脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

俺は小説家になる

2020-01-20 | Weblog
ジウンの教会のフライデーナイトと言う学生の集まりによく言っていたのだが、ある時、韓国人の宣教師が来て話をした。そのおやじはイエスが重い病気の寝たきりで立てなかった男を「この男がここに存在しているのは神の栄光が現れるためだ」と言って男をたたせて奇跡をおこしたという聖書の話から病気が治ったとか、歩けない人が歩けるようになったとかめちゃくちゃうさんくさい話をしていた。そしてその後コーヒータイムと言うのがあって、そのおやじは信じない私にさらに信じろとせまってきた。でもあまりに高圧的で宗教や哲学は自分のほうが知っていると思ったので思わず言ってしまった。「あなたの言う奇跡は自分勝手だ。神があらわす奇跡ってそんなんじゃない。人間が弱いと思っていることが実は本当のアドバンテージであって、そこにおいてこそ一番大きな力がはたらくのだ。イエスが当時盲人や病気の一番弱いとされる人間たちに奇跡をあらわしたのはその弱さを通して神の力をあらわすため、それが奇跡だ。決してご利益なんかではない。人間は傷つき、悩み不安を抱えて生きている。けれどもその悩みや不安があるからこそ人にやさしくなれるし、自分が大きく成長できる。障害を持っていてもその人を通して語られる貴重なメッセージがある。」

「劣っていることは不利ではなくむしろ資産である」はアドラーの有名な言葉だが、彼が診療所を開いたころの話だ。その近くには遊園地があってそこで働く大道芸人や軽業師などが診療に来ていたそうである。そして彼が彼ら彼女らの話を聞いてわかったことは彼ら彼女らのそのほとんどが小さい頃から体が弱く、それを克服するためにそのトレーニングに励んで、今の仕事を選んだそうである。人間はだめだと思っているところに関心を持ってそれを克服しようとすれば、逆にそれが自分を成長させる大きな目的になる。私の身近に人と話すのが苦手ひとづきあいがうまくできないと言うコミュ障に近い子供がいる。その子の夢は小説家だそうだが、小説家になりたいと言うのは自分が人とかかわったり、話したりするのが苦手でみじめな思いをしてきたから、もっと自分を表現したいということからであろう。しかし彼がたとえ悔しくてみじめな思いをしたとしても、それは自分に与えられた試練であり、それに関心をもって克服しようとする時、その劣等感が大きな目的、夢へとかわるのだ。確かに以前彼はそのことで悩んでいたが、しかし俺は小説家になると言う夢を持ったことで大きく成長したことは確かなことだ。劣っていたり劣等感があるからこそそこから克服しようとするエネルギーが生れる。人間が劣っている部分はある意味神が与えたギフトかも知れない、その劣った部分に関心を持って、それが大きな目的にかえられるならば、その時その劣った部分であるギフトを通して、メッセージが語られる、それがある意味奇跡なのだろう。

キレて宣教師のおやじを詐欺師呼ばわりした私はてっきりジウンにおこられると思っていた。しかしその帰りに彼女がひとこと「今日のあなたの話、私はよかったよ」とにっこり笑って言ってくれたことを思い出す。ひょっとして私は彼女の言うように見える人なのかも知れない。そのジウンに神様を信じるかと聞かれて「絶対者の存在は信じるかも。でも特定の宗教にこだわりはないし、特にあのおっさんの言葉は信じない」と言ったが、私自身この世界には何か大きなものがあることは認めている。

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