脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

スポーツは修行ではない

2020-01-21 | Weblog
「スポーツは修行ではない」
うちのトレーナーたちは中堅クラスやこれから始めようとする人たちにはいろいろと丁寧にボクシングの技術論を教えてくれるが、ベテランクラスになるとあまり何もいわない。しかし彼らが困った時とか聞いてきた時にしっかりとアドバイスしている頼もしい存在である。私の感想では日本人は競技者を干渉しすぎる。家父長制的で監督がお父さん、競技者をひよっこあつかいし、できる競技者にはうまく譲歩して自分の立場を保っているが、そういう姿は私から言わせてもらえば非常に気持ちがわるい。ひどい奴になると親でも言えないようなことを立場を利用して言う奴もいるが、ここが私が思う日本人の監督の一番考えられないことである。こういう人間が愛のある体罰なんて未だに思っているのだろうが、しかし競技なんて暴力などふるわなくてもほおっておいてもうまくなる、なぜもっと競技者を信じることができないのかと思うのだが、大事なのは楽しくトレーニングできること、そしてそのためにはできるとかできないとかにかかわらずすべての競技者を受け入れて尊重することだ。こういうことを言うと今こういうことをしたら問題になるなんて言うのもいるが、しかし未だにしっかりとそういう村社会は存在する。問題は強くしてくれるためにはとそれを助長する親、少し前に体操で暴力事件があった時に親が納得しているからいいということを暴力を正当化する理由としてあげていたがこういう人間が未だに存在する。しかし一般的に暴力はだめ、そんな自分勝手なことを言っていたら某共産国の指導を正当化することにもなるだろう。私から見たら日本人の多くはスポーツを修行だと思ってる。がしかしスポーツは遊び楽しむこと、大会で優勝するとかしないとかいうのはその先にある話で、最初はスポーツを楽しむことから教える必要があるだろう。

「腹をわって話そうとか」
程度のひくい集団になればなるほど、話し合いや会議で腹をわって言いたいことを言いあおうなんて奇妙なことを言いだす。しかしそんな奇妙なことを言うのは自分に知識や正しいことを判断できるものさしがないからだ。PTAとかの会合で俺は教育のことはわからんがと言ってべらべらとたわいもない昔話を話すおやじ。そもそもわからんかったら話すな、わからんかったら質問しろと思うのだが、腹をわってとかお互いが言いたいことを言うことが公平だと錯覚している日本人はこういう意見を出されると何も言えないのだろうが、しかし私が司会者だったら間違いなく、議論の妨げになるから黙れと言うだろう。建設的な意見は決して言いたいことを言うと言うような恣意的な発想からは生まれにくい。事実そういう発想は単なる徒党をつくるだけ、建設的で公平な意見と言うのはお互いが距離を持ってお互いの知識を共有することによって生まれてくるもので、いわゆるそのことは教育を重んじ、自分のものさしをひろげて公平な考え方を養うことだと思っている。私はコミュニティを正しく公平に導くためにはそのコミュニティが教育的であることだと信じている。そして教育的であるためには指導者が正しいものさしを持つことである。
 

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