ぶらぶら人生

心の呟き

豆の花

2006-10-24 | 旅日記

 松江で妹夫婦に会うときには、よく「清松庵」という喫茶店でコーヒーを飲む。
 宍道湖を遠望できるお店で、和菓子屋さんでもある。

 美術館を出て、昨日も、そのお店に行った。
 窓辺の席に座ると、私の席から見える白壁に、木の枝影がそよいでいた。繊細な風情が気に入った。(写真)
 窓ガラス越しに撮った写真で、決していい出来ではないけれど……。
 木々の隙間に見える宍道湖が波立ち始めていた。天気予報は、かなり高い確率で雨を予報していたが、私が松江にいる間は、雨にならなかった。

 コーヒーを飲みながら、私は、朝の散歩のことを話し、野菜の花もずいぶん見覚えて、カメラに収めたことを話した。
 すると、妹が「相変わらずね」と笑い、私が子供のとき、豆の花を採ってきて、母に叱られたことがあるでしょう、と言うのだ。
 私には、全く記憶にない話だ。
 他家の畑から、きれいな花が咲いていた、と採ってきたというのだ。
 えんどう豆の花だったのだろうか。
 空豆の花より、そちらが子供に好まれそうな感じがする。
 「それはお豆になるのだから、採ってはいけません」
 そう、母はたしなめたのだろうか。
 恐らく叱られるというより、たしなめられたのだろう。

 母に存分叱られた思い出は、二回ある。
 いずれも小学校の低学年のときのことだった。

 一度は、お使いに行って、釣り銭を失くしたとき。
 人から頼まれたことに対して、無責任なことは絶対にいけないのだと、母は叱った。なくしたものは、自分で探してきなさい、と言われ、日暮れ近くなって、ただでも寂しい道を、地面に落としたらしいお金を一心に探しながら、往復したことがある。半泣きしながら。
 母は、失くしたお金が見つかるなどとは思ってもいないのだ。無責任な行為は許されないのだと、私に自覚させるために、探しに行かせたのだった。
 しょんぼりして帰ってきた私を、更に叱ることはしなかった。
 「これからは同じ失敗を繰り返してはだめですよ」と言ったきりだった。

 もう一回は、買ってもらったばかりの三角定規を失くしたときだった。
 登校しようとして、定規のないことに気づいたのだ。前日、教室で落したに違いない。
 「学用品を粗末にする人は、学校に行く必要はありません」と、怒られた。納戸の中に入って、よく反省しなさいとも……。
 学校を休むのは断じていやだった私は、しくしく泣き出した。
 そのとき、助け舟を出してくれたのは、今は亡き二歳上の兄だった。
 「Yちゃんは、今度はもう失くさないから、許してあげて!」と。
 母は、兄の顔を立て、お金を兄に渡した。兄は私の手を引いて、文房具店に行き、黄色い三角定規を買ってくれた。これなら、人との違いがはっきり分かるからと。
 帰宅してみると、母は定規入れの袋を縫ってくれていた。黒い繻子の袋に、赤糸で私のフルネームが刺繍してあった。
 母は、裁縫箱からへらを取り出し、これは子供のときから使っているもの、大事に使えばいつまでも使えるのだと言った。続いて、尺指しを取り出し、これだってずいぶん古いものだと言った。見ると、母の旧姓が書いてあった。
 「三角定規にも、名前を彫ってあげよう」
 母は、そう言って、苗字を入れてくれた。
 高校を卒業する時まで、その三角定規を使った。母の縫ってくれた黒繻子の袋に入れて。

 妹から見れば、姉の私が母に叱られていると思うことは、意外に多かったのかもしれない。母は、しつけに厳しかった。長女の私をしつければ、妹たちはひとりでに見習うだろうとの考えだったようだ。
 しかし、そうした厳しさは、私には叱責とは思えなかった。日々の教えと思っていた節がある。
 お箸の持ち方、履物の脱ぎ方、整理整頓の仕方等など、細やかにしつけられた。が、私は生来不器用で、おっとりしていて、母の願いどおりには育たなかったようだ。幾度も、同じ注意を母にさせてしまった。それが妹から見れば、よく叱られているように見えたかもしれない。
 私の記憶の中からはすっかり消え落ちている「豆の花」の話から、母のしつけの厳しさや存分叱られた記憶が蘇った。
 私自身には、兄や妹が母に叱られていた場面の記憶がない。
 どうも私が、兄妹の中で、ひときわ頼りない子であったのかもしれない。
 しかし、母には怒られもしたが、情愛もたっぷりもらって、大人になったような気がする。

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