巨星、墜つ。平凡な表現とはいえ、この言葉が口に出ます。“世界のオザワ”が逝ってしましました。88歳は若い。どうしようもなく寂しいものです。
始めて演奏を聴いたのは40年前のボストンフィルの舞台。登壇し、瞬時にタクトを挙げたその自信と迫力に驚愕したものでした。夏のタングルウッド音楽祭での、家族とともに芝生に横たわって聴いた小澤指揮のチャイコフスキーなどは最高の贅沢でした。
しかし遠い存在だった彼が一挙に身近な存在となったのは、昨年から取り組んでいる『中央線沿線物語』の執筆がきっかけです。小澤征爾が家族とともに満州から移り住んだのは立川市柴崎。6歳の時です。そこで若草幼稚園、柴崎小と過ごし、6年後の12歳の時に立川を離れます。取材で訪れた若草幼稚園の園長さんの叔母がこんな思い出を語ってくれたのです。
「セイジちゃんと言えば、すぐ近くの空き地で10人くらいで戦争ごっこをやった時、エイコ上等兵行け!なんて命令されたことがありましたね。家に入ると、目の前に大きなピアノが置いてありました」。
地元の人が懐かしみを込めて語る小澤征爾。“世界のオザワ”は、ここ立川では“柴崎のセイジちゃん”なのです。地元の誇りです。そして間違いなく、立川在住の私にとっても誇りなのです。
小3になった孫が、頼朝や島津義弘あるいはチンギス汗など、洋の東西を問わず歴史に関心を持ち、あれこれ本をめくるようになった。歴史好きの私にしてみれば、何とも好ましい光景と目を悦んでしまう。
人生100年の終章をどう過ごすか。それこそ人さまざまだろう。が、私にはやはり時空を越えての人間ドラマの追求にこそ関心が向く。そんな趣味が一番の長寿薬とも思い始めている。
そう考えると、我が家近くは近現代史の宝庫のように思えてくる。陸軍立川飛行場跡や宇垣一成の揮毫碑、戦後では詩人草野心平、芥川賞作家の中上健次、あるいはロックの忌野清志郎の実家など、界隈は歴史の資料室である。正月には孫が来る。一緒に散策することとしよう。
しかしそんな私の期待ぶりを見て、「お正月早々、小さな子供に押し付けなどするとすぐ嫌われるわよ」と家人。歴史の長さとは違い、自らの居場所が狭くなるを痛感する、辰年新春の朝というものである。
半月前から読売新聞で多和田葉子の新連載小説が始まった。ワクワクする。彼女は近所の国立富士見台団地で育った。1993年に『犬婿入り』で芥川賞受賞。最近はノーベル賞への期待が高い。先般、そんな彼女の父親に多和田栄治氏にお会いする機会を持てた。少女期の様子を訊ねるとこんなエピソードを語ってくれた。
「外国の絵本や小説に興味を持ちましたね。それを見て私は、作家に直接手紙を書いて感想を伝えなさい、つたない英語でいいからと言っていたのです。作家の住所は私の方で探すからと」。
父は娘と同じ早大露文卒業。書籍輸入や翻訳出版を生業とする。海外での知人友人も多い。
「いや私は体験することこそとても大事と考えています。葉子は学生の頃ナホトカからシベリア鉄道で欧州へ旅したり、インド、ネパールへギターだけ持って回ったり、世界各地を訪れるのですが、どの国であれ危険だから行くのはやめなさいと言ったことは一度もありません。その体験が葉子の作品と自信を作っています。ある授賞式のスピーチで、「父は私の行動に一切口を挟むことがなかった、本当に感謝してます」と褒められましたよ(笑)」。
文字通り厳しさと優しさをもつ父の娘への思い。いい新年が迎えられそうと、ちょっと幸せな気分で帰宅したものである。
新聞を見るのは怖い。余りにイスラエルのガザ襲撃は残酷だ。新聞の人生蘭に読者の、そんな相談が載っていた。そのとき思い出したのがニューヨークに駐在していた30年前のこと。ちょうどイスラエルから帰ったばかりの時である。知り合いのテレビ局のユダヤ女性から突然にこう話しかけられたのだ。
「えっMrしまづ、マサダの砦に行ってきたんですか、死海の傍の? ありがとう。あの砦の悲劇を私たちユダヤ人は絶対に忘れることはありませんから」。
マサダの砦は2000年前にローマによって、ユダヤ王国が家族ともども滅された舞台だ。以来ユダヤ人は世界を放浪する。各地で迫害され、ナチスによるガス室での大量虐殺の記憶は人類の差別の原罪のように我々にも染み付いている。発端となったそんなマサダの虐殺を、彼女はまるで昨日のことのように激しい怒りをもって語ったものである。
しかしそのユダヤ人が、いまガザで行っている無差別殺人は、アウシュビッツの収容所と変わらない。パレスチナとの共存を約束しながら、その軍事力で入植し、次々とパレスチナ地区を狭めたイスラエル。しかも追い込まれたパレスチナ人が窮鼠猫を食む行動をとったことを奇貨とし、その老若ともども抹殺に走っているのだ。
ユダヤ人自身がガザで行うホロコースト。2000年前の悲劇の復讐と重ねての、ユダヤの執拗な民族至上主義には憤然とする外ない。
ここ暫く作家辻邦生の経歴を、特に国分寺に住んでいた時代について取材を重ねている。するとちょっとした「大発見」をすることがある。それが国分寺での村上春樹との点と線だ。
作家辻邦生と妻佐保子。国分寺の地にすこぶる深い愛着を持ち続けた夫妻である。結婚後の昭和28年から20年近く、国分寺市東元町に住む。
「中央線国分寺駅の南口を出て、右手の方にしばらくゆくと、両側を石垣に囲まれた切り通しの坂道に出る。今ではすっかり昔の面影は失われ、坂を横切って低地をレンゲの咲く野原に囲まれていた野川は、無愛想なコンクリート製の排水路に変わってしまった。ここから小金井の貫井あたりまでは、大岡昇平の『武蔵野夫人』に登場する土地であり、坂を上って少し先を左手に下ると、国分寺の遺跡に出る。私たちが国分寺町二四八五番地(後に東元町となる)に住み始めた昭和28年ころには、近くの農家の周りにキラキラ光る湧き水が流れていた」(『辻邦生のために』辻佐保子)。
先般、この地を探しに訪れた私は、辻邦生の家が何と野川をはさんで村上春樹の暮らしたマンションと目と鼻の先であったことに驚かされた。辻が高輪に引っ越したのが昭和46年。その年に村上は国分寺に引っ越し(当初は中央線沿いにすむが騒音に耐え切れずすぐ多喜窪通りに転居)、翌年に伝説のジャズ喫茶「ピーターキャッツ」を開店しているのだ。
作風も生き様も全く異なる辻邦生と村上春樹。この二人が同時期に、同じ通り沿いに並ぶように住んでいたというのである。奇遇という外ない。いやそれだけのことである。が、しかし文学ファンにとって、これを「大発見」といわずして何というのだ。
7月4日の夜、ヤクルト戦を観ていると携帯電話が鳴りました。知らない番号です。いぶかしんでソッと電話を取ると、「あの、橋本五郎ですが…」というテレビで聞きなれた声。「ハガキ届きました。有難うございました」というのです。
実は読売新聞が連載する「五郎ワールド」7月1日号に、「自慢高慢バカのうち」というエッセイに載っており、その軽妙洒脱な内容に思わず、ファンレターを送ったのです。素材は巨人-ヤクルト戦でノーバウンドで投げた始球式の「自慢話」。
「おや?っと何気なく読み始め、やがて大声で笑ってしまい、しかし読みえ終えて思わず涙してしまいました。素晴らしいエッセイを有難うございました」。
こう書いた私のハガキに五郎さんは素直に喜んでくれたでしょう、話は大いに弾みました。「いや実は、私の投げている写真をコラージュにしたかったのです。でも残念にもダメだったんですよ(笑)」と内輪話まで披露。
読売の大編集委員が、届けられた小さなハガキに直接にお礼電話を入れてくる。その気配りに、エッセイの爽やかさが更に増幅され、一日中、気持ちのいい時間を過ごしたというものです。
「少飛の会」(陸軍少飛平和祈念の会)の菊池乙夫会長が亡くなりました。この会は立川飛行場に隣接した陸軍少年飛行兵学校の出身者たちが軸となって数年前に発足したもの。証言録の作成や記念館の開設を目的とし、私もその一メンバーです。
菊池会長の、ビデオインタビューの文字起こしにも関与した自分にとって、80年前を昨日のことのように語る記憶力の凄さには圧倒されたものです。ジャワ島で、特攻訓練といいながら肝心の特攻機はもはやなく、何と重爆機でしか訓練できなかったこと、終戦直後にオランダ空軍の指揮下で「(日の丸を塗り替えた)緑十字機」を飛行した経緯など、活字とは違う、生の歴史の貴重な述懐には、身震さえしたものです。
菊池会長は昭和3年生まれ。人生100年時代というのであればまだまだ歴史を語り継いで頂きたかったものと残念でなりません。冥福をお祈りするばかりです。