日本人は非常に親切で助け合いがわかる民族である。最近ではボランティアなどの社会活動などに関心を持ってきた人たちが増えてきたが、しかしそれでも先進国ではその意識は高いとは言えないと思う。韓国はスペックと言う就職するためには大事な条件があるのだがそれはまずtoeicの点数、留学経験そしてボランティア経験があるかないかである。韓国ではボランティア活動がスペックにくわえられるのだから、社会自体が関心を持っているとっても過言ではない。私の知り合いの学生も必ず何かボランティア活動をやっていて、それは半ば強制的なのでいい加減にやる人間も多いが、しかし大事なことはそれを経験することだ。日本人は本当に親切でそういう意識が高い けれども経験が足りないと言うのが私の見解であるが、もし国がそういうことを奨励したら日本はボランティア大国になるだろう。
しかし私は日本のアスリートは好きではない。特に公共の電波を使ってお笑いにいじられている姿を見ると結局この人たちは楽しかったらいい、競技も何でも自分の快楽の追及なのだと理解してしまうのだが、私が日本のアスリートが嫌いな理由は世界を目指せとか実際にその国に行って競技したことがあるのに、あまりそういう現実を伝えたり問題意識を持っている人間が少ないからだ。特にボクサーはやんちゃ話をするけれども社会情勢や国際問題などについて語ることはできない。自分の自慢話や偉いと思わせるようなあさい話はできるが、しかしハングリースポーツとも言えるボクシングから何を学んできたのだろうか、人の勝手だと言えばそれまでだが、しかし個人的には尊敬はできない。モハメッドアリは反戦を主張して兵役を拒否したゆえにチャンピオンをはくだつされたが、彼が英雄であるのは彼がヘビー級のチャンピオンだったからということだけではなく、こういうはっきりした世の中で通用するグローバルな主義主張をしっかりと持っていたからだと思う。
人間は泣いても叫んでもひとりでどうすることもできないことがある。そういう闇にのまれてみじめとも言える涙を流せばいかに人間は無力でよわいか、そして助け合い支え合っていかなくてはいけない存在であると言うことがわかるはずだ。いろいろな国に行ったら本当に日本は裕福で民主主義の国だと言うことがわかるだろう。強くなるとか言ってたわいもないことをすごい話のように語り自慢し合うようなアホな世界も小中学生の間ならば多少は必要かもしれないが、しかしいい年をして格闘技の話しかできない目立つことしか考えていないような人間は、クーベルタンの言うスポーツマンシップを理解していないであろう。はっきり言うがこういうコミュニティを管理する側の人間は人の痛みを理解し共有しなければならないと思う。そしてその痛みは競技者云々と言ったものではなくて、グローバルな見方でその痛みを理解し共有しなくてはならないだろう。スポーツを競技することはそのフィールドにおいてたくさんの人に出会うことができるのだから、自分の経験値を広げていくということでもある。そしてその世界が広がれば広がるほど多くのことを学ぶことができる。根本的にスポーツしかできない人間はその学び方がわからないと思っている。
必要だから言っているがうちのクラブの名前で発展途上国などで子供、特に少女が教育をうけれるようにとサポートしている団体寄付をしているが、うちのクラブの名前でやっているのは一人でも多くの人がこういう現実を知ってほしいからで、クラブの名前で寄付しているということはあなたもその一人ですよと言うことである。