写真 : 田中正造像(佐野市郷土博物館)
年の瀬です。一年を振り返ってハタと思い立ち、田中正造の足跡に触れるべく、上州の空っ風が吹く12月26日、栃木県は佐野の翁のゆかりの地へと向かいました。
田中正造(天保12年~大正2年)はいうまでもなく足尾鉱毒事件に正面から挑んだ義人として歴史にその名を刻みます。その遺品が展示される佐野市郷土博物館、農民が決起し川俣事件の本拠となった雲龍寺、そして谷中村を潰し毒水の貯水池とされた渡良瀬遊水地など。これらを一日かけて廻ってみたのです。
というのもこの一年、成田闘争に生涯を賭けた山本雄二郎の評伝を書きつづってきました。それだけに成田闘争と山本に影響を与えた田中正造の足跡は直に確認しておかねばならないと、遅ればせながら思い立ったからなのです。
しかしそのゆかりの地を廻りながらとんでもないことを考え始めました。田中正造の献身的な業績に誰もが感動するのは当然です。が、その一方で、当時の明治政府のしたたかさにも着眼してよいのではないかと云うことです。
直訴した田中を狂人扱いして世間の鎮静化を図った手法や、渡良瀬流域の農民よりも日露戦争の軍備のために足尾銅山を残すとした判断。残酷な話ではありますが、当時の状況下で政治的、軍事的にはやむを得ない選択ともいえるのではないか。そう思えてしまったのです。
人々は田中正造を讃え、他方で日露の勝利を讃えます。この間にある矛盾に気づくことはほとんどありません。いつの時代も人々は勝手なものであるようです。