スティーヴ・エリクソン、『黒い時計の旅』

 なんと言う物語だろう…と、途方に暮れる。
 読み終えてからしばらくは、ぼーっと魂を飛ばされていた。少し落ち着いてから反芻して、頭の中でさらえてみる。するとやはり凄過ぎるので、またぞろ興奮が蘇ってしまう。背中がざわざわ落ち着かない気分で、溢れてくるものを持て余した。

 『黒い時計の旅』、スティーヴ・エリクソンを読みました。


 例えば、一つの文章に行きあたって、視界からいっきに霧が晴れたような気がする。一つの文章に行きあたって、「ああ、そういうことか! こことあそこが繋がって…!」と、天を仰いで叫びたくなる。 
 別の言い方をすれば、目の前のカードが一枚裏返ったと思ったら瞬くうちに、まわりの全てのカードがそれに繋がってパタパタパタ…ッと翻っていく瞬間。それまで見えていなかった別の光景が、一度にさあっと見えてくる瞬間。ポジとネガの反転。ただ目を瞠って立ち尽くすあの瞬間の射抜かれるような快感は、ちょっと言葉では伝えきれない…。
 と、言いつつ。
 この物語の孕んだ混淆と錯綜、その驚くべき重層性が明らかになればなるほどに、もっともっと高いところまで翔けあがって、物語の全貌を隅々まで余すところなく、一望のもとに見晴るかす視点から鳥瞰出来るものならば…!と、焦がれるように何度も思った。それを出来ない自分がもどかしくて、居てもたってもいられなくなった。何度も頭の中で整理しながら読み進んでいくだけでも充分に面白いのに、ここに描き込まれた全てを俯瞰する全能感を味わいたくて仕方がなくなるのだ。こんな風に、物語の中の神の視点が欲しくて欲しくて胸が苦しくなるほどの作品には、なかなか出会えないと思う…。

 始めに登場するのは、本土の船着場とダヴンホール島の間をかけ渡す船を操るマークである。船長であり、白い髪の水上修道士でもある。彼はダヴンホール島のチャイナ・タウンにおける唯一の白人の子供だったが、母親の足元に見知らぬ男の死体が横たわっているのを見たある夜、島を去る決心をする。その19歳のときの衝動は彼に、15年にも及ぶ年月を、本土と島を隔てる川を観光客を運んで行き来することにのみ(あと、若いうちは女の子と寝る)費やす人生をもたらしたのであったが…。
 心惹かれた青いドレスの娘を探し求めて街へ戻ってきたマークが、15年振りに母親に再会したとき、ずっと昔に死んだはずの見知らぬ男の幽霊が語りだす、二つの二十世紀とは。

 その声は、バニング・ジェーンライトと名乗る。1938年のウィーンで一人の女と視線を交わした瞬間に、二十世紀がまっ二つに切り裂かれるのを目の当たりにしたただ一人の男である。 
 インディアンの血をひく大男の彼は、罪を犯したニューヨークからウィーンへと逃れ、そこで依頼人Zの為に小説(果たして“ポルノ”と言い切ってしまっていいのか? おぞましい深淵が描かれているのであろう小説)を書き連ねなければならない立場になったいきさつを語る。依頼人Zとは、ヒトラーのことを指すらしい。
 二つの二十世紀は、各々がただパラレルに展開していくだけではなく、時折接触し侵食を起こす。そしてまた離れ、隣りあって流れていく。バニングが書き続けている小説も、徐々に現実を侵していく…。世界がそうやって複雑にねじれ重なり合うために、幾人もの男たちの夢を踊らされてきたデーニアは、三つの瞬間に同時に存在しなければならなくなる。さらにバニングが謀る復讐によっても、世界はますます歪んでいく。

 ドイツが負けた二十世紀と、ドイツが敗れずにヒトラーが死んでいなかったもう一つの二十世紀。それを並べて描くという発想自体も凄まじいと思うが、世紀の怪物ヒトラーに老いさらばえさせ、その無残な姿を徹底的に描く筆力にも、心胆寒からしめるものがある。 
 そんな驚異の物語にも、流れ着く岸辺はあった。
 そしてやってくる、カタルシスの波。読み終えてからしばらくは、ぼーっと魂を飛ばされていた。

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