脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

私がhoyoungである理由

2017-07-24 | Weblog

これはうちのじいさんの話。じいさんは非常に学のある人でアジア最古の大学でその大学が大学になる前からそこで勉学をつんでいたらしく、大学で教鞭をとっていたそうだ。でもしかし当時は言っていいことといけないことがある。その言ってはいけないことを言ってしまい身の危険を感じて、今だから言えるが秘密裏にここにうつって来たそうである。てなことで当然ここでは保証はない。そこでじいさんは家族や親せきを集めてこう言った「俺はお前らのような学のない人間ではない。俺は学がある人間だ。したがってこの俺の生活をお前らがみろ」と一同唖然としたらしいが、そこは一族の長が言うことだ仕方なくじいさんの面倒をみんなで見たそうだ。とにかくプライドがすごく高い。聞いた話では風呂屋でお金を販売機の下におとしたらしく、ひろわなかったのでなぜひろわなかったのかと聞いたら「自動販売機の前で大の男が土下座なんかつける」かと言ったそうだが、マンガのような話である。しかしひとつだけ尊敬できるところがある。それは絶対にぶれない考え方を持っていて、自分の信条をしっかりと持っていたことである。いろいろとわけがあって生涯3回ほどしか顔を見たことがないが、私のことを知っていて問題行動を起こすが、利発な子供であった私を弁護士にしたかったようで、私の将来を考えてくれていたのだからやはり孫はかわいかったようだ。

考え方がぶれないというのは意固地になったり、言わせてもらえるからえらそうなことを言うと言うことでもなく、引くとか引かんとか低次元のことでもない。そういう奴に限ってちょっと反論されたらしゅんとなって何も言えなくなるのだが、非常になさけない話である。ぶれないというのはそれはしっかりとした自分の信条に基づくものだと思っているが、本当に必要な時にそれが何千何万の前であってもその自分の信条に基づいて主張できるかと言うことだと思う。うちのじいさんはそれをやっちゃった。やっちゃったから輝かしい実績や仕事をうしないここに来た。はっきり言ってこんなことは評価できることでもないし、えらいとも思わないがしかしそれでもぶれずに生きてきたことは尊敬すべきことかもしれない。

実は私もこのじいさんと同じような人間かも知れない。私がKim Hoyoungをなのるのはわけがある。それは日本名には「孝」と言う字があってこの漢字自体が私にとって抵抗があるからだ。たぶんこの漢字は儒教からとったものだが、親孝行の孝から来たものだ。しかし残念ながら私は親孝行ではなかった。だから孝の入った名前をなのるのはすごく抵抗がある。だから私はKim Hoyoungを名のっている。

 

 

 

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

그 여잔 웁니다 クーベルタンの言うスポーツマンシップとは何か?

2017-07-24 | Weblog

日本人は非常に親切で助け合いがわかる民族である。最近ではボランティアなどの社会活動などに関心を持ってきた人たちが増えてきたが、しかしそれでも先進国ではその意識は高いとは言えないと思う。韓国はスペックと言う就職するためには大事な条件があるのだがそれはまずtoeicの点数、留学経験そしてボランティア経験があるかないかである。韓国ではボランティア活動がスペックにくわえられるのだから、社会自体が関心を持っているとっても過言ではない。私の知り合いの学生も必ず何かボランティア活動をやっていて、それは半ば強制的なのでいい加減にやる人間も多いが、しかし大事なことはそれを経験することだ。日本人は本当に親切でそういう意識が高い けれども経験が足りないと言うのが私の見解であるが、もし国がそういうことを奨励したら日本はボランティア大国になるだろう。

しかし私は日本のアスリートは好きではない。特に公共の電波を使ってお笑いにいじられている姿を見ると結局この人たちは楽しかったらいい、競技も何でも自分の快楽の追及なのだと理解してしまうのだが、私が日本のアスリートが嫌いな理由は世界を目指せとか実際にその国に行って競技したことがあるのに、あまりそういう現実を伝えたり問題意識を持っている人間が少ないからだ。特にボクサーはやんちゃ話をするけれども社会情勢や国際問題などについて語ることはできない。自分の自慢話や偉いと思わせるようなあさい話はできるが、しかしハングリースポーツとも言えるボクシングから何を学んできたのだろうか、人の勝手だと言えばそれまでだが、しかし個人的には尊敬はできない。モハメッドアリは反戦を主張して兵役を拒否したゆえにチャンピオンをはくだつされたが、彼が英雄であるのは彼がヘビー級のチャンピオンだったからということだけではなく、こういうはっきりした世の中で通用するグローバルな主義主張をしっかりと持っていたからだと思う。

人間は泣いても叫んでもひとりでどうすることもできないことがある。そういう闇にのまれてみじめとも言える涙を流せばいかに人間は無力でよわいか、そして助け合い支え合っていかなくてはいけない存在であると言うことがわかるはずだ。いろいろな国に行ったら本当に日本は裕福で民主主義の国だと言うことがわかるだろう。強くなるとか言ってたわいもないことをすごい話のように語り自慢し合うようなアホな世界も小中学生の間ならば多少は必要かもしれないが、しかしいい年をして格闘技の話しかできない目立つことしか考えていないような人間は、クーベルタンの言うスポーツマンシップを理解していないであろう。はっきり言うがこういうコミュニティを管理する側の人間は人の痛みを理解し共有しなければならないと思う。そしてその痛みは競技者云々と言ったものではなくて、グローバルな見方でその痛みを理解し共有しなくてはならないだろう。スポーツを競技することはそのフィールドにおいてたくさんの人に出会うことができるのだから、自分の経験値を広げていくということでもある。そしてその世界が広がれば広がるほど多くのことを学ぶことができる。根本的にスポーツしかできない人間はその学び方がわからないと思っている。

必要だから言っているがうちのクラブの名前で発展途上国などで子供、特に少女が教育をうけれるようにとサポートしている団体寄付をしているが、うちのクラブの名前でやっているのは一人でも多くの人がこういう現実を知ってほしいからで、クラブの名前で寄付しているということはあなたもその一人ですよと言うことである。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする