山本飛鳥の“頑張れコリドラス!”

とりあえず、いろんなことにチャレンジしたいと思います。

散歩

2007-02-11 16:08:40 | 未分類過去
3日連休ということで、すっかりだらけきっています。
家の中にばかりいたので、ちょっと散歩に出かけました。
何か、春らしいものはみつからないかな~とカメラを持って出かけたのですが・・・
あんまり絵になりそうなものはありませんでした。

・沈丁花のつぼみができていた。
・梅が咲いていた。
・暖冬のせいで、つつじが咲いていた。

写真になりそうな花などは他人様の玄関先とか敷地内なので、さすがに撮影は控えました。
生活の「たたずまい」っていうのかな、ちょっとしたスペースに鉢花を並べたり、水をやるためのやかんがぶら下げてあったり、「いいかんじ」と思う風景がありましたが、やはり人の家のものにはレンズを向けにくいですね。

「歩くために歩く」っていうのはあまり好きではありません。「ダイエットのために歩く」「健康のために歩く」っていうのも、他に目的があるわけではなく、つまらないです。
目的地があるとか、撮影のためとか、取材のためならいいんですが、結局は歩くために歩いてきたようなもんでした。

道路に置いた物干し台、川べりの遊歩道の手すりに干したバスタオルとパンツのオンパレードなど、公共の場の私物化で面白いものがありましたが、やはり人のパンツにレンズを向けることはできないな~と断念。・・・へんなおやじや兄ちゃんが出てきたら怖い。
それにしても、遊歩道に沿った家の人って、遊歩道を自分の庭のようにしたがる傾向があるようですね。必ずと言っていいほど、家とは反対側の遊歩道の端にも、プランターや鉢植えや私物を置いているようです。また、公共の植え込みに布団を干したりなど、日当たりのいいのはわかるんですけど、そこを歩く人にとっては妙な気分です。

それで、ろくな写真も撮らず、コンビニによってお好み焼きパンとチーズケーキを買って帰ってきたというわけでした。

撮れたのは木の梢と青空のみです。
きょうはいい天気でしたね。

高野悦子「二十歳の原点」

2007-02-11 01:40:02 | 未分類過去
団塊の世代のテレビ討論を見たあと、ふと思い出した。
高野悦子という人の書いた「二十歳の原点」という本だ。
これは、本人が自殺する直前までの日記を記したものだったが、このひと、生きていたらちょうど60歳くらいの年齢になるんじゃなかろうかと思った。
その日記の内容から、ちょうど学生運動の時代の人だという記憶があったからだ。
私はこの本を自分が二十歳のときに読んだと思うので、それはこの人が亡くなってからもうすでに10年以上も経った平和な時代だった。

今、簡単に調べてみたら、1949年1月2日生まれとなっている。立命館大学の学生だったようだ。そして、1969年6月に鉄道自殺という衝撃的な最期を遂げている。
こういう概要を読み返すだけでも、胸が重苦しくなってくる。
学生運動がさかんだったのは、私が小学校3年生くらいのころで、そのときの担任の先生のお子さんがちょうど大学生と大学受験生だった。大学が危険な状況で、入試も中止になり、大変なことになっているとのことで、担任は授業もそっちのけでそんな話を小学生に延々と聞かせていた。今考えるとひどい担任だったが、その記憶のおかげで今になっていろいろな過去の社会情勢を自分の記憶と結びつけることができる。

高野悦子はその学生運動に加わっていた。しかし、私の記憶では、彼女は確たる信念でのめりこんでいたというわけではなかったように思う。だから、学生運動に加わる意義を本当には感じてはいなかった。そして、学生運動からはなれた後も様々なことに疲れ果て、自殺へと進んでいってしまったように記憶している。
ひとりの女子学生がその時代に、学生運動にも、勉強にも、仕事にも、恋愛にも、何事にも本当の生きる意味を見出せずに、自ら命を絶ってしまったというなんともいいあらわしようのない、それを読んだときの記憶がよみがえってくる。

きょう、テレビに出ていた人たちは、その高野悦子さんと同じ時代をすごし、死なないでその後40年も生きぬいてきた人たちということだ。

死んでしまう人というのは、どこかしらすごい繊細さがあるものだ。
時代の何がしかの要素がその繊細さに突き刺さってしまうようにも思える。
そのことを通して、どういう社会だったのかを見ることができる。
生きている人たちは逆にどこかしら図太さと無神経さがある。
そして、生きている人たちを見ても、どういう時代に生きてきたかが判るようになっている。

生きている人たちが、学生運動のことに触れ、私に高野悦子を思い出させた。
そのことは、あたかも死んだ彼女が参加し、何かを語っていたかのようだ。
それはその今生きている団塊の世代の人たちの中に、亡くなった同世代の彼女の魂が生きているということかもしれない。