嶋津隆文オフィシャルブログ

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大阪府教育条例で飛び交う「教育の中立性」論

2011年11月29日 | Weblog

写真:「夏の陣を迎えるか、大阪城」

大阪の知事選、市長選が終わりました。橋下&維新の圧勝です。選挙戦で争点となった大阪都構想は今後の国の形を決めることに連動する重要課題ですが、もう一つ私が注視するテーマは大阪府の教育基本条例です。

この条例は、従来の権利至上主義の教育理念でなく、「義務や規範意識の重視」「愛国心や郷土愛の涵養」を強調しています。また「保護者は学校に不当な要求をするな」とモンスターペアレント対策を明確にし、「指導力不足教員の分限処分」「職務命令違反者への処分」でいわゆるM教員等への厳しい姿勢を明記しています。

ほとんど挑発的(?)ともいえる諸条文であり、この案を突きつけられた教員組合が目の色を変えてかみつくのも当然でしょう。自分たちが半世紀にわたり掲げてきた理念(看板)が否定され、併せて学校という自らの温床が潰されようとしているからです。

ところでこうした論争の場合、教組サイドが常に対抗理屈として主張するのが、「教育の独立性」「政治権力からの中立性」というワードです。

しかし終戦から60余年、もうこの戦術的なコトバには惑わされることはやめるべきでしょう。「教育の中立性」→「保守政権への敵対」→「革新勢力の拡大」という構図の下、その政治的意図さが明らかになってきているからです。

先般も、集票マシーンとして動いた北海道教組が選挙違反で逮捕されました。山梨県教組のバックアップで当選した民主党の幹事長は、公約の公務員給与の2割カットに踏み込もうとはしません。

「教育の政治的中立性」というコトバは、今や教員たちが自らの既得権を守るための政治用語に変わって来ているのです。皮肉なものです。そうした教育現場の実態を人々がどう認識し、そして条例の成否に対応していくのか。大阪の教育基本条例をめぐる大坂夏の陣には、選挙戦以上に関心がもたれると言うものです。


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郷土渥美の作家『杉浦明平を読む』を読んで

2011年11月24日 | Weblog

写真:好著『杉浦明平を読む』(別所興一他/風媒社)

作家杉浦明平が亡くなって今年でちょうど10年目です。大正2年に同郷の渥美半島に生まれ、東大を出て暫くして故郷に戻ります。

共産党員として細胞活動をする一方で、精力的な著作活動を展開。作品としてはルポタージュ小説「ノリソダ騒動記」や後年の朝日ジャーナル連載「小説渡辺崋山」などで高い評価を受けています。

高校生の頃、この高名な地元作家の行動に、強い違和感を持って過ごしたものでした。自分の売文のために、周囲の人たちを玩具のように取り上げ、憤然とするその人達の反発をまた逆手にとって小説の素材として培養していく手法への憤りがあったからです。

東大出のインテリ共産党員という高踏性と、そのネットワークによる東京(知識人、マスコミ)と連動した威圧性。その存在を目の当たりにして、当時、地元の多くの住民は「明平さの書くことだから」と、負わされた傷を自ら治癒しようとしていたことを思い出します。

あれから半世紀たちます。先般発刊された『杉浦明平を読む』を改めて読んで、「戦後民主主義」が席巻したその時代状況の中で、彼の採った行動の意味をそれなりに理解してもよいかと思い始めています。杉浦自身のことばがこう紹介されています。

「崋山のようにおよそ政治的資質を欠いている男を、いつのまにか、政治の渦中にまきこんでゆくような国の季節があるものだ。(中略)優等生の崋山は、それを実行しなくてはならぬと思ったこと、わたしたちの時代の優等生がマルクス主義運動の実践に走ったようなものである」(174p)。

こうした苦い静かな反省は、説得力があると言うものです。というのも外でもありません。若い時代の杉浦と同様の傲慢さを、実は私たち団塊世代も「戦後民主主義」の名のもとに、周囲に押し付けてきたのではないかと感じるからです。


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北朝鮮の罵声でかき消されたサッカーの国歌斉唱

2011年11月19日 | Weblog

写真:日本サッカーのシンボルは「八咫烏」(神武天皇を道案内した烏)

0-1で負けた先日の北朝鮮でのサッカー戦。わずか150人に絞られた日本サポーターは幟を出すこともならず、数万人の動員された北朝鮮の観客の罵声の中で、君が代の斉唱もかき消されたと報道されています。

サッカーを、金主席礼賛と日本冒涜の政治的喧伝に利用した悪質極まりない事件です。しかしこの国歌斉唱について、北朝鮮ばかり非難してよしとするのは許されないと私には思えます。

というのも、普段の日本チームの選手たちの態度を思い出してほしいのです。彼らがいつも試合前の君が代をきちっと謳っているかと言えば、そうではありません。ぼそぼそと口を動かすだけの者、無表情に口をつぐんでいる者など、開会式のテレビ画面には、幾度も不快感を味わわされるというものです。

そんな日本代表たちの態度を容認しながら、北朝鮮の罵声だけを指弾するというのは、いかにも都合のいい話しではないでしょうか。

そういえばブータン国王夫妻を迎えての宮中晩さん会をすっぽかし、資金集めパーティに顔を出した国防相がおりました。先般は秋篠宮に「早く座れよ」と叫んだ民主党議員もおりました。

日本の伝統軽視の人間を、かように続々と輩出してしまった戦後民主主義。その問題性を、あらためて苦々しく思う昨日今日なのです。


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大地町で改めてもつ映画『ザ・コープ』への怒り

2011年11月14日 | Weblog

写真:「イルカ漁が行われる入り江(コープ)」本人撮影

2009年にアカデミー賞のドキュメンタリー部門を受賞し話題を呼んだ映画『ザ・コープ』。その撮影舞台となった和歌山の大地町を訪れました。欧米目線の中でバッシングを受ける現地をどうしてもこの目で確めたかったのです。

古くからクジラの町として繁栄し、またイルカ漁は何百年も続いている歴史を持ちます。しかし今、伝統に基づくイルカの囲い込み漁は、この映画によって「もっとも残虐な日本の風習」の地として世界的に発信されました。この地の漁師たちは肩身の狭い思いを強いられています。

撮影現場となった静かな入江には、写真のように英文の警告文が掲げられた鉄網が張られ、トンネルの向こうには臨時の警察交番まで配置されていました。違法な撮影と傲慢な取材への防衛です。

この風景を目の当たりにし、白人文化至上主義という言葉が強烈に思い浮かびました。

牛であれ羊であれ、人類はそれをあやめつつ生命をつなぎ、暮らしを営んできました。しかしキリスト教文化の中で、牛、羊などは許され、クジラやイルカの殺生だけが悪魔の仕業であるかのように指弾されるというのです。全くの身勝手な論理といってよいでしょう。

この入り江(コープ)を前に佇むとき、反捕鯨テロリストであるシーシェパード集団の横暴な行動と二重写しとなり、改めて欧米人の排他的残酷さを思い出し、満身の怒りがこみ上げてきたというものです。


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観光地振興のコメンテーターで奈良TVに出演

2011年11月09日 | Weblog

写真:「熊野古道/小辺地の風景」

奈良テレビから、県政情報番組『奈良!そこが知りたい』の番組への出演依頼がありました。紀伊半島豪雨災害後の観光振興をいかに進めていくのかなどが、テーマです。

災害復興と観光と聞くと、すぐ私が想起するのは新潟県の取り組みです。平成16年の中越大震災、平成19年の中越地震のダブルパンチで新潟県の観光客は8000万人から6400万人に激減しました。

しかしその後、新潟県は“まず復興は観光で”と「大観光交流年」構想を打ち上げ、官民一丸の体制をつくります。そして平成21年を「新潟県大観光交流年」として大県民運動を展開したのです。地元の食を軸としての取り組みで、観光客は7500万人に戻りました。

手前みそではないですが、こうしてみると「観光」というものは、災害復興の確実な経済的起爆剤となりうるのです。また県民一体の結集軸になりうることが分かるというものです。

こんな先例を奈良テレビではコメントし、「観光」をピンチをチャンスにする有効手段と捉えることを、訴えたいと思うのです。果たして奈良の人たちがどう耳を傾けてくれるものか、気になるところではありますが・・。録画の放映は11月19日と20日ですとの連絡がありました。


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映画「キャタピラー」と「13人に刺客」に落胆

2011年11月06日 | Weblog

写真:映画「キャタピラー」ポスター

立て続けに2つの映画を見ました。一年近く見損なっていた「キャタピラー」(監督若松孝二、主演寺島しのぶ)と「13人の刺客」(監督三池崇史、主演役所広司)です。

奇しくも、いずれも両手両足をもがれた人物がストーリー展開の軸となります。「キャタピラー」では傷痍軍人となって帰郷した夫であり、「13人の刺客」では偏執狂の主君の犠牲とされた娘です。その肉体(肉塊)の圧倒的な存在感が全編を貫き、呼吸の苦しくなる展開でした。

しかし、いずれも映画作品としては落胆したと言うほかありません。

「13人の刺客」は30分にも及ぶ肉弾戦シーンが一番の売りと言われます。しかし残酷なだけで冗漫な殺戮場面に終始し、疲労感だけを生んだといったよいものです。肝心の愛憎やしがらむに苦しむ人間の深み(怖さ)が粗雑にしか描かれておらず、興ざめしたと言うものです。評価は60点でしょう。

「キャタピラー」はベルリン映画祭で寺島しのぶが賞を得たこともあって評判が高く、何よりも反戦映画の極致などと称賛された作品です。しかし私は失望しました。

四肢を失くし「芋虫」(キャタピラー)となった「軍神」を中心に置き、背後に天皇の御真影、愛国婦人会、中国人娘へのレイプ、原爆投下といった歴史を配置する。こうした構成は典型的な反戦構図であり、反権力監督であろうとする若松孝二の面目躍如といったところでしょう。

しかしそれに私は失望したのです。戦後の昭和20年代の、社会主義リアリズム運動を再現したような演出の単純さには鼻白むばかりでした。肉体的な残酷さをこれでもかこれでもかと見せつけていく手法は、反戦への安易な道具であっても、文芸ではありません。辛く採点し75点です。


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