Silver linings

カリフォルニアで子育てとか仕事とか。

イサムノグチ庭園美術館

2008-03-29 23:53:38 | 本/心に残ったコトバ
先月、イサムノグチ庭園美術館に行った時のことを書こう書こうと思っていて途中になっていたのでようやくアップ。

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直島をあとにして、フェリーで高松へ。
高松からイサムノグチ庭園美術館へ向かう。

イサムノグチ庭園美術館は、火木土しか開いていなく、鑑賞するのに予約の必要があります。その方法は、「往復はがき」のみ。ちょっと大変、でも友達にしてもらいました。(そんなところなので写真撮影はもちろん不可)

「まだかなー」と車を走らせるていると、「近づいてくると石がたくさん見えてくるからわかるよ」と同僚。
そう言われても想像がつかなかったけれど、現場に近づいてやっとその意味もわかりました。

香川県、牟礼は石の産地。

ここにはイサム・ノグチ晩年の住居と、アトリエがあります。アトリエ内の道具など、当時のままの状態で残されています。
アトリエでもある野外制作現場はまるい石垣に囲まれていました。この石垣もイサムが積み上げたもの。まるい仕事場。いいねー、まず自分の仕事場を築くというのは。
この自然のなかで熟考し、このマルのなかでつくったのだな。
マルの中には石の彫刻が置かれていました。「美術館」とは言え、彫刻にはタイトルもついていなく、完成した作品、未完成の作品とばらばら。無造作にごろごろ転がっているようで、きちんとイサムによって配置が考えられていたらしい。ひとつひとつに説明がない代わりに、全体で、その場所全体から感じるエネルギーがありました。なんだろうね、あれは。場所全体からの何か澄んだエネルギー。

まぁ本当にここは、何もかもがきれいです。それにつきる。
きちんと整っていて、美しい。仕事場も、アトリエも、周辺も。
主はいないのに、ピンと張りつめた緊張感が今も残る。緊張感は硬質な石々からただよってくるのだろうな。アトリエ横にあるちょうどいい具合に生い茂る楠の木は、聞けば最も美しく見えるバランスを考えて地中に幹を半分埋めてあるのだとか。視界に入るものの、配置やバランスが絶妙。

そんなふうだからここにいる間じゅう、感性は刺激されっぱなし。
石に対しても、そう。今まで石の作品ってあまり鑑賞したことがないし、石自体にそれほど注意なんて払ってこなかった。その質感とか、色、表面、硬さ、冷たさ、迫力、重量感、石と光の関係、、、そんなこと全然気にせず生きてきたように思います。だけど、数々の作品、製作途中のものも含めて、あれほどたくさんの石の表情に出会った(意識した)のは初めてで、一度気になりだすと、力強さ、柔らかさ、様々な石の肌・石の顔が見えました。それが私にとっては発見だった。

彼の住居も覗いてきました。
「家庭生活を始めるのに必要なのは、台所と、寝床と、あかりである。」
と彼は言ったそうですが、その佇まいとしつらえからはイサムの美意識がうかがえます。印象は「風」だな。イサム提灯の「あかり」がゆらゆらと幻想的に風に揺れ、庭の竹も風が吹くたびにサワサワサワサワ…。地面の上に竹が揺れるごとに散らばった光と影がすごくきれいでした。いつも風の吹き抜ける家は和紙やあかりが揺れ、幻想的な不思議な空間でした。京都でお寺を拝観する時とは違う自分の中の「日本人-ness」が揺さぶられた感じ。

「世界中を旅してみたけれど、ここからの眺めが一番好きだ。」

イサムがそう言った丘は住居の裏にあります。
彼が立っていたその丘に、私も立ってみました。採石場、石切り場、住宅が密集し、その向こうにきれいな稜線を描く山が見えます。カツーンカツンと石を切り出す音も聞こえます。

価値あるものはすべて、最後には贈り物として残る。
その人が生きた場、考えた場、その人の息づかいが聞こえてくるような場、
主なき後もただならぬインスピレーションただようこの場所、
ほんとうに贈り物だよね。

かなり満足してここを去る。でもまた行きたい。
イサムは春と秋の季節にしかこの場にいなかった(それが最も美しい季節だから)というけれど、その時期にいくとまた景色が違うのだろうな!

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牟礼から丸亀へ戻り、
猪熊弦一郎美術館へ寄って京都へ戻る。

夕暮れ空バックに美術館。
丸亀駅前にふつうにこんな光景、すごい。