脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

新撰組土方の詩

2017-07-17 | Weblog

私の経験上程度がひくいと思う人間は「何かあった時に助けてくれるのが友達だ」「学校でかしこいのと社会でかしこいのは違う」「みんながみんなそうではない」と言う。しかしこういう言葉に何かうさんくささとバカさを感じてしまう。社会でかしこいのとかなんて言うのは今時こんなことを言うのがいるかと思うぐらいだが、まず友達と言うのは何かあっても迷惑かけないようにするのが友達だ。根本的に何も持っていない、そのくせ負け惜しみが強く見栄はりで目立ちたがり屋の人間はかたまって、なぐさめあい自分たちを誇示したり正当化しようとする。私の経験では人をかばうことが美徳とされるのが程度のひくい集団で、きちんとした人が集まる集団は人をかばうことよりもむしろ人を正すことができる。少なくともこんなことはしてはいけないという行動に対してはダメだという感情は持っている。何でもかんでも人をかばったり、ダメな行動を正当化するのは仲間意識であって、程度のひくい人間はそういう関係を持って友達と呼ぶ。ここをはっきりさせておかないとアウトローが集まる集団になると思っている。私の考え方を聞いてなんじゃと思う人と頼もしいと思う人とまっぷたつに分かれると思うのだが、そのほうがわかりやすくていい。はっきり言って自分勝手なアウトローはうちのクラブには必要ないし、そんな気持ちなんてわかろうとも思わない。むしろ今は真面目に生きている人たちのほうがそんをする時代だ、そういうコツコツとまじめに生きてきた人たちを大事にしたいというのが私の考えだ。

「鉾とりて月見るごとに思ふかなあすはかばねの上に照かと」は新撰組の土方の辞世の句である。これは鉾を手に取って月を見るたびに思う。あすはしかばねの上に照るのかと・・・との心情を詠んだもので、彼の繊細さがこの詩にあらわれている。彼は鬼の福長と恐れられた男であるが、恋文などもいくつか残しており、実は彼は繊細な男ではなかったのではないかと思っている。土方が群れの秩序を正し守るために敵よりも見方を多く殺したことは有名な話だ。確かに今と昔の命の重さは違うが、しかしこれだけ繊細な詩を詠める人間がこれだけ人を殺しておいて傷つかないはずはないであろう。おそらく彼は最初から自分は生きていたらダメだと思っていたのではないか、自分で自分の死に場所を求めていたのではないかと思う。考え方や指針がぶれないというのは決して厚顔無恥や無神経であってはいけない。何かに傷つき感じなければ、人はついてこないし、その群れをうまくまとめていくことはできないであろう。私自身厚顔無恥でもないし無神経な男では決してない。発言したことや人に伝えたことは誰よりもよくわかっているつもりである。その上で嫌われたら嫌われたなりの責任をおって生きる。それができなきゃ偉そうに言えない。

 

 

 

 


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