皆川博子さん、『総統の子ら』

 朝の光の中で読み終わる。最後のページで涙をこぼした。
 『総統の子ら』、皆川博子を読みました。

 “ヒトラーが黒くなればなるほど、それを倒した連合軍は、英米もソ連も、無垢の白さで輝くというわけだ。” 下巻372頁

 素晴らしい読み応えだった。彼らの姿が言葉が叫びが、こびりついて離れない。
 大戦末期のドイツを題材にした皆川作品には『死の泉』があるが、あちらの世界に濃密にあふれていた幻想性は、この作品の中では殆ど見られない。巻末に載せられた膨大な主要参考資料に目を瞠りつつ、そこから得た情報を緻密に積み上げていく力強い文体を思って大いに頷く。
 再現されたかつてのドイツ。その時代の奔流の勢い、翻弄される人々の姿…。あまりにも清廉で純粋な魂ゆえにこそ、ヒトラーを心から慕い敬った少年たちの一途な思いはいったいどこにたどり着けたのか。 

 酸鼻を極める戦場、戦闘につぐ戦闘。大義名分のもとに行われた殺戮の場面においてさえ、その筆致はいよいよ力強く容赦なく、まるで追い詰めるように迫ってくる。血で血を拭う戦争の最中に、主人公の一人は底無しの沼に溺れるように泥にまみれ続け、また別の一人は体の一部を損ないながらも一条の希望にすがり続ける…。 
 何故これほどまでに残酷な運命や残虐な戦場の光景を描くのか。いや、描かねばならないという強い思いはいったいどこから…と、しばし胸が苦しくなった。なんて凄い…と。  

 第二次世界大戦のドイツとくれば、誰だってヒトラーの存在やナチスのホロコーストを思い出すのではないか。かく言う私はそうだ。でも…。ナチスを台頭させてしまったことが、果たして本当にドイツの人々の許されまじき罪なのか。ナチスがしていたことを何も知らなかったことが? 誰にも全てを見晴るかすことなど出来はしないのに? 
 ホロコーストのことを一切知らされていなかった市井の人々が、戦争に敗れた途端に、ただドイツ人であるというだけで、人類史上最悪の罪を犯した加害者の立場に立たされてしまった。だから、どんなに酷く連合国から踏みにじられても、決して被害者の側にはなれなかった。そのことの意味について私は、今まで考えてみたことはなかった。そもそもこんなに酷いことを、ドイツがされていたことすら知らずにいた。酷い事をしたのはドイツ側だと、当たり前のように認識していた。
 つまりこういうことが歴史の暗部…なのだ。 

 終盤、主人公の一人がユダヤ人の強制収容所の写真を見せられ、ドイツ軍捕虜収容所の写真かと見間違える場面がある。それがとても痛ましかった。戦場での彼の勇気ある行動も、命がけで味方を守った武勲も、戦争で負けたらそれは犯罪になってしまう。勝者を裁けるものは誰もいないのだ。
 (2007.3.9)

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