脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

integrationとは

2020-01-06 | Weblog
うちのクラブは毎週土曜日2時から英会話の時間がある。これは社会人が仕事でいかせるようにするため、そして英語を話せるアスリートを育成するため、友人のプロフェッサーと研究員の外国人の二人に協力してもらって持たれているクラブである。英語はもはや共通語だ、あいさつは基本と言うよりも21世紀は英語が基本、コモンランゲージである。スポーツの世界でも学校で留学生を集めてそのスポーツクラブを強化する試みがだいぶ前からなされているが、私の意見ではそこまでするんだったら監督などの責任者が英語を理解できるようにならなくてはだめ、半分外国人で海外でスポーツ経験がある私からみて、それぐらいもできないのにむやみやたらにクラブの強化で入部させるのは無責任だ。だいぶ前にある留学生が試合中に暴力をふるったということで問題になっていたが、この件に関してもちろん暴力をふるった人間はわるいが、しかしコミュニケーションが十分にとれていたかのだろうか、これがしっかりと出来ていたら、ここまでひどい結果になっていたかと疑ってしまう。スポーツはコミュニケーションが大事だ。しっかりとコミュニケーションがとれないといけない、そういう意味では共通語である英語をおぼえて互いにコミュニケーションをはかることは大事なことである。日本人は異文化交流が苦手だ。だから日本語がわからない外国人がその集団に入っていってもひとりだけぽつりと浮くと言うことはよくあることだと思う。もし私が監督でそこに日本語がわからない外国人が入って来たら、クラブの時間を30分けずって、英語なり、語学を勉強する時間を持つだろう。トレーニングを30分もけずってと思い人間もいるかもしれないが、しかしそうしてコミュニケーションをはかって一丸となっていくことはチームを強化していく上でも大事なこと、そして何よりもそのほうが教育的であり、そういうまわりの理解と協力と相手を受け入れようとする気持ちを教えるのもスポーツのひとつの目的でもあり、それがなによりもクーベルタンの言うところのオリンピズムではないかと思う。
integrationと言う言葉がある。これは日本語では差別撤廃を意味する言葉だが、もともとの言葉は統合すると言う言葉である。差別や偏見をなくすにはもともともっている考え方や性別、そして人種や宗教をひとまとめにしてそれをすべて受け入れ相手を認めたところで、話し合って差別や偏見を解決していきましょうと言うことである。私は思うそのコミュニティのよしあしをはかるのはしっかりとそこで話し合いができるか、そしてその話し合いができるレベルである。共通語を話すと言うのは物事を多面的に見れるそして広く人を受け入れることができると言うひとつのものさしにもなる。偉そうに言うがうちのクラブがおっさんや女性、外国人が生き生きとトレーニングしてくれているのは、いろいろな考え方や人種を受け入れるキャパがあるからで、これは私がバイレイシャルで共通語を話すことができるからだと思っているし、学問的に幅の広い人が多く、共通語がある程度通用するからだ。よくDQNがまとまっていい雰囲気でなどと言っているが、しかしまとまると言うのはのりや勢い、そして同じようなやつらが集まって共通の仲間意識をもつことではなく、性別や考え方、そして人種を理解して尊重してそれを受け入れることでその群れはまとまると思っているがまさにこれがintegrationであると思う。




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あいさつよりもスマイル

2020-01-05 | Weblog
Hapaと言うグループがある。これはハワイ語で半分と言う意味だ、そして集団になると混血の集まるグループすなわちバイレイシャルである。私が考えているバイレイシャルは親のどちらかが外国人、二つ以上言葉が話せる、二つ以上の国で生活したことがある人だが、こういう環境を経験した人の特徴として一緒ということにはこだわらない、違いを認めることができる、多面的に物事を考える柔軟な思考を持つと思っている。ただ日本では考え方が自由すぎて一つの型にはまらないから企業などで大成功をおさめるといったタイプでもなく、芸能人が多いのもわかる。日韓の女性のHapaは特徴があってこれは私とピーターの意見であるが、目の端がきっとつりあがっていたり、目が二重と一重だったり、美人なのだが特徴がある。たぶんこの組み合わせはあまりよくなくて反抗して生まれてくるのだろうなどと冗談で言っていた。

今インターナショナルが時代である。柔軟な思考は大事なことだし、多面的に物事を見ると言うのは大事なこと、大人のコミュニティには不可欠であると思っている。私は運動クラブで言うようなあいさつは基本だなんて、そういうことを黄金律のように言うのはレベルがひくいと思っている。運動クラブのようなパフォーマンス的なあいさつが気持ちのいいあいさつだと思っているのは一部の保守的な人間だろう。でかい声でちわーっすとか言われて、さらにかしこまってよろしくお願いしますなんて言われたら逆にかまえてしまうし、特に外国人はそうだろう。実際私の友人がハワイに来た時に観光に案内してくれる幼稚園の校長に「何々と申します。よろしくお願いします!」とでかい声であいさつしたら、少しひかれたようである。まあお互い気楽にやりましょう的なことを言われたのだが、そういうやりとりが通用するのは日本人だけ、ピーターにLAだったらお前死んでると言われた私が言うのもなんだが、こういう時はもっとスマートに、にっこり笑ってハローと私はあなたに対して好意的ですよと言うことを示したり、相手に何かをゆずったりするような小さな親切を示すことの方が大事なのだが、異文化交流になれていない、言葉が理解できないので勢いだけ、そういうことができてもコミニケーションがとれないと本当にそれはただのパフォーマンスである。いまこのグローバルな時代において外国人がそこでトレーニングしやすいかどうか、本当に彼ら彼女らを受け入れることができるかというのは重要な課題だ。うちのクラブは見学なども合わせて毎年何人かは外国人が来てくれる。たいていは日本語が話せるのだが、中には話せない人もいて最近では英語で対応することも多くなった。私は結構いろいろな人間とコミュニティをはかっているが、その時大事なのは英語を話すと言うことだけではなくて、相手を受け入れる雰囲気であると思っている。外国人がにっこり笑ってハローと握手するのは「私はあなたに対して敵意はありませんよ」と言う表現であるし、歯をしろくするのはその笑顔の印象をよくするためだ、異文化が多い中で相手を受け入れる雰囲気をもつ、所謂相手を好意的に受け入れる姿勢、日本語で言うところのおもてなしが異文化交流においてコミニケーションをはかる基本的な事柄だと思っている。そういうことを基準に考えたら日本の運動系の集団は閉鎖的である。独特のルールを持って集団でかたまり、特に親玉が偉そうに威厳を保とうとしている姿は見ていてはずかしいし、何よりも英語が話せないのでコミュニケーションなどとれない、外国人から見たら君たち本当に自分たちと交流する気があるのかとしらけてしまう。外国人が日本人のことをシャイだと言うが、シャイどころか内弁慶だ、日本のしかも自分たちの通用するところでは偉そうに言えても、外では何も言えない、私ならこう言う指導者は頼りにならないので信用できない。
コミュニティにとって雰囲気は大事だ、そしてその雰囲気をつくるのはひとりびとりのエチケットや思いやり、敵意を感じさせない、外国人がトレーニングしやすい雰囲気をつくる。そしていろいろなことを受け入れるのは多面的に物事を考える能力が必要だし、柔軟な考え方を持つことは不可欠なことだ。私はコミュニティにおいては子供のようなルールをちらつかせて押さえつけるのではなくて、そのコミュニティがどういう考え方を持っていて、どういう人たちが集まってくるかと言う方が重要なことだと思っている。アドラーもそういうコミュニティを問題にしているが、そういう集団の中で人が大きく成長できると考えているからだ。雰囲気と言うのは人がつくるもの、多面的で柔軟な考え方を持つ人たちが集まることで敵意を感じさせない、おもてなしの雰囲気がもてるクラブになると言うのが私の考え方だ。








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It was very good  世界は自分を肯定している

2020-01-03 | Weblog
私が学生の頃に読んだ本にRachel Carsonが書いた「Silent Spring」と言う本がある。これはかなり昔に書かれた本であるが、話の発端はコマドリにある。春にとんでくるコマドリを最近見なくなったと近所でうわさされる。いつもなら春ごろにはコマドリが飛んできて春の兆しをつげるのだが、しかし最近はそのコマドリを見なくなった。その原因と言うのがコマドリが巣をつくる木の害虫を駆除するために人間がまいた殺虫剤によってその殺虫剤がミミズの体内に入って、それを食べたコマドリが死んでしまうと言う、生態系を問題にした本である。この時は60年代であったので生態系と言う言葉はあったのかなかったのかわからないが、たぶん彼女が生態系を問題にした最初の学者ではないかと思っている。生態系と言うのはfood chain食物連鎖と言う言葉に現れるように生物間のエネルギーを問題にした学問であるが、彼女曰くその自然界においては人間はもはや頂点ではなく、害虫と言うのはanthropocentrism(人間中心主義)が恣意的に自分たちの都合でわけたものだ。自然界にはきちんと摂理が存在する。anthropocentrism(人間中心主義)になると生態系をくずし、そうなるとやがて人類は壊滅する。そうならないためにも自然の摂理に従え、受け入れろと言うような内容だったと思う。

話は私の学生時代の話になるが、ハワイはすごく自然を感じる場所であった。仲のいい友人たちとマウイ島に遊びに行った時、そこで滞在していた安ホテルのプールで夜集まってみんなでビールを飲んでいたのだが(私だけコーク)何気に空を見上げるとそこには満天の星が「げげっすごい、星ってこんなにきれいなのか」と感動し驚く、その時思った「こんなきれいで壮大なものが自然にできるはずはない、そこには何か大きなパワーが動いていて、その大きな力が自然を支配しオーガナイズドしているんだ」バイブルには有名な天地創造の話がある。英語ではGod created the earthとはじまるのだが、ここでつくったと言う言葉に使われている英訳はcreateである。これは無から有をつくると言う意味合いがあって、原書ではバーラーと言う言葉がつかわれているが、同じく無から有をつくると言う意味あり、その創造には創造主の意図的な配慮と絶対的なパワーが存在すると言う意味である。そしてその作業は6日間かかってそしてそれをすべて完成した時「it was very good」と書かれているがそれは我々の目に見えない生態系の秩序も含んでいて、その事柄すべてをひっくるめてこの地球をつくったと言うことだ。私は何々教とかは信じてはいないが、しかし絶対者や絶対正義の存在はあると信じている。我々が生きていることにはすべて意味がある。「it was very good」と言うのはすべてが肯定されたと言うことで、コマドリが生態系の中で役割を持って生かされているように、そのオーガナイズドされた世界を考えると、人間が生れてきたこと自体に意味がある。私は基本的にはすべての人間が肯定されると思っている。
昔私はすごく物事を否定的に見ていたと思う。この世界を呪い、自分の生き方を肯定できない、ずっとずっと昔だったけど確かそういう時もあったと思う。この世界ができた時に「it was very good」と言ったのはあなたは不完全ではないと言うことだ。私は宗教学の時間でこの言葉を知ったのだが、それが意味することは自分が肯定できなくともその秩序の中で生かされていると言うことだ。私がどう思おうが世界が私を肯定してくれている。そう考えたら、今度は積極的に世の中にかかわろうと思い、考え、自分のできることが見えてきた。しかし私の能力なんて世の中から見たら大したことがない、でもそれでもこの世界と自分の人生を肯定して生きることで、積極的に世界とかかわることができ、それがオンリーワンの自分にしかできなない能力だと思えるようにかわっていったことは確かなことだ。神とか絶対者とかそういうことだけではなく、この世界が存在して自分たちが生きていると言うことは、我々がどう思おうが考えようが、生きていると言うこと自体、自然が我々の存在を肯定してくれているということである。自分で自分の人生を否定しようが呪おうが、世界は自分の生を肯定してくれている。我々は生まれてきたこと自体意味がある。








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