嶋津隆文オフィシャルブログ

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これは納得いかない、前国立市長への免責

2008年03月27日 | Weblog

先般、国立の明和マンションに係る最高裁の判決が出され、被告となっていた国立市および国立市長(上原公子)の2500万円の賠償およびその利息負担が確定しました(3月14日付けブログ参照)。しかしそれに対し現市長は、上原前市長への負担は求めず3月末までに全額賠償金等を国立市が明和に支払うこととし、また市議会は上原前市長の謝罪文を提出させることでこれを容認したということです。

これはおよそ納得できる話しではありません。

そもそも平成17年末に、一審での市負担の4億円賠償額を2500万円に圧縮した高裁判決が出ました。これは明らかに喧嘩両成敗とした裁判所側からの和解のメッセージとみるのが法曹界の常識でした。市議会もその空気を読んでか裁判収束の決議をしました。にも拘らず上原市長シンパの補助参加人が上告し、その行動を上原市長は追認して今日の市民負担増の事態に至ったのです。いわば市民の税負担を無視した、敗戦を承知の宣伝工作優先の玉砕戦法とも言うべきものです。

司法判断はこうです。
「建設計画が公になっていない時点で(情報を仲間の)住民らに話し、反対運動を促した」「市議会で(法を守って建築した明和マンションを)違反建築物と答弁し、それを補助参加人らが街頭で宣伝した」
とまず、営業妨害性を指弾します。加えて、
「(上原市長の言動は)首長に要請される中立性・公正性を逸脱している」
「異例かつ執拗な行為であり、社会通念上許容される限度を逸脱している」
と市長の公人としての常軌を逸した活動家性を指摘したのです。

そうした国立市への司法機関による批判は、一度判決文に目を通した人なら誰でも驚くほどに厳しいものでした。そこでの前市長の極端な行動によって惹き起こされた法律的責任と政治的責任を、一片の詫び状でないがしろにしてしまうというのです。これは許されないことです。

まず法律的責任についてです。この損害賠償訴訟の被告は国立市と国立市長(上原公子)の2人になっています。しかも裁判所は市と上原市長の共同不法行為性を明確に認定しているのです。であれば市は、前市長に求償権をもって2500万円の一定の負担(例えば50%)を要求して当然のはずです。今日の銀行等の経営者がそうであるように、株主ならず市民に対し損害を与えた責任を個人的にも果たすのが当たり前なのです。そのために在職中の代償としての退職金はあるのではないでしょうか。 

ついで政治的責任があります。自らの住民活動家としての思想のために、市政を道具として利用した責任は決して小さくないはずです。景観保護の市民運動という美名の下に、法的ルールを無視しての無政府主義的行動は、事後法での営業妨害であれ電気水道を止める行為であれ、国立の町に大きな混乱を招きました。市議会の議決も無視します。いわば国立は無法地帯となりました。この一種の原理主義が国立が誇る地方自治や民主主義と混在化され、国立の名に傷を残したのです。

それにも関わらず昨日今日、市長と市議会は上原前市長の行為を一片の侘び文で免責させ、コトを納めさせることとしたのです。果たしてこの甘い決着によって問われることになるのは、「利息分なら僕のポケットマネーで」と思わず口ずさんだという後任市長の能天気ぶりだけではありません。一連の野放図な市政を事実上容認することで、市議会は自らの責任までも放棄しようとしていることに気づくべきです。市長の監視を厳しく追求することこそ、市議会の一義的な存在意義ではなかったでしょうか。

騒ぐだけ騒いでマスコミの注目を愉しみ、しかしその行為の責任は結局曖昧にされ許されていく風土。これでは国立の街が変わるはずなどありません。「国立には魔物が住む」。こう近隣の市の人たちから言われる所以を噛みしめなくてはならない、今日の国立市の事態をそう嘆かずにはおれません。

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若松孝二監督「実録・連合赤軍」をみる

2008年03月25日 | Weblog

若者に未熟さと残酷さが入り混じるのは、いつの時代も変わりないのかも知れません。そう思いつつも、偶然ともいうべき出来事によって、しかし確実にその人の人生が決定的に変わっていく姿を見ると、この春から本格的に教育者の端くれになろうとしている自分には、ふと立ち止まってしまうことがあるというものです。

先週の土曜日に若松孝二監督の「実録・連合赤軍」を見にテアトル新宿に足を運びました。副題「あさま山荘への道程」。山岳ベースで共産主義化が出来ていないとの追及の中で仲間14人を集団粛清し、そして警官ら3人も殺害する過程を描いたものです。戦後最大の事件と言われ、私たち団塊の世代にとっては30年前の惨事でなく、常にほんの昨日のことといえる生々しい出来事です。

同じ連合赤軍のリンチ事件を扱って7年前に高橋伴明監督が「光の雨」を作成しました。「光の雨」は立松和平の原作です。当事者がいずれもキャンパスに隣り合っていた同世代人ということもあって、あの事件をそれぞれどう「総括」するかは70年代を学生として過ごした多くの者にとってずっと引きずってきた課題といえます。高橋伴明も立松和平も、みなその世代の等しい想いに悶々としてきたように思うのです。

しかし今回の若松映画は、伴明と和平のものと比較すると格段の迫力をもっているといえます。それは人間としてのちょっとした嫉妬心や自己保身的な背伸びが、その出された状況によってはとてつもなく陰惨な事態を引き起こしていくことがあり、その形成過程がおぞましいほどリアルに描かれていたからなのです。

若松孝二の凄さは、すなわち連合赤軍のリンチを変に思想性といった崇高めいたものとせず、ささやかな、日常的に極めてフツーの人間的感情が、もっとも悲惨な事態をもたらすという人間社会のおぞましさを描いたところに、映画を見ていて身体が震えるほどの真実性を感じさせたことです。

ああそうなんだと、私は映画館を後にしながら思いついたのです。すなわち連合赤軍のリンチ事件の総括は、結局同じ甘さや弱さをもった同世代の団塊人によっては描き切れず、戦中派たる昭和17年生まれの、赤軍とともに歩んできた男のリアリズムによってなされたのではないかと思ったのです。

当の土曜日は封切りの日であり、若松監督ら出演者の舞台挨拶がありました。その時壇上の監督に向かいある男がフロアーから叫びました。「こうした丁寧な映画を作ってくれたことに心から感謝したい」と。叫びながら涙ぐんでいました。たぶん我々団塊の世代の一人に違いありません。

その映画館での余韻が消えない1昨日、地元の国立市の第1中学校で同中学出身の早大の白井克彦総長と政経の田勢康弘教授(前の日経記者)の教育論に関する講演会があり出席しました。そのなかで今の学生たちの学力の低さを嘆きながら、何と田勢教授が「学期末の試験では『お母さんへ』という題で作文させ、それを母親に送っている」という話しをしていました。東大の講師をしている時からこの出題をし、作文力を養成するとともに親御さんにも好評を得ているということでした。

言葉を失います。

20歳前後の学生の、稚拙さというものはいつの時代も変わらないというべきでしょうか。
日本と日本人は一体どうなってしまったのでしょう。しかしそのことで団塊世代が若い世代を指弾しようとするとしたら、その前に自らですべき戦後教育の総括作業があるだろうとは言っておかなくてはなりません。

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国立マンション訴訟、戦いすんで日が暮れて

2008年03月14日 | Weblog

国立市の大学通り、明和マンションの建設に係る最高裁の判決が3月11日に出ました。2審の高裁判決(平成17年12月)を再確認であり、国立市の敗訴が確定しました。しかしこの訴訟に関して出された高裁、最高裁の判決は極めて特異な内容になっていることに気づかねばなりません。市が負担すべきとされた賠償金2500万円の賠償の根拠が、いわゆる景観問題の是非というのでなく、むしろ上原公子(前市長)なる個人の過激な言動にあるということです。

「建設計画が公になっていない時点で(情報を仲間の)住民らに話し、反対運動を促した」
「市議会で(法的に瑕疵なく建築手続を行った明和マンションを)違反建築物と答弁した」
これが市敗訴の判決に理由なのです。国立の市長というより一介のラジカルな住民活動家として、明和マンションを糾弾しようとした行為が責任の根拠になっているのです。

先の高裁判決ではさらに、次のように前市長が判決文の中で批判されていました。
「(上原市長の言動は)首長に要請される中立性・公正性を逸脱している」
「異例かつ執拗な行為であり、社会通念上許容される限度を逸脱している」
ちなみに上原市長は、反対運動を徹底するために、明和マンションの電気や水道の供給までも留保するよう管理者たる東京都に働きかけました。生活の基本を断たれようとしたマンション住民の怒りは未だに収まらず、今日に尾をひいています。

確かに明和マンションの高さには、大学通りの景観上に違和感があったことは私自身も否定しません。しかし高さの制限については、久しく国立市が行政として手をこまねいてきたところに原因があるのです。その行政の無作為を棚に上げ、目に付いた個別例を難詰し、しかも現物の建物が立ってしまった後もその取壊しを叫び続けているのです。捕鯨船に反対する余り危険物を投げてよしとするテロリスト「シー・シェパード」の行為と二重写しになるといったら言葉が過ぎるでしょうか。理念が正しいと思いつめることで、既存の法手続きを無視することが許されるとしたら、法治社会とはいえません。

戦いすんで日が暮れて・・。騒動は去り、判決は上原派敗訴で確定しました。しかしマンションは厳然と残っています。その上で残されたのは財政逼迫する国立市に降ってかかる2500万円もの賠償金と膨大な弁護士費用です。財政難の国立市はこの大きな額をどういった形で支払っていこうとするのでしょう。いうまでもなく上原市長は市政から離れました。

国立市内全般での建物の高さ制限については、次年度に国立市では規制作業に入るとの方針が出されました。まことに遅れての着手だとは思いながら、これも市がとるべきマンション騒動の一つの教訓だと評価します。しかし市民負担の肥大化の視点を欠き、諸判決が出された段階での現実的な着地を考慮せず、負け戦を承知でただひたすら突っ込んでいった上原前市長は、この戦争責任のオトシマエをどうつけるつもりでしょう。和解して明和地所から景観保護の協力金などを出させるなどの現実的な選択もあったはずです。

賠償額の高さと上原責任明記の判決文をみるならば、少なくとも前市長は国立市との共同不法行為責任を負わなければならないものと思えます。賠償の支払いについてはそれが市税であるだけに曖昧には出来ないものです。銀行の経営者がそうであるように、株主ならず市民に対し損害を与えた責任を個人的にも負うことが当然なのです。まして政治とは結果責任が問われるもの。自らの住民活動家としての思想のために、市政を道具として利用した責任は決して小さくはないと考えます。

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国立駅の南口公共施設用地(モデルプラン)への8委員意見

2008年03月06日 | Weblog

今月中にもまとめられるという国立駅周辺まちづくり計画に関し、2月末に作業部会がもたれました。そこで8人全員の委員からの意見が出されました。歯がゆい思いつき論に留まる委員がいる一方で、財源と実現性を直視しようとする指摘が多く、良心と危機感のあるメンバーが存在することに少なからず納得しました。

逆にいえば、殆ど全員の委員がお金や交渉面に無頓着な市政に苛立っているように見えるのです。今回はそうした意見を掲載することで、南口公共施設用地の活用計画(モデルプラン)づくりに一貫して混迷してきた国立革新市政の姿を改めて指摘しておきたいと思います。

(笠井委員)南口のビルが8階立てなら尖塔のような感じにしてレストランやカフェをおく。下の方には医療施設や図書館をおくとよい。「新駅デザイン」に殆ど(JRに市に意見が)反映させられなかった同じ轍を踏むことのないよう交渉に臨んでほしい。

(南委員)モデルプランでは建設工事費が85万円/㎡で170億円(延べ面積2万㎡)とあるが市の財政状況からして適当であるのか。商業的価値の非常に高い空間を公共用途や非収益部門で利用するより市民と市財政に有利な計画を調整すべきである。今後どんな体制とスケジュールで取り組むつもりか説明されたい。

(成瀬委員)モデルプランは費用対効果のバランスが取れるかの不安を感ずる。運営を民間に委託しての方法も考慮に入れ複数案の提示を希望したい。出来るだけ商業空間として活用し財政赤字の軽減に供すべきである。

(中町委員)モデルプランの平面計画での低層部の賑わいの演出や全体との動線モデルとしては現実性に乏しい。財政、費用対効果、可能性を論ずることは容易ではないが、知恵を出さなくてはいけない。

(下山委員)遠方から訪れた方を市内に宿泊してもらう宿泊施設をつくるべきである。

(高橋委員)事業には民間活力を最大限に取り入れることが必要であろう。それには国立市のビジョン、事業展開のコンセプト、それから生じる制約・条件を明確に示すことが求まられる。高層部分にホテルをつくることには消極的にならざるを得ない。

(根本委員)心配はこの計画は市民が勝手に作ったものといわれ、今後多くの利害関係者との交渉で全く白紙からやり直すことになるということだ。国立市、JR東日本の間ではコミュニケーションが図られていない。駅舎復元のため市による用地の購入や借地は難しいので用地を生み出すことはできるのか。市はJRと協力していくべきである。

(内山委員)公共用地の買い戻し費用28億円を考慮するとモデルプランでの投資効果は非常に低い。床面積の増床を図りより有効な利用を図るべきである。この地の価値は建築可能面積で検討すると33,917㎡となる(プランでは19,300㎡)。

このように各委員のポイントを整理してみると浮かび上がることがあります。すなわち財源がゴソっと欠落した国立市の論議では、もう誰もが不安になっているということです。計画の実現性が危うく、JRも東京都も相手にしないのではと感じているのです。それなのに今回の計画づくりも当初から私自身も心配してきたように財源の検討のないまま(あるいは秘匿したまま)に公表されるのです。

ある委員が指摘するように、例えば費用対効果を考えた複数案を出し、それで将来のプランを市民に問わねばいけないはずです。市長がこのことを理解しないなら、事務方で作ればいいのです。「上がダメなら下もダメ」とは近隣の市長さんたちの言です。カネと時間を軽視した市政では、後になればなるほど手痛い火傷を負うことに、もう国立市民は気づかねばならないはずです。

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