町田康さん、『宿屋めぐり』

 数年ぶりに読む町田さん。タイトル以外の情報は一切なしだったので、おおおこんな話でしたか…!とのけぞった。嬉しい驚き。面白かったー。
 先週の京都オフの前から読みだして、道草を喰ったりしながらちんたらちんたらと読んでしまった…。

 『宿屋めぐり』、町田康を読みました。


 どんなに斜に構えて気難しげにしていたところで、中身がダメダメじゃあ格好悪いだけだなぁ…と思いながら、主人公の不器用で滑稽で七転八倒な姿にちょいと身がすくむ。こっちまで泣き笑いが入ってくる。この人の弱さも狡さも愚かさも、私には全然責められないなぁ…(とほほ)。しかしそれもまた、愛おしいではないですか。

 癖になりそうな独特な語り口がとても面白く、そのテンポにひき込まれて物語の中に入っていけた。で、その物語の世界が、これまたすこぶる特異だった。いわゆる時代考証なんぞは、鹿十(“しかと”って、そういう意味だったのか…)してかからねばならぬらしい。大刀を権現様に奉納といえば武士の世の中かと思いきや、現代としか思えない言葉がぽんぽん飛び出すのだもの。

 冒頭からして、素晴らしい。語り手でもある主人公・鋤名彦名の与り知らぬところで、すでに異界への扉がぱっくりと開き始めているような予感に満ちている。すれ違う人また人のことごとくが、額や頬に丸い朱印を押してもらっているのに、彼一人だけが事情もわからず、その“人生がいい感じになる”ありがたい印を押し戴いてはいないのだ…。この、訳のわからない疎外感。きつねの里に旅人が迷い込む、日本昔話のような趣きの導入である。
 さらに訳のわからぬまま僧に追われる彼は、白いくにゅくにゅの帯に包まれて、いよいよ「偽」の世界へと“ばまりこむ”のであった。くにゅくにゅ…!

 物語の半ばまでは、ひたすら転がっていく話の展開が面白おかしく、くすくす笑いながら読み進めていった。雪だるま式に膨れ上がる罪状と、何とかかんとかそれらをかいくぐりながら移り変わっていく彦名の境遇。そうして徐々に気になってくるのが、“主”という存在である。 
 お調子者の主人公が、これほどまでに恐れる“主”というのはそも誰ぞ? どんな奇跡をも「“主”の差し金」とすら思わせるほどの、この「偽」の世界にまで絶大な力を及ぼすことの出来る“主”とはいったい…。
 はじめ、かつて主人公が放浪しているところを“主”に拾われたという設定から、「“主”=あるじ」と読んでいた。いささか内容が激甚ではあるが、何とか組的な主従関係だろうと解釈していたからである。それがだんだんに、「“主”=ぬし」と読めるようにも思えてくるし(主人公の名前からの連想もあり)、あるいはどう考えても「“主”=しゅ」としか読めない箇所も出てくるようになる。“しゅ”って言ったらあなた、えええ…。 
 そこのところであだこだ悩みだすと、この作品の深みにずぶずぶはまってしまいそうになる…。もしやこれは、神に試されし愚か者の受難の記なのか…?(…と考えると、あまりにも非情で残酷な罰し方は旧約聖書を彷彿とさせるが…うーん)。
 
 はっきり言って、主従関係とか忠誠心とかには共感出来るところはなかったけれど、例えば「まともでない世界でまともに生きられないものの真のまともさ」を説く“主”の教えは、大変に興味深かった。
 鋤名彦名の、最後まで諦めない底なしの健気さ。一縷の望みにすら縋りつく一途さ。それなのに結局同じ過ちを何度も繰り返しては、どんな望みもその手からするすると逃してしまう…。その、人としての愚かさを克服できない情けなさに、何故か心を揺さぶられた。笑いながらも、じんとした。諦めなくていいのだ。

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