若合春侑さん、『腦病院へまゐります。』

 もちろんのこと、タイトル買いである。不穏で面妖なこのタイトル。 
 「腦病院へまゐります。」とはね…! そんな場所に自ら赴く宣言とは、いったい誰から誰に向けられたものなのか…?

 『腦病院へまゐります。』、若合春侑を読みました。


〔 おまへさま、まうやめませう、私達。
 私は、南品川のゼエムス坂病院へまゐります。苦しいのは、まう澤山だ。〕 9頁

 極端なものに惹かれやすい故、かなり圧倒されながら夢中で読んだ。
 これは、“カフエー”の女給をしていた左程若くもない女性(傷痍軍人の妻であることが後でわかる)から、一回り年下の“おまへさま”に宛ててしたためられた書簡である。高村智恵子がゼエムス坂病院に入院した年ということなので、昭和十年前後の話。 
 二人は“カフエー”で知り合った。谷崎の悪魔主義にどっぷり心酔した青年から、変態性交の実地体験をするための道具にされた語り手は、あらゆる凌辱を加えられながらも“おまへさま”を受け入れ続け、愛を捧げてきたことを縷々書き付けていく…。 

 その内容のおぞましさもさることながら、彼女の異常なまでの一途さは、背筋が凍るほどに恐ろしい。暗愚なまでに一途。おのれをひたすら虚しくし、最後には自分を失くしてまでして相手に尽くすこと。尽くして尽くして、ただ、相手の全てを受け入れる為の空っぽな器になりおおせること…。そんな盲目な愛情は、悪徳だ。醜くて、おぞましくて、身の毛のよだつ美しさだ。 
 そんな悪徳に溺れたまま、戻ってこられなくなるのも女の性なのか。その境地に至ったものにしかわからない何かが、きっとそこにはあるだろう。蔑み憐れむのは、あまりにも傲慢か。

 旧字体や旧仮名遣いが、これほどまでに禍々しく目に映ることに、手酷く裏切られたような気分になった。とりわけ、画数が多くて見慣れない形の旧漢字がびっしりと並ぶ様を見ていると、過剰な線や点が虫の触手のようにざわざわと蠢き出しそうな気すらしてくる。つまり、描かれているものに悪酔いをしていた。そうさせるだけの力が、この作品にはある。圧倒された。  


 「カタカナ三十九字の遺書」で描かれるのも、やはり虐げられた女である。表題作ほどに強烈な作品ではなかったものの、嫌悪感をかき立てられつつこれまた読まされた。

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