもの。切手では、鶴とともに、満洲国の軍艦旗と日本の海軍旗章の一つである長旗を配することで、鶴が“比叡”の上空に飛来したことが表現されています」。
「この切手が好評だったこともあり、以後、太田は「臨時国勢調査紀念」、「日本紀元二六〇〇年」(以上、1940年)、「建国10周年」(1942年)など、次々と満洲国の切手の原画を手がけることになりました」。
当時、太田洋愛は大陸科学院による満洲植物図鑑編集事業のため、満洲全域を旅して七百数十種類の植物画を制作しています。終戦間際の昭和20年8月1日、陸軍衛生一等兵として応召。すぐにソ連に抑留され、4年余の強制労働を強いられることになります。
近現代史そのもののような太田洋愛の人生です。それにしても太田の、郵便切手に絡む思わぬ経歴を知らされ、あらためて「人の歴史あり」の言葉を実感する年の瀬です。