山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

私小説的you tuber動画

2020-08-08 23:18:11 | 日記2020

昨日から、上林暁の短編小説を読み始めたのだが、今読んでいる作品は昭和14年~17年ころに発表されたものである。

実は、私は上林暁という作家の小説を読むのは、全く初めてであった。

それでも、読んだ瞬間にこれはその時代に代表される「私小説」と言われているものだなとわかったのだ。

一人称で書かれているからでもあるが、上林暁の個人情報と作品の内容が一致しているからでもある。

私小説というのは、全く事実そのままというわけではないのだが、やはり事実と重なる部分があって、作品の中の「私」と著者とは同一人物であり、作品を理解すれば、それはそのまま実在の作者を知ることに直結する感じなので、なかなか興味深いと感じる。

事実をもとにしているので、あんまり奇想天外なことは起こらず、日常の一コマを描いた随筆のようなこじんまりした作品が多いが、その中の出来事について主人公がどう受け止めているのかなどを読み進んでいくのがとても面白いので、私小説は結構好きである。

そのような「私小説」という小説区分は、日本独特のものであると聞いたことがある。海外にはあまりないらしい。

・・・

ところで、最近色々なyou tube  を見ているが、その中には自分の私生活を切り売りしているとしか思えないユーチューバーの動画がかなりある。

例えば音楽家が音楽演奏の動画を掲載したり、医者が病気について説明したりする動画は、その分野に関する情報発信を目的としているわけで、それは、その人の専門性であり、それを発信するのはその職業の活動の1つだろうと思える。

しかし、そういう人が、日常の朝ご飯を作って食べる姿や、時には寝起きなどの日常生活を動画にして掲載するようになると、それは、その人の生活自体が売り物になっていることになる。

それはちょっと方向性が違うような気もしてくる。

しかし、その中に、一般人的な生活の姿が描かれているのであれば、それはそれで興味深く、楽しいものでもあり、その動画自体に価値があることになる。

ということは、そのような自分の日常生活を撮影して動画とし、切り売りすることは、まるで昔の私小説作家が、日常生活を素材にして小説を書いていたのと同じではないだろうか。

もちろん、動画にしても、そこには作品として視聴者の興味をそそったり、何かインパクトを与えたり、共感させたりする工夫などがきちんとされ、綿密に構成されていると思える。

だから、それはそれで良いのではあるが、個人の多くの日常の状況を公衆の面前にさらしていくことのリスクというのは無いのだろうか?

昔の私小説作家も、恥ずかしい場面についてさえ作品として暴露し描いたりして、それによって原稿料をもらっていたわけなのだが、文字にするのと、映像で実際の状況が写るのとはまた違うような気もする。

日々、次々に作られて公開されるyou tube動画は、実況中継に近いものであり、小説のように後になって発表されるものではない。そして、続編が期待されるが、本人たちも明日はどうなっているのか、半年先はどうなっているのかわからないわけで、もし大きな変化が起きたときもそれを公表し続けていく覚悟があるのだろうか?

ユーチューバーとして収入を得て生活していくためには、かなりの視聴回数を上げないといけないそうだ。そのため、自分の専門分野のみならず、ペット動画を上げたり、日常生活を写したり、様々なパターンの視聴回数を上げやすい素材を次々に増やしていく。収益を得たいんだろうなあと、だんだん痛い感じになってくる。日常生活のすべてを公開し、切り売りする。

私小説ならぬ私動画は、公私を区別することが難しくなり、プライバシーもなくなり、面倒なことになりそうな気もするのである。

何を書いているのか、わからなくなってきたけど、結局、まとめると、私動画は私小説のような側面もあり、面白いけど、私的部分をリアルタイムに近いタイミングで公開しすぎる点について、個人のプライバシーが暴露され、いくら本人が自分の意思でやっているとはいえ、危惧する面が多い。

 

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コロナ見舞い・暑中見舞い

2020-08-08 10:42:02 | 日記2020

もう1か月も前の梅雨の頃、1枚の絵ハガキが届いた。

それは、娘が勤めているお店のオーナーからのもの。

大変な状況ですが一日も早い終息を願い安心安全な生活ができるよう頑張りましょう、という内容だった。

これは、新型コロナの大変な状況における見舞いであろう。

寒中見舞い・暑中見舞い、なんかがあるが、新型コロナ中見舞いというところか。

はがきをいただき、嬉しい思いだった。

お店や会社も大変な時だと思う。自粛していると店に勤務する時間は減るので他のことをする時間があるのかもしれない。
お店は営業時間を短縮したりしていて、その分、休日をなくしたりなどもして工夫していたようだ。

おそらく自分たちのほうが大変な時期だと思うが、そういうときも、店から足が遠のいている顧客にハガキを送ったりしているものと思える。

それと同時に、仕事関連の知り合いや、従業員の親にまでハガキを送ってくれるとは、驚きである。

娘が長年このお店に勤めているのも、このオーナーの人柄なのかなと思った。

一般的に、20代30代の若者にとって、経営者の年代はかなり上なので、物事に関する感覚も違う部分があるようである。社員旅行などに行っても、経営者と行動を共にするのは誰?みたいな感じになり、年寄りに行動を合わせる担当の譲り合いのような感じで敬遠されたりする。

年寄り集団がいれば、そういう世代の者たちで集まればよいが、若者だけの職場となると経営者は大変かもしれない。

若者たちは、年寄りは面倒くさいと思うことも多いようだ。若者は精神論を嫌うので「困難に耐えて頑張りましょう」なんていう意気込みをあらわにするのを嫌ったりする。

若者から年寄り扱いされがちな経営者も、私なんかよりは10歳くらい若いと思う。ちょっと前までは、業界で活躍し、若者があこがれるような存在だったはず。だが、やはり主役は次の世代へと移り変わっていく。

お店などは、今はラインやメールで顧客に音信を送っているので、ハガキを送ることも少なくなってきるのかもしれない。ハガキを送るというのは、古い手段ともいえるだろう。

それでも、物体としてのはがきが送られてくると、心が和むものだ。(それは私が年寄りだから?)

そんな心配りのあるオーナーだから、若者たちは、感覚が合わないとかめんどくさいとか、思うことがあったにせよ、そこで長年働いているのではないかと思うのだった。

それで、私はハガキのお返事を出さなければと思い、よさそうな絵柄のはがきを準備し、書こうと思って備えてはいたのだが、時が経つのが早くて、ついに8月になってしまった。梅雨も明けたので暑中見舞いにしようと考えた。

まさかまだ立秋ではないよねと思って調べると、かろうじてまだ残暑ではなく暑中で間に合うようだった。そうしてハガキに汚い字を書いて投函した。

そのことを娘に言うと、返信なんか出さなくてよかったのに、とのこと。
そういうものかな? いただいたら返すのが常識だと思ったのだが・・・。

それから、オーナーの日程によれば、宛先の場所にオーナーがやってくるのは8月中旬だとのことである。
な、なんとすでに暑中見舞いの時期は過ぎ、完全に残暑見舞いの時期になってしまうではないか。

私のへたくそな文字のはがきが、受け取り人不在の職場にずっと置かれているかと思うと恥ずかしいばかりだ。

 

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月見草(上林暁「花の精」)

2020-08-08 08:36:39 | 読書

この頃、月見草のことが気になっていた。
というのは、是政橋のことをブログに書いたことがきっかけで、上林暁の「花の精」という作品のことを教えていただき、そこにたくさんの「月見草」が登場していることを知ったからである。

月見草ってのは、この写真の花のことだよね。待宵草ともいう。

多摩川の河原あたりに群生しているんだったら、そんなにすごい花ではなく、ありふれたものだと思うので、作品の中の情景は、これが、いっぱい咲いていたんだろう想像していたのだ。

それで、昨日上林暁の「花の精」を読んでみると、物語は、まず最初に庭の月見草から始まっているのだった。
その花がもう少しで咲くので、楽しみにしていたところを、植木職人が剪定ばさみで切り倒し、根こそぎ取って処分してしまったのだそうだ。

その残念無念さがおさまらず、是政に月見草があると聞いて、川釣りをする友人と一緒に是政に行くというお話。そうして、河川敷から月見草を掘り出して束にして帰る途中、電車(ガソリン・カア)(←当時電気じゃなかったのか)の中から見えた光景は、周囲一面の月見草だったとのこと。

このお話は、その前に、入院していて家にはいない妻の存在があり、月見草を取っての帰り、是政駅のそばにも妻が入院しているようなサナトリウムがあり、主人公(著者)は妻のことを思い出すのだった。

帰宅して後、月見草を庭に植えた。是政橋の橋番の老人が、なかなか根付かないものだと言っていたが、月見草はたくましく、ちゃんと根付いて花を咲かせた、というハッピーエンド。

月見草を取りにいったのではなく、花の精を求めて取りに行ってきたらしい。
そして、庭の月見草が植木職人によって切られてしまったときに、主人公(著者)が読んでいた、ノヴァリスの「ヒヤシンスと花薔薇」という作品のことが書かれているが、この作品は私には見当がつかないのである。これが花の精の話なのかもしれない。

私は、今朝早く、もういちど是政に行ってみようかと思った。
今度は電車で武蔵境まで行き、そこから西武多摩川線の是政行に乗るという小説と同じ方法が良い。

「花の精」では、是政行は2時間に1本しかないので、北多磨駅まで行き、そこから是政まで歩いたそうだ。北多磨は今は白糸台駅と名前が変わっているらしい。だからそのとおりに歩いてみたい。

でも、今朝はすでに日も高く昇っていて、一駅も歩いたら熱中症になりそうだと思う。
それに、月見草は昼間は咲かない。夕方から夜にならないと・・・。
だから私は、月見草が開いているところを見たことがない。

そんなわけで、是政文学散歩は本日は中止することにした。小説の通り歩くなら6月が良いかな?

・・・

月見草のことを書くなら月見草の写真を用意しようと、ついさっき近所を歩き回ってきたら、少しだけ残っていた。実は、私自身が数日前に住宅周囲の大きな雑草を剪定ばさみでチョキチョキ切ってしまったのだ。その代表的なものが月見草である。雑草としか思っていない。

これは、河原や空き地に咲いていれば、どうということはないが、自分の家の庭に植えようとは思わないし、やはり小説の植木職人と同じ行動をとってしまう。私の場合、面倒くさいし熱中症になりそうなので、ただ根元から切るだけ。小さな草も伸び放題だから、切ったものもそのまんま。

切り逃げである。

たくましいから、絶えることはなかろう。
今度夜咲いているところを見てみようと思う。

・・・・・

追記:

その後考えたのだが、このありふれた月見草のことだとしたら、主人公はわざわざ是政まで行かなくても、そこらへんにあるはずなので、もっと貴重な月見草だったのかなと思ったりもする。

月見草には、白やピンクのものもあるそうだ。また大待宵草だったら、もっと大輪らしい。

「花の精」の中では、帰りは武蔵境から三鷹を通ってA駅まで帰っている。
三鷹では男女ノ川という力士が電車に乗ってきたとのこと。
(みなのがわ という巨体の力士は、私は知らないが、実在の人物)

A駅とは、阿佐ヶ谷駅らしい。上林暁の住まいはその辺だったので、これは事実に近い私小説なのか。

阿佐ヶ谷には、当時こんなありふれた月見草ならいくらでもあったはずだ。

だからよくわからない。

小説は事実ではなく、あくまでも架空の世界。

・・・・・

さらに追記:

上林暁の「花の精」は、昔高校の教科書に載っていたそうだ。
私の教科書には載っていなかったのだが、インターネットで検索すると、現在も大学受験の問題に出ることがあるらしい。

私が図書館で借りた本は「上林暁全集三」(筑摩書房)であった。1966年初版で、1977年と2000年に増補版が出版されている。漢字の旧字体はそのままになっていて文字は読みにくいが、文体はとても読みやすいと思う。

 

 

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