脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

 그 여잔 웁니다

2020-01-16 | Weblog
ホテルの一番上のフロアにあるクラブ、今はあるかどうかわからないが、確か入場料は5ドルぐらい、当時ここは眺めがすごくきれいなので、時々ひとりでそこに行って飲めないビアーをたのんでちびちびと飲みながら夜景を見ていた。ある時私がちびちびとビアーを飲みながら夜景を見ていると後ろから声をかけられる。振り向くとそこには一人の日本人女性が立っていた。「一緒に踊りませんか?」「いやここにいたいから(本当はローカルのようにかっこよく踊れません)」「ハワイの方ですよね」「いいえ」「えっじゃあどこの国ですか?」「一応日本人です(この前ローカルのやつにフィリピン人にまちがえられましたが)」そこから安心したのかどっと話しかけてきた。聞く話によると彼女は東京の人で社会人。下の名前はYumiさんと言う。のちに聞いて分かったことだが、ここには失恋旅行でひとりで来たようであった。そして翌日の日曜日に食事に誘われアラモアナに行くことになったが、そこで彼女の闇があらわに。最初は私に気をつかって一生懸命明るく振舞おうとしていたのが、しかしたぶんすごく失恋のショックが大きかったのだろうか、私は無理をしている彼女がかわいそうになって、そのわかれた理由やその付き合った男のことを聞いた。彼女は日本人いありがちな献身的な女性で、その献身的であるがゆえに男性に利用されて結局すてられたようであった。話を聞いて、確かにその男もわるいと言えばわるい。でも結果的に彼女は自分の人生を他人にのせようとしている。他人にのせようとしているから相手に利用されるのだろうと思うし、相手に何か献身的にやることだって、その人をつなぎ留めておくためのことで、結局自分の生き方に自分で責任がとれないから相手に依存しているだけだ。そしてなんとなく依存されてるなあと思い始め、気分転換に近くのワードウエアハウスに行って、さあもう遅いから帰ろうという時に、私のことを気に入ってくれたのだろうか彼女が私が学生でお金がないからと言って、社会人になってからでいいからと、トラベラーズチエック10万円ぐらいと現金300ドルぐらいを貸してあげるつかってくれと言ってきた。でもこんなお金をあまり知らない人から借りるのもおかしいし自分をつなぎとめるためだと思ったので、その時私は思わず「君そんなことしてきてだまされてきたんやろ」と言ってしまった。たぶんとどめに「自分を安売りするな」と言ったかも知れない。そしたらその時警備員が来るんじゃないかと言うぐらいの勢いでワーッと泣き出すので、私は自分の保身のために警備員が来るから泣きやめと思わず言ったら、号泣してたのをとめてすすり泣くように泣いていたが、あの時はマグショットをとられるんじゃないかとあせった。でもその時思ったのは彼女は自分の生き方に責任をとっていない、人に自分の人生をあずけようとしているだけだと言うことだ。誰でも自分のために生きているのだから、人に自分の人生なんかあずけても本当の意味では幸せにはならない。大事なのはその人生は自分が与えられたもので、自分しか責任をとることができないということだ。そして泣きやもうとしている彼女に君は美人だし、まだまだ若いし可能性がある。自分の道を切り開いていけるのに、そんなしょうむない奴なんかにあわせて君の人生をだいなしにするなよ。自信を持って人に依存なんかするな、人に左右されるな、もう二度と会うことはないやろうががんばってくれと言うようなことを言って握手してハグしてわかれた。

西洋の有名なことわざに「結婚とはお互いを向き合うことではなく二人が同じ方向を見ることだ」と言うのがある。同じ方向と言うのはここでは神のことだが、大事なことはまっすぐとひとつの方向に向かって歩んでいくということで、それは自分の足でということである。えらそうに言わせてもらうが納得した人生を歩みたかったら、その人生は自分だけが与えられたものであり、それは自分しか責任をとることができないということを知ることだ。それはたとえ夫婦関係であってもただお互いを見つめあうだけでは不平不満しかでてこないし、その関係はもろくくずれやすいであろう。けれどもその人生は自分が与えられたもので、自分がその生き方に責任をもって自分の足で歩んでいくことでお互いの価値がわかり、尊敬したり尊重したりできる関係になるのではないかと思っている。

私は知能は高いほうだが、アスペの傾向が強い、所謂社会不適合型である。たぶんもっと偉い地位を求めていたら、ある程度そうなっていただろうという自信はある。でも自分はそういう組織の中では生きていけないし、自分らしさを発揮できない、だから自分は自由な生き方を選んだのだ。ここに来たのも自分の意志であるし、私は人にぶら下がったり、人の人生に自分をのせたりしない、私なりに自分の生き方に責任をとって歩んできたことは確かである。だから今ようやく自分の生き方がかたちになってきたように思える。どこにも属さない、いやなものはいや、うっとうしいやつはうっとうしい、すごくわがままで自由奔放すぎる生き方であるが、でも今これが自分の生き方だと言えるような気がする。



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