おねえちゃんの独り言

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(・・・って、そのまんまだけど)

父の話・その1

2016-12-05 23:04:35 | Weblog
 ようやくたどり着いた、父の話です。長生きって一体全体なんなのか? どうして人間は、幸せに生きることが無理になった時点でぽっくりと死ねないのか? 祖父母に関する話の続きみたいなもんです。
 あらかじめ分かっていないと読んでいて意味が通じないと思われることが何点かあり。まず、父と一緒に住んでいたのは小学校高学年の頃までということ。そして、母が(2009年までは祖母も)、私が育った一軒家にずっと住んでいて、父は30年以上、日本橋のマンションで一人暮らしをしていたということ。

 先日も書いたように、2016年は私の日本の家族にとって最低最悪の年であった。
 去年まで父は、20年前(?)から人工透析の身ながら、それなりに元気に自活しており、透析患者向けのツアーを利用したり、透析の合間を縫うなどして、ちょくちょく旅行にも行っていたらしい。
 大手メーカーを定年前に割増退職金をもらって引退して悠々自適。ボケ防止と称して手広く株を売買し、株仲間向けに月2回のメルマガまで発行していた(私のところにも勝手に送られてきていた。私は株に興味はないが、まあ無事の知らせだと思って斜め読みしていた)。
 実のところ、8年前に、93年の渡米以来初めて父に会った時は、かなりの衝撃を受けた。私に子どもが生まれたので、孫の顔ぐらい見せた方がいいのかなと何年ぶりかで連絡を取り、実家に呼んだのだが、まず顔からして別人。長年透析を受けているとこうなってしまうものなのか、偶然会っても絶対に分からないレベルに変わり果てていた。単純に老けたというのではなく、昔の顔が粘土細工であったとして、それをつぶしてゆがめて崩した感じとでも言えばいいのか。当時、まだ実家にいてバリバリ元気いっぱいだった祖母(当時98才)も、父が帰った後で「あれじゃ町で会っても分からないね」と驚いていた。
 まだ一緒に住んでいた40前後の頃の父は、運動神経も体力も同年代平均よりはるかに勝っており、休みといえば日本各地の上級者向けの山に片っ端から挑んでいた。40過ぎてスキー1級に受かったと自慢していた気もする。足腰を鍛えるため、すでに体重40キロを超えていた私を背負ってスクワットもしていた。それが、あろうことか、杖をついてのヨボヨボ歩きである!
#三浦雄一郎には、なれなかったか・・・残念!(半分冗談、半分本気)
 それでも話してみれば相変わらず自信過剰というか偉そうというか、要は元気。父によると、透析患者というのは油断して変な物を飲食してしまうと即コロっと亡くなってしまうらしいのだが、自分はあれこれ研究し尽くし常に気を遣っているから何も問題ない、10年以上風邪すらひいたことがない、と自慢していた。

 この2008年秋の再会から2013年暮れに私が最後に訪日した時まで、日本に行った際には1度は孫の顔を見せ、他は時々メール、孫の写真はYahoo! Photoにアップしてほしけりゃ勝手にプリントしてください状態。誕生日と年末ぐらいはカードを送り、子どもが5才ぐらいからは子どもに手紙や絵を描かせて送り、ぼちぼちと付き合ってきた。
 そう、去年の今頃までは普通にメールでやりとりできたし、メルマガで株価や為替変動を予想したり、まだまだしっかりやっているから大丈夫だなと思っていた。そして、まだ懲りずに、長年の透析で体はボロボロなことだし、直前まで元気で最期はあっさりコロっと・・・と、根拠のない夢物語を信じていた・・・
(続く・・・って、まだ本題にたどり着いてないし・・・)
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