先般、国立の明和マンションに係る最高裁の判決が出され、被告となっていた国立市および国立市長(上原公子)の2500万円の賠償およびその利息負担が確定しました(3月14日付けブログ参照)。しかしそれに対し現市長は、上原前市長への負担は求めず3月末までに全額賠償金等を国立市が明和に支払うこととし、また市議会は上原前市長の謝罪文を提出させることでこれを容認したということです。
これはおよそ納得できる話しではありません。
そもそも平成17年末に、一審での市負担の4億円賠償額を2500万円に圧縮した高裁判決が出ました。これは明らかに喧嘩両成敗とした裁判所側からの和解のメッセージとみるのが法曹界の常識でした。市議会もその空気を読んでか裁判収束の決議をしました。にも拘らず上原市長シンパの補助参加人が上告し、その行動を上原市長は追認して今日の市民負担増の事態に至ったのです。いわば市民の税負担を無視した、敗戦を承知の宣伝工作優先の玉砕戦法とも言うべきものです。
司法判断はこうです。
「建設計画が公になっていない時点で(情報を仲間の)住民らに話し、反対運動を促した」「市議会で(法を守って建築した明和マンションを)違反建築物と答弁し、それを補助参加人らが街頭で宣伝した」
とまず、営業妨害性を指弾します。加えて、
「(上原市長の言動は)首長に要請される中立性・公正性を逸脱している」
「異例かつ執拗な行為であり、社会通念上許容される限度を逸脱している」
と市長の公人としての常軌を逸した活動家性を指摘したのです。
そうした国立市への司法機関による批判は、一度判決文に目を通した人なら誰でも驚くほどに厳しいものでした。そこでの前市長の極端な行動によって惹き起こされた法律的責任と政治的責任を、一片の詫び状でないがしろにしてしまうというのです。これは許されないことです。
まず法律的責任についてです。この損害賠償訴訟の被告は国立市と国立市長(上原公子)の2人になっています。しかも裁判所は市と上原市長の共同不法行為性を明確に認定しているのです。であれば市は、前市長に求償権をもって2500万円の一定の負担(例えば50%)を要求して当然のはずです。今日の銀行等の経営者がそうであるように、株主ならず市民に対し損害を与えた責任を個人的にも果たすのが当たり前なのです。そのために在職中の代償としての退職金はあるのではないでしょうか。
ついで政治的責任があります。自らの住民活動家としての思想のために、市政を道具として利用した責任は決して小さくないはずです。景観保護の市民運動という美名の下に、法的ルールを無視しての無政府主義的行動は、事後法での営業妨害であれ電気水道を止める行為であれ、国立の町に大きな混乱を招きました。市議会の議決も無視します。いわば国立は無法地帯となりました。この一種の原理主義が国立が誇る地方自治や民主主義と混在化され、国立の名に傷を残したのです。
それにも関わらず昨日今日、市長と市議会は上原前市長の行為を一片の侘び文で免責させ、コトを納めさせることとしたのです。果たしてこの甘い決着によって問われることになるのは、「利息分なら僕のポケットマネーで」と思わず口ずさんだという後任市長の能天気ぶりだけではありません。一連の野放図な市政を事実上容認することで、市議会は自らの責任までも放棄しようとしていることに気づくべきです。市長の監視を厳しく追求することこそ、市議会の一義的な存在意義ではなかったでしょうか。
騒ぐだけ騒いでマスコミの注目を愉しみ、しかしその行為の責任は結局曖昧にされ許されていく風土。これでは国立の街が変わるはずなどありません。「国立には魔物が住む」。こう近隣の市の人たちから言われる所以を噛みしめなくてはならない、今日の国立市の事態をそう嘆かずにはおれません。