山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

アサッテの人(諏訪哲史)

2007-09-02 00:22:08 | 読書
今日は、「アサッテの人」を読み終えました。選評はまだ読んでいません。
一言で言えば、おもしろかったです。そして、同時に人間の生きる悲しみみたいなのを感じました。

最初から書くと、初めのほうの文体がなんだか講談のような感じで、古風な言い回しに感じたので、これが今時の小説なのだろうかとちょっと意外な印象でした。
その後もこの作品の創作状況をいちいち論じるあたりがちょっと異様な気がしましたが、そのうちにだんだん慣れてきました。
最初からでてくる“ポンパ”という得体の知れない言葉に「“ポンパ”とはいったい何なんだ?」とちょっと険悪な気分になりつつも読んでいきました。
言葉というのは何なのでしょうか?一般的に人は言葉を操って言葉を道具として生きているのですが、言葉とはそんな単純な生き物ではないようです。
そして、「アサッテの人」というのは、意外にもこの世の中に人知れずたくさんいるのではないかと思いました。
実は、私の夫はこの「アサッテの人」明さんに似ている部分があります。時々意味のない言葉を発する人間です。私は医学書を調べたことがあるのですが、病的なものはチック症状にそういうものがあるようです。夫やこの小説の叔父の場合、時と場合によって自分で制御できる点では病的なチック症状まではいかないようですが、ちょっと似たようなものかなと思いました。夫は頭が少しおかしいです。仕事の人間関係やストレスとかリストラとかいろんなことがあって、それで日常生活に「アサッテ」を入れないと生きていけなくなったようです。
叔父の明さんは「ポンパ」とか「タポンテュー」とか言うわけですが、夫は「プーチャー」「プーチャン1号2号3号!」とか言います。「お父さんガンバッテ!!」「オカアサンッッ」「カイシャカイシャ」「ウォスープーチャー」「ヘンフォアチー」などと言います。その言葉は機嫌のいいときに語尾につけたり、特に何の脈略もないような時に出てきたり(たとえば、歯を磨き終わったときに一言発するとか)、また、不安に襲われて自分を元気付けるときに出てきたりするようです。最後にあげた言葉は中国語の発音が変形したものですが、夫は中国語はよく知らないし中国人が聞いても意味がわからないものとなっています。
この小説の中に、誰もいないエレベーターの中で手でチューリップをアタマの上に作る男が居ますが、このような行動のアサッテもあります。夫の場合は風呂上りに部屋に入ってくると、誰に見せるためでもなく「コマネチ!」みたいなことをしたり、一瞬お尻を突き出したりします。
そのように、どこかへんてこりんな道化のような能天気なことをしていないと精神の平衡がとれないのでしょう。そういう言葉や行動を発する様子は時にはプッと笑ってしまったりするわけですが、しかし根底は悲しいものがあるのです。
それで、この小説の中でも、奥さんの朋子さんは夫のアサッテを時には制御し、ある部分では容認し、いくらかを理解し、そして共に楽しんでくれた存在でもあったのでしょうが、その人が亡くなった後、夫はその悲しみをも背負いさらに精神の均衡を失い、アサッテの制御がきかなくなり、そしてどこかに蒸発してしまったということなのかな~と思いました。
言葉というものは単なるコミュニケーションや意思伝達の道具ではなく、もっと人間の無意識を支配するものというか、不思議なものだと思います。だから、意味不明の発音や外国語なども、その発音が人間の精神になんらかの働きをするのではないでしょうか。
言葉についてすごく考えさせられました。
この小説は、小説らしい筋という筋にはなっていないのですが、「アサッテの人」を描くのには、作者の書くようにそういう書き方やまとめ方しかできないものであり、それがふさわしかったと言えるでしょう。
追記にある、叔父明さんが描いた取り壊し間近の団地の一室でのポンパのダンスみたいな平面図は、生きる空虚をポンパで楽しく埋めたという感じがしました。
私が住んでいる団地の一角にも、この作品の叔父(明)が住んでいたような2階建てのほとんど閉鎖状態の公営住宅があります。ある人は帰宅したら、玄関のドアがばってんに板を打ち付けられてあったのだそうです。もう住んでいないと間違われたらしいです。そんな古い団地に住む同じ人間としても、なんだか身に迫るものを感じました。そんなところにも「ポンパ」を楽しむ人間が生息しているのです。
平常心の隙間を「アサッテ」で埋めて、楽しく生きていかなきゃいけない人がこの世には存在するんだと思います。

最後に。この作品、映画にしたらすごく面白いと思いました。
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